第2話 【パルス】圭と儀式 その1

 僕は酷く怯えている自分に混乱していた。


 圭に会いたいのか会いたくないのか分からない。何故怯えているのかも分からない。自分が大人だとは思わないが、子供だとも思わない。


 ただ自分の事は自分が一番よく理解していると思っていた。


 死ぬのは僕等じゃないと思っていた。


 死ぬのは爺と婆ばかりで、僕等じゃないと思っていたんだ。


 たぶん僕が怯えているのは、そういう事だと思う。




 僕は糞田舎に住んでいる。


 佐々木の言葉を借りれば、田舎の極みに住んでいる。もちろんここより田舎で、ここより何も無い所はたくさんあるだろうが、それでもここが田舎だという事実は、住んでいる人間ならば誰しもが身に染みてよく理解しているし“田舎あるある”を言えと言われればすぐに十や二十挙げる事が出来る。鉄板ネタを披露すれば自虐的な笑いや、ちょっとした驚きで場を盛り上げる事も出来るだろう。




 だけれど東京から越してきた佐々木が事ある毎に、村の事を過疎地と呼ぶと、なんだか親兄弟の悪口を言われている様で、全く笑えなかった。


 僕に地元愛があるなんて僕自身驚きだけど、僕はこの何も無い田舎が結構好きだったのだなぁと思った。


 山と田畑しか無くても。人間よりも野生動物の方が多くても。結構好きだったのだと思う。






 一時間に一本運行の音ばかりデカくて、ゆっくり進む二両編成の黄色い電車が入ってくるのが見えると、ベンチから立ち上がって僕だけが電車に乗り込んだ。




 今日は初めて一人で電車に乗る。


 大丈夫。何も難しい事は無い。目的地まで行って降りればいいのだ。


 気を引き締めて車内を見渡すと、花と傘を両手で握りしめているのに気が付いて片手に持ち直した。手すりを掴んで、そっと周りを見渡すが誰も見ていない。


 そうさ、誰も僕を見ていない。




 このまま終点まで行って乗り換える。


 何度も確認した検索アプリをもう一度確認して、後方へと流れていく水滴を眺めるともなく眺めた。雨は上がって雲の間から太陽が遠慮がちに覗いている。


 天気予報は今日一日小雨が降ったり止んだりだと伝えていた。


 風景は何処まで進んでも田んぼばかりだ。米農家の長男なのに、一体誰がこんなに米を食うのだろう?と、思ってしまう。


 稲穂が 風になびいてイワシの群れの様に機敏に動く。まるでクジラから逃げている様だ。


 食われまいと逃げている。風が強い。




 山間の村で育ったせいか、昔から緑の稲が風になびく様をイワシの群れに見立てて空想する癖がある。海に囲まれた島国に住んでいるのに、肉眼で海を見たことが無い。


 飛行機にも乗った事が無いし、外国人も見たことが無い。渋滞に巻き込まれた事も無いし、行列に並んだ事も無い。


 それらの事は僕の人生に必要なのかもしれないし、必要で無いのかもしれないけれど、いつか海にも行ってみたいし、飛行機に乗って、外国人を見て、渋滞に巻き込まれて、何の行列か分からずに並んでみたい。がっかりしたっていいのだ。ただそういう選択肢がある事が今の僕には大事なんだと思う。




 電車は大げさな音を立てて各駅に止まり、知らない景色の中を進んでいく。


待っていろ、僕が助けてやる。きっと寂しがっているはずだと思ってから、寂しがっているのは僕の方かもしれないなと思った。




 幾つ目かの駅で、一目で運動部だとわかる背の高い高校生の集団が乗車して来た。


 皆口々に大声で話していて騒がしい。そろいのジャージの背中に学校名とバスケ部の刺繍がしてある。皆背が高い。




 僕は袖から延びた自分の腕を見て、ベルトの余った部分をくるくる巻いて時間をつぶすのを止めた。子供染みている。


 べルトを離すと萎びた昆布の様に垂れ下がったので、慌てて余った部分をきちんとベルト通しに通して、最後はベルトに挟み込んだ。




 ふと視線を上げると五メートルほど先の女子高生と目があった。続けて隣の二人と目が合う。彼女達はこっちを見て何か二言三言話してから可笑しそうに笑った。ずいぶんスカートが短いから、自然とそこに目がたどり着いてしまう。僕はこれ以上、彼女達を見ない様にさりげなく背を向けて、面白くもない車窓を熱心に眺めた。


 僕の一連の行動を見て笑っているのかもしれない、或いは小さい背丈の事かもしれないし、花を持っている事かもしれない。たぶん花を持っている事だろう。


 近所のスーパーで初めて花を買った。思えば今日は初めてづくしだ。


 ピンクのガーベラとカスミソウの小さな花束を買うのは、少しエッチな漫画を買うのと同じくらい緊張したけど、買った直後は何故か誇らしくもあった。




 たぶん僕にとって生きている人間の為に花を買う事は、精神的に熟練した行為だからだろう。母の日にカーネーションを一本買うのとはわけが違う。ピンクのガーベラは僕の内に秘めている内情を現している様で、急に人に見られるのが恥ずかしくなってきた。




 稲はまだクジラから逃げている。女子高生の笑い声が追いかけてくる。何がそんなに面白いのだろう? 目的の駅にはまだ着かない。




 スマートフォンを取り出してゲームを起動させると、悪い奴等を倒していく。育てた仲間は裏切らないし、文句も言わない。経験値をもらってレベルがあがる。火属性には水属性の攻撃を、闇属性には光属性の攻撃を仕掛ける。


 そこにはルールと秩序がある。そこには世界を救う使命がある。人生に揺ぎ無い目的がある事は、幸運だと思う。わき目も振らずにまっすぐ前を向いて突き進めばいい。




 春に入学して五カ月。


 卒業まで後二年半、この先どうなってしまうのだろうか?




 まさかこんな事になるなんて思わなかった。どんどん敵を倒していく。純粋に悪い敵。倒されるべき存在の悪い敵。


 単純な世界。


 実際の世界は複雑で混沌としている。手に負えない。何が正しくて何が間違っているのか、馬鹿な僕には理解できない。


 全然ゲームに集中出来ないでいる内に終点に着いた。乗り換えなければならない。




 降りたことの無い駅に着くと、向かいのホームに乗り換えの電車が停車していた。


 僕が乗ってきたこの電車を待っての発車なのだ。行先と出発時間が予定通りなのを電光掲示板で確認する。




 さっきの女子高生達は階段を上って行く。


 違うホームで乗り換えるか、ここが最寄りの駅なのだろう。その後ろを目配せした三人の男子高生がスカートの中を覗こうと屈みはじめたので、ぎょっとして見上げると、彼女達のスカートは風に舞いひらひらと揺れて、形の良い白い足が軽やかに駆けて行くところだった。


 女子高生達は話に夢中でこちらに気が付かない。そうこうしているうちに、一人の男子高生が小さくガッツポーズをして、三人は肩を組んでお互いを労うように背中や頭を叩いて行ってしまった。大きな仕事を成し遂げた様に、或いはワールドカップへの切符をつかみ取った選手の様に。




 僕が乗り換えの電車に乗ると、鼻先で扉は閉まりすぐに動き出した。


 遠ざかって行く景色を感傷的に眺めた。もしかしたら宇宙飛行士が遠ざかる地球を見る時に、こんな気分になるのかもしれないと思った。




                     ◇◇◇




 今年の初め、圭の母親が再婚して、一カ月後に圭の爺ちゃんが死んだ。


 圭達は再婚を期に爺ちゃんとは別に住んでいて、雪降ろし中に屋根から落ちた爺ちゃんを隣の人が見つけた。病気らしい病気をした事の無い丈夫な爺ちゃんだったけど、屋根から落ちて生き埋めになって死んだ。




 爺さんが死ぬ事は珍しくない。病気にしろ、事故にしろ、爺さんと婆さんは遅かれ早かれ死ぬものだ。僕は爺ちゃんが死んだ事を聞かされた時、爺ちゃんの事はあまり考えなかった。ひどい話だ。


 もちろん驚いたけれど、僕は爺ちゃんが死んでしまって悲しんでいるであろう、圭の心境ばかりを考えていた。何て言ってやればいいか、そんな事ばかり考えていた。




 何故なら圭は母親の結婚も快く思っていなかったし、駅前の家に引っ越さなければならないのも嫌がっていた。それに、昔から母親とそりが合わず爺ちゃん子だった。圭は爺ちゃんが大好きだったと思う。




 それなのに自分達が引っ越してすぐに、残された爺ちゃんが事故で死んだとなれば、あれこれ考えるだろう。引っ越さなければ雪下ろしを一人でしなかったかもしれないとか、落ちてもすぐに気が付いたかもしれないとか、出来なかった事を思い、出来たであろう、あれやこれやを思って後悔するのだ。




 だから、僕は圭になんて声をかければいいか、そんな事ばかり考えていたのだが、結局僕は圭に何も言えなかった。事態はもっと深刻かつ残酷だったのだ。




 今思い返してみても爺ちゃんの葬式は最低最悪だった。あれを葬式と呼ぶならば、あんな葬式は二度とごめんだと思う。


 もし圭が死んだら、またあの葬式が開かれるのかと思うと、憤りを通り越して悶え苦しむだろう。


 あの猛烈な疎外感と困惑による不安感は忘れられない。




 僕だけじゃない、参列者の大半が、世界から爪弾きにされていると思っただろう。皆戸惑い、これはどういう事かと訝しんでいた。




 白装束を着た人達が、揃いのピンバッチを付けて最前列に座り、先生と呼ばれるスーツ姿の人が、前世と今世の因果関係の話をしていた。


 今世で出会った人達は、前世からの深い繋がりで出会うべくして出会っているという内容の話だ。何故その人が先生と呼ばれているのか、爺ちゃんとどういう関係にあるのか、僕にはさっぱり理解できなかったけれど、なにより戸惑う大人達の様子に、僕は大いに戸惑った。




 後でわかったのだが、圭の母親の再婚相手は新興宗教の職に付いていて、職業が宗教家なのだそうだ。 


 宗教家なんていう職業がこの世にあるのを初めて知った訳だけど、僕はこれまでの事を思って納得し、同時にこれからの事を思って暗澹たる気持ちになった。


 そしてなにより、この葬式は爺ちゃんの為の葬式では無いと思った。




 だから僕は圭の服の袖を掴んで葬式から逃げ出したのだ。


 隙を見て「逃げよう。」と言った時、圭に拒否されるかもしれないと思ったけれど、圭は驚いた顔をしながらも力なくついてきた。




 後で圭が叱られたのかどうかは分からない。でも僕は間違った事はしていないと今でもそう思う。


 僕等は寒空の下、当ても無く歩いて結局僕の家に圭を連れて帰った。上着を着てくるのを忘れたし、何も無い田舎には何処にも行く所なんて無かったのだ。




 母さんにメールで居場所を伝えていたし、後で咎められる事も無かったから、たぶんそんなに大事にはならなかったのだと思う。




 死んだら何処へ行くかなんて興味がないけれど、死者を弔う葬式は、生きている人間の為のものだ。死んだ人間のものじゃない。だってもう死んでいるのだから。死んだら終わりだ。何一つ思い通りにならない。




                     ◇◇◇




 乗り換えた電車は予定通り進み、二十分ほどで目的地に着いた。改札を抜けて、停まっていた病院行のバスに乗り込んだ。


 いつの間にか風が止み、霧雨がねっとりと全てを包んでいる。猛烈に蒸し暑い。




 病院は少し山を登った所にある。


 冷房が効きすぎているバスはほとんどの停留所に止まらず通り過ぎた。




 手にした小さな花束を見ながら、先週行った圭の爺ちゃんの墓参りの事を思い出していた。


 死後の世界があるとは思わないけれど、会った事も無い神様より、灰になった爺ちゃんの方が信じられる。




 爺ちゃんは生き埋めになった時、どう思ったのだろう?逆さに埋まって、息が出来なくなった時、何を思っただろう?どうして爺ちゃんが死んだ時、僕はそんな事も考えなかったのだろう?


 きっと爺ちゃんは怖かったに違いない。寂しかったに違いない。もがいて、何とか生きようをしたに違いない。


 僕は阿呆だ。どうして考えなかったのだろう?


 心の中で爺ちゃんに呼びかける。圭を連れて行かないでほしい。圭を助けくれ。




「虹だ!」


 母親と二人連れの女の子が指を指す方向を見ると、綺麗な半円の虹が架かっている。


 大きな虹だ。




 バスはカーブの多い山道を登っていた。


 右側に座った乗客は、スマートフォンを取り出して写真を撮っている。


 虹を見てはしゃぐ女の子と、その母親に日の光が注いでいるのを見ていたら、美術の教科書に載っている宗教画を思い出した。実際にはあんな神々しさは無いし、どう見ても買い物帰りの田舎の親子だけど、とても幸せそうだ。




 同じものを見て同じ時を過ごしている。羨ましい。


 随分遠くまで来た。


 歯を噛み締める。


 僕が行ったらきっと圭は目覚める。きっと目覚める。死んだりしない。大丈夫だ。


 平和ボケしたピンクのガーベラを病室に飾ろう。




 もう一度窓の外を見ると、バスは唐突トンネルに入った。女の子が残念がっている。


 窓には一人ぼっちの僕が映っている。僕はこんな顔をしていただろうか。なんとも心許ない。


 トンネルを抜けると、虹はもう見えなかった。






 バスを降りると霧雨は止んでいたが、蒸し風呂の様な暑さだった。吸い込む空気が熱く、まとわりついてくる。




ツクツクボウシとミンミンゼミが鳴いている。僕は毎年この時期になると考える。蝉等は自分の命が後僅かしか残されていない事についてどう思っているのだろう。




 僕は逸る気持ちと憂鬱とが混在した複雑な心持ちで、帰りのバスの時間が検索アプリと相違がないか確認しに反対車線に渡った。田舎のバスの時刻表はしばしば変更がアプリに反映されていない事がある。今日病院へ来る事を事前に話していないから怪しまれない内に確実に帰らなければならないのだ。




 我ながら大胆な行動だと思う。しかしこうでもしなければ、圭に会う事は叶わないだろう。僕等の立場はその時々によって、大人の都合で子供にも大人にもなるのだ。


 駐車場を横目に通路を歩く。


 振り返ると木々の間から街が見える。病室からの眺めは良いだろう。




 とうとう来てしまった。


 入院棟は五階ほどの立派な建物だ。三階の窓に色とりどりの折り紙がたくさん貼られているのが見える。僕はそこにいるのであろう小さな子供達を思い、彼等と僕とでは、どちらが不幸なのだろうと考えた。たぶん僕も彼等も幸福では無いのだろうと思って、考えるのを止めた。幸福か不幸かなんて、人それぞれ基準が違う。それより病室からさっきの虹が見えていたら良いなと思った。




 受付で名前を書いて名札をもらい、教えてもらった通りに吹き抜けのラウンジに向かった。子供が一人で面会なんて怪しまれるかと思ったが、親切に説明してくれた。




 ふと、毛足の長いカーペットの上を歩いている様な感覚に、僕は苦笑いで足元をじっと見た。実際は靴音が響くピカピカに磨き上げられた、白い床を歩いていたからだ。凄く緊張しているのだろう。床も壁も天井も白い。静かな音量でクラシックがかかっている。




 外来に向かう通路は照明がおとされ、円形のラウンジだけが明るい。今日は土曜日だから外来は休診なのかもしれない。


 グランドピアノの傍にはテーブルと椅子が三組置いてある。なんだか海の底にいる様だ。吹き抜けの天井は高く明るい海面を思わせた。脇にエレベーターが二台あって、透明な円柱が上へと延びている。まるでホテルだ。




 匠が熟練の技で仕上げた工芸品の様な銀色の丸いボタンを押すと、上級のピアニストが放った様な一音が鳴り、滑らかに開いたドアに、おずおずと乗り込んだ。


 エレベーターの奥はガラス張りで、ラウンジが見渡せる様になっている。扉が閉まると静かにエレベーターは海面へ向かって上がって行く。


 海底が遠のいて行くのを、僕は残念な気持ちで眺めた。


 再び扉が開いた時、僕はラウンジの椅子に座って少し休むべきだったなと思った。




 五階で降りると、あたりまえだけれどそこは海面でも異世界でもなく、消毒液に生活臭が混じった独特な匂いのする場所だった。




 病室は吹き抜けを囲んで並んでいて、扉は閉ざされ誰も居ない。隣の棟へ続く廊下にも人気がない。何者かが侵入した後の巣のようにひっそりとしている。いつも混んでいる村の診療所と大違いだ。




 ナースステーションにいた看護師に声をかけた。


「あの、すみません。お見舞いに来たんですけど。」


 僕は出来るだけ大人っぽく聞こえる様に話した。ここまで来て追い返されるのだけは嫌だった。だから身分証の様に夏休みにもかかわらず制服を着て来たのだ。二人のうち小太りで胸が大きい方がペンを胸ポケットから取り出しながら対応してくれた。


「ここに、あなたのお名前と患者さんのお名前を記入してください。」


 僕は少しふえる手で村上聡と村上圭と記入する。


「村上さんね?一人で来られたの?ご兄弟?」


「はい。」


 僕と圭は兄弟じゃない。僕の名前は中村聡という。ポケットに隠した名札辺りに手をやって、冷や冷やしながら答えると、看護師は感心した様に頷いた。


「面会時間は八時までです。でも駅方面のバスの最終時間は六時四十分です。それを逃すとタクシーを呼ばなくちゃならなくなるから気を付けてね。」


 胸の大きな看護師は活舌よく話した。


「はい。一時間後のバスで帰ります。」


「そうですか。圭さんは喉に管が入っているので話せません。親御さんから聞いているかな?肺に水が溜まっているの。手を消毒してマスクをしてください。案内します。」と言うと、院内感染の注意事項が書かれた紙とマスクを僕に渡たして、すぐに歩き始めた。


 看護師の手に薬の名前と数字が走り書きしてある。


 キビキビと歩く後ろ姿に慌ててついて行きながら、制服が少し窮屈そうだなと思った。




 部屋番号の下の名前プレートを見ながら、いくつかの扉を通り過ぎて行く。


 どれも一人部屋だ。看護師は、まるで訓練された麻薬犬の様に一つの扉の前で静かに立ち止まると、はっきりと二回ノックして声掛けしながら入って行く。




 村上圭




 プレートに書かれた名前は思わぬところから出てきた探し物のように戸惑いを持って僕を迎えた。入らなければならないが、ここに来て入りたくない。




 カーテンの隙間から、圭が頭を向こうにしてベッドに寝ているのが見える。


 何故だろう?空気が淀んでいる。むっとした空気を吸うと、吸った分だけ死に近づいてしまう気がする。そんな空気だ。




「手足を繋いでいるのは無意識に点滴を抜いてしまうからなの。びっくりしたんじゃない?」


 たぶんびっくりした顔をしていたのだろう。看護師は点滴の残量を確かめながら僕の顔をチラリと見てそう言った。


「いえ、親から聞いていたので大丈夫です。」


 僕の声は思いのほか心許なく、恥ずかしくなって語尾が不明瞭になったが、看護師は気にした様子もなく圭に話かけながら、慣れた手つきで圭の身体の下にクッションを挟み込んだ。床擦れ防止に向きを変えるのだ。向こうを向いてしまった圭の、鳥の巣の様に絡まった後頭部が見える。




 僕の目線を追ったのか看護師は圭の後頭部を軽く撫でると、サイドテーブルから花瓶を出して僕に渡してくれた。


 僕は渡された花瓶をしばらく眺めて、花を持って来たことを思い出して、お礼を言った。


 そうだ、花を持って来たのだった。そんな様子の僕を見て看護師は心配そうに少し笑ったが、何かあったらナースコールを押すようにと言ってすぐに病室を出て行った。




 暑い。


 呼吸する度、肺が死の空気で満ちて来る。




 急にどこか高い位置から俯瞰して誰かに見られている様な気がして、僕はカメレオンの様に生気を殺して、ゆっくりとパイプ椅子に腰かけた。


 何故そんな事を思ったのかはわからない。いや、ただただ僕は気圧されたのだろう。圧倒的な死の気配に。自分の生気が異質な物に感じてしまうほどに。圧倒されて、弾き飛ばされたのだ。




 きっと俯瞰して見ているのは、拭き飛ばされた僕自身だ。意気地がないのだ。


嗚呼、受け止めきれないよ。散々覚悟して来たつもりだったのに。どうしろって言うのだろう。僕にどうしろって言うのだろう。右手に花と花瓶を抱えたまま、左手で口を覆って息を吸った。


 嗚呼そうか、誰もそんな事言って無い。僕が勝手に、どうにかしてやろうと意気込んで、やって来たのだった。 




 鼻の奥が痛い。


 怖いな、と僕は思った。怖いよ。


 とにかく怖くてたまらない。圭、おまえは死ぬのか?




 しばらく無理やり酸素を送られて大きく上下する圭の胸をぼんやりと見ていた。


 生きている人間はこんな風に呼吸をしない。部屋が暑いのは人工呼吸器を動かしている大きな箱が原因の様だ。バッテリーだろうか?




 圭の胸は、心臓マッサージを練習する人形の胸の様に現実味が無い。何時だったか、小学校の体育館に集められて、消防団の人が人形の口に息を吹き込むのを、僕等は皆キャーキャー言って先生に怒られた。


 心臓マッサージは、肋骨が折れても六センチ沈み込むまで押さないと意味がない。あの日、隣に圭も居た。笑っていたかもしれないし、笑っていなかったかもしれない。圭の胸は馬鹿みたいに膨らんで、馬鹿みたいに沈んでいく。




 ベッドの脇に尿袋が垂れ下がっている。ほとんど尿は入っていないが、少し赤いのは血尿が出ているのかもしれない。特大の黄色い点滴薬と、透明な点滴薬が圭の中に入っていく。


 血圧の数値が時々変わり、人工呼吸器の大きな音と心電図の電子音が、開かずの踏切の様に響いている。窓枠に切り取られた四角い空は余りにも小さい。




 ここは何だろう。この世の果てか?


 僕が死んだって明日も定刻通りに太陽は昇り、定刻通りに沈むだろう。そんな事はわかっている。


 誰が死んだって何も変わらない。圭が死んだって何も変わらないだろう。田舎の中学生が一人いなくなるだけだ。


 花なんて持ってくるんじゃなかった。




 僕は点滴の管を手当たり次第に引っこ抜いてやりたい衝動が、通り過ぎるのを身じろぎせずに待った。


 買ってもらえない商品を手に地団駄を踏む子供の様に、不当な扱いを世界に向って糾弾したい。


 救助を待つ遭難者の様に旗を思い切り振って生存を知らせたい。


 天に向かって叫びたい。


 僕は何と叫べばいいのだろう?


 祈りの言葉か?呪いの言葉か?


 わからない。まるで分からない。


 遮断機の前で通り過ぎるのを待つ。


 地団駄も踏まず、糾弾もせず、何も知らせず、何も叫ばず。目を瞑って。


 衝動が通り過ぎるのを待つ。






 帰りのバスの時間まで僕はこの世の果てみたいな場所で圭を見守った。


 僕に出来る事はそれしか無かった。


 テレビドラマの様に、身体をゆすって「圭!帰って来い!」と叫びもせず、ただ圭を馬鹿みたいに見ていた。




 圭に触れるのが怖い。投げ出された腕も足も、管が入った口も圭であって圭でない。そんな気がしてならなかった。圭に触れたとたんにそれが、真実になってしまいそうな、取り返しのつかない事実が明るみにされてしまう様なそんな気がした。




 腕時計の秒針がぐるぐる回って、四角い窓の中を飛行機雲がどんどん伸びていくのを、黙って見送った。


 僕は、いったい何をしにここへ来たのだろう?圭は僕の事など待っていなかった。


 長針と短針が重なった時、僕は仕掛け時計に内臓された人形の様に、ゆっくりと椅子から立ち上がって、持っていた花瓶をサイドテーブルに戻すと、看護師が忘れて行った銀色の医療用ハサミを見た。




 圭の目は硬く閉じられている。管の隙間から少し癖のある歯並びが見えて、そこで初めて、これは本物の圭に違いないと思った。




 本物の圭に会えるのはこれが最後かもしれない。


意を決して圭の腕をそっと掴むと圭はまだ暖かかった。鳥の巣の様な後頭部を撫でて、ハサミを持つと髪の毛を一房切り落とした。


 そのままポケットに手を突っ込むと、花束を持って病室を出た。




 圭の一部を手に入れた僅かな高揚感と、失ってしまうであろう未来を思いながらバスを待った。


 最寄りの駅に降りた時、萎れた花束をゴミ箱に投げ入れた。


 何か大事な約束を反故にしてしまった後の様な後ろめたさが、夕闇と一緒に僕を包んだが、ポケットの中の一房が、僕を勇気づけた。


 病室に傘を忘れて来た事に気が付いたのは、それから十日も経った後だった。

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