境界のパルス
本邊侑
第1話 【境界】僕と黒い鳥の詩 その1
人間の人生は突然には始まらない。
一番古い記憶は曖昧で断片的だけれども、確かに存在して持っている。
生れた時の事なんて覚えてないし、歳を追う毎に新しい記憶が刻まれて、古い記憶は押し出されて、忘れてしまった事にも気が付かない記憶が増えるけれど、それでも今までの記憶が僕を僕たらしめている。
だけど僕の人生は突然に始まった。
古い映写機にセットするフィルムみたいに、三、二、一、のカウントダウンで始まった。
そう、気が付くと僕は、白い砂地を、足を引きずって歩いていた。
驚いて足を止めると、不安になるほど辺りは静かになった。
俯いた視界に、乾いた風が砂を巻き上げ吹いてきて、履いている黒いスニーカーは真っ白だ。
奇妙な事に、雨も降っていないのに僕はびしょ濡れだった。
滴が渇いた大地に灰色のシミを作っている。
今しがた水からあがった様に、たっぷり水を吸った黒い学生パンツと晒しのシャツが、体にぴったりと張り付いて気持ち悪い。手には何も持っていない。寒くも無いのに震えている。
見渡せば茫漠とした白い砂利が、太陽の光を受けて眩しい。
ここは何処だろう?酷く疲れている。
左はコンクリートブロックで補整した、人口の土手が高く視界を塞ぎ、ずっと向こうまで続いていて、右は見渡す限りの荒野だ。背の低い木がまばらに生えている他には、建物らしい物も人影も道も無い。
遠くに巨大な岩山が見えるが、対照物が無いので、どれくらい離れているのか見当もつかない。二時間も歩けば到達出来る様な気もするし、丸二日歩いても着かない様な気もする。土は白く乾いていて、イソギンチャクの様な草が点在している。
動物の骨が転がっていても驚かないだろう。
タイムスリップでもしたのだろうか?それとも瞬間移動?異世界召喚?頭がぼんやりしている。そのせいか、自分でも驚くくらいに冷静だ。
五十メートルほど先の土手側面に、ポッカリと入り口が影を落としている。
僕は何処から来て、何処へ向かっているのだろう?
それにしても、なんだってこんなに疲れているのだろう?一歩だって歩きたくない。指一本だって動かしたくない。息をするのも面倒だ。長時間プールで泳いだ後の様に体が重い。いや、それ以上だろう。何処か体が悪いのかもしれない。心配になって体を触って異常が無いか確かめたが、これと言って特に痛い所は無かった。
後ろを振り返るが前も後ろも同じ景色だ。とにかく一刻も早く横になりたい。他に行くべき場所も見つけられないし、僕は重い足をどうにか交互に動かして、土手の入り口を目指して歩いた。歩くと砂利を踏む音が響き渡る。
太陽はくっきりと僕を捕えている。雲一つない。鳥一羽飛んでいない。自分の息使いが大きくて、意識すればするほど、今までどうやって息をしていたかわからなくなる。
ようやっと入り口に辿りつくと、そこには地下道へと続く階段が延びていた。冷たくカビ臭い風が鼓膜を震わせる。たぶん土手の向う側に繋がっているのだろう。両端に白い砂が積もっている。
二段ほど階段を降りて、ふと自分が何者なのか覚えていない事に気が付いた。
髪から滴が落ちる。
「あれ?」つぶやいたとたんに咳き込んだ。何度も唾を飲むが、口の中がカラカラに乾いていて上手くいかない。
僕は僕が誰かも分からず、今いる場所が何処かも分からない。
のろのろと水で張り付いた学生パンツのポケットを探るも何も入っていない。
僕はその場に呆然と座ると、僕について考えてみようと試みた。だけど何かを考えるには疲れ過ぎていた。考えがまとまらずに、頭を振ると振った拍子によろけてしまうし、気を抜くと意識を保つのも困難で、ただ手のひらを意味も無く見つめてしまう。
僕は誰で、僕は何処から来て、僕は何処へ向かっているのだろう?
振り返るとさっき見た巨大な岩山が見える。ここが日本なら世界遺産に登録すべく自治体がキャンペーンを組むだろう。
・・・どうでもいい事ばかり思いつくなぁ。
持てる気力を振り絞って、僕は階段を下りた。じっとしていると足元から蔓科の植物に絡めとられる様に不安が這い上がって来る。
地下道へ出ると、僕は思わず声を上げた。
地下道は思いのほか長く、二百メートルはあるだろう。出口は見えない。天井に付いている蛍光灯が等間隔に四角い光の輪になって連なっているので、このまま進めばワープでもするのではないかと思ってしまう。だけど楽しい気分にはなれなかった。
薄暗い通路は炭鉱の坑道や戦時下の防空壕を連想させ、ワープ出来たとしても決して楽しい場所ではないだろう。なにより今の体力で歩いて向こうまでたどり着けるか怪しい。
座標を決めずにワープすれば、時空の狭間に落ちてしまうかもしれないな。と、また、くだらない事を思った。
見上げる天井は低く、ジャンプすれば手が届きそうな高さで、その為か蛍光灯には鉄格子のカバーが付いている。道幅は三メートルほど。コンクリート製で、雨水が漏れた跡が大小様々な模様を作りだしていて、古代人が描いた宇宙の始まりの絵だと言われればそう見えなくもない仕上がりだ。
そこを千鳥足の酔っぱらいの様に歩いた。まっすぐ歩くのが難しい。蛇行する度に両足に向ってそれぞれ『蛇行するな』と伝えなければならない。何だか愉快な気分にさえなる。笑いながらぐらぐらと歩く姿は、さぞかし異様だろうと思うと、ますます愉快な気分になって困った。
この非常時に何を考えているのだろう。たぶん頭が混乱しているのだ。それでも二回転倒すると、さすがに少し冷静になり、強かに打ち付けた顔をさすった。受け身を取ろうと手をついても、ぐにゃりと肘が曲がってスローモーションで地面が近づいて来る。それほど痛くないのは、頭がぼんやりしていて痛みに鈍感になっている証拠だ。
僕は未成年だから酒に酔って夜道を愉快に歩いた事は無いけれど、人目を憚らず歌を歌う気持ちが、今なら少し分かる気がする。まっすぐに歩けないだけで、こんなに愉快な気分になるのだ。歌も歌いたくなるだろう。
とぼとぼと歩いていると猛烈な睡魔が襲って来た。ここで眠ってしまいたい。意識が散漫で集中しなければ本当に眠ってしまいそうだ。そこで出口近くの点滅している蛍光灯を睨み付けて歩く事にした。しかし目玉のピントも上手く調節出来ない。
しばらくチカチカと不規則に瞬くそれを見て歩いていると、今度はそれがモールス信号の様に思えて、また可笑しさが込み上げてきたが、電気が付いているという事は人が居るのだと思うと、急に緊張して来た。
人に会ったら何と言おう?記憶喪失だと言ったら信じてもらえるだろうか?最初に会う奴がチンピラだったらどうしよう?そもそも言葉が通じるのか?捕えられて酷い目に遭うのではないか?
すると今度はモールス信号の内容が良くない事の様に思えて来た。勿論妄想だ。
モールス信号なんて解読できない。だけれど、頭が幾分動き出すと、嫌なイメージしか浮かばなくなって来る。
引き返せと伝えているのではないか?この先危険と知らせているのではないか?
地下道はひんやりしていて外より三℃ほど低い様に思う。いつの間にか身体はすっかり冷えてしまった。
振り返るとまだ半分ほどしか進んでいない。
震える身体を抱えながら、内臓が震えるのは寒さのせいばかりでは無いなと思った。底知れぬ不安に震えているのだ。
そりゃそうさ。無理もない。
なぜ雨も降っていないのにずぶ濡れなのだ?濡れたスニーカーは一歩踏み出す度に水が漏れ出て不愉快極まりない。
暑さに負けて水浴びをしたにしても、さっき見た荒涼とした風景の中に、水辺など見えなかった。
そこでふと天井を見上げて、今まさに川の底を歩いているのではないかと思い当たった。
ここは対岸を繋ぐ地下道ではないか?
いや、待てよ。川を渡るのにわざわざ地下道を掘るだろうか?橋を架ければいいではないか?そもそも、いくら暑いからといっても制服のまま靴も脱がずに水浴びをする馬鹿はいないだろう。・・・
流されて来たとしたら?上流から?地下道の出口を出ても変わらず何もなかったら、どうすればいい?もしや、来た道を戻っているとしたら?
不安になって振り返り床を見たが、蛇行する足跡は風に吹き消されようとしている。
考えるまいと思ったそばから、まるで出土した化石の様に嫌な考えが頭をもたげ、足を止めた。
水中から上がった時の様にクリアに風の音が聞こえ、息苦しさから解放されて視界がはっきりしてきた。今まで経験したことの無い不思議な感覚だ。
出土した化石の砂が崩れ落ちていく様に、頭の中のイメージが少しずつ露わになっていく。
とても嫌なイメージだ。
ぶるぶると獣の様に頭を振って、膝から崩れ落ちた。泡立った皮膚から冷汗が噴き出る。
考えるまい。
目を瞑って、ゆっくりと息を吐いた。
僕は誰で、僕は何処から来て、僕は何処へ向かっている?
「嗚呼。」寒い。
僕は意味の無い声を上げながら、立ち上がって得体のしれない何かから逃げるように地下道を歩いた。気持ちは全速力で走っていたのだが、どうしても身体が言うことを聞いてくれないのだ。こんな重い身体なんて捨ててしまいたい。一つの考えで頭がいっぱいになっていくのを止める事が出来無い。
そんなはずはない。
出土したイメージを埋め戻す。
そんなはずはない。
僕は何とか地下道を歩き切り、最後の気力を振り絞って、なりふり構わず四つん這いで階段を上った。頭上に四角く切り取られた青空が見える。
嘘だろう?
階段を上がる。
僕は死んでしまったのではないだろうか?
階段を上がる。
嘘だろう?
もうすぐ出口だ。
だとしたら、ここはあの世か?
涙が溢れる。
最後の一段を上がり切って倒れ込むと、眩い光に目を瞑った。
こんなに苦しいのだ、死んでいるはずがない。
苦しくて肩で息をする。
僕は生きている。
だけど、もう一歩も動く気力がない。薄目に小屋が見えるが、瞼が重く僕は意識を手放さざるお得えなかった。
僕は生きている。そうだろう?
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