第4話 【パルス】圭と儀式  その2

  僕は小学三年生から約四年間、圭を放って置いた。


 意図的に放って置いたつもりは無かったけれど、結果的にそういう事になる。そしてそれをとても後悔している。




 考えてみれば、圭が僕の人生の中で居なかった事がない。僕は圭と共に生きて来たのだ。僕には今年大学生になる姉が居るが、歳が離れているので、喧嘩らしい喧嘩もした事がないし、六つ上の姉は僕にとって、常に子供側の人間ではなく大人側の人間だった。一人っ子の圭と僕は同い年という事もあって本当の兄弟の様に育った。




 圭に初めて会った時の事は覚えていない。物心付いた時には既に圭はそこに存在していて、僕の小さな世界の大部分を占めていた。  




 小学校二年生あたりまで僕等は毎日の様に一緒に遊んでいたのだ。近所に居る洋平と圭と僕の三人で、朝から晩まで駆けずり回り、小さな秘密を共有したり、些細な事で喧嘩したり、塀から落ちて洋平が腕を折ったり、圭の靴が川に流されたり、僕が頭に傷跡の残る怪我をしたり、泣いたり笑ったり、一日が短くて明日が楽しみな、そんな日々があったのだ。




 しかし三年生のある日、洋平が「圭は女だから、もう一緒に遊ばない。」と宣言して、僕等の関係はそれまでとは違ったものになってしまった。


 僕も圭も驚いたが、たぶん洋平は、誰かに女子と遊んでいる事を冷やかされたのだろうと思う。


 確か、他の皆は男女別に遊んでいるとか、僕等だけおかしいとか、そんな事を主張されて、それに見合う反論が出来なかったのである。いいや、違うな、半ば強引に同意を求められた僕は、その宣言に反対する勇気が無かったのだ。もしかしたら僕の知らないところで、洋平と圭の間に何か決裂する出来事があったのかもしれないけれど、僕にはわからない。




 その頃の僕の気持ちは萎んだ風船の様に皺くちゃで、婆さんの膝小僧の様にカサカサだった。


 だけどどうしていいかわからなかった。三人が三人共に虚勢を張って過ごしていた。あんなに毎日一緒にいたのに、洋平の宣言は金石に刻まれた銘文の様に枷となって僕の行動を制限した。そうこうしているうちに四年もの歳月が流れたのだ。




 圭はあからさまに傷ついた顔をしなかったが、宣言を言い渡された直後は、暴風雪の中を一人で立っているような気持ちだっただろうと思う。とは言え家は近所だし、僕の母親は過度な世話焼きだったので顔を合わせる機会が減る事は無かった。それに圭が問題を抱えている事も知っていたので、顔を合わせれば二、三話して、手の届かない微妙な距離を、要人を乗せた車列の車間距離の様に、気を張って保っていた。




 だけど日を追うごとに圭と僕との間に堅牢な城壁が高さを増していき、濃い影を落としたのだ。


 だから圭の爺ちゃんの葬式を、圭と二人で逃げ出したあの時、二人きりで過ごしたのは本当に久しぶりだった。ほとんど喋らなかったけれど、あの行動こそが圭の信頼を勝ち得たのだと僕は思っている。




 IDを交換した時、本当に嬉しかったのだ。


 いつもなら面倒な散歩も(華という名の十歳になる雌の雑種を飼っている)鼻歌交じりで足取りも軽く、こんな事ならもっと早く話しかければよかったと悔やんだ。


 それでも、これから関係が改善されて行くのだろうと思うと、自然と笑みがこぼれてしまうのを抑える事が出来なかった。




 僕は楽観的だった。しかしながら遅かったのだ。あの時手放すべきじゃなかった。おそらく僕には何も出来ないだろうけれども、万が一にも違った未来があったのではないか?そう思わずにはいられない。








 中学校の入学式を十日後に控えたある日。圭が家出した。


 家出といっても新居から元の爺ちゃん家に帰っただけなのだが、中学生が一人で住むには大きすぎる家だし、誰が聞いたって非常識で現実的では無かったけれど、圭は本気で家出を継続する気でいた。


 しかし幸子さん(圭の母親)は傍目にもヒステリー気味で、二人で話すと感情的になりすぎて話が前に進まないという話になり、それでどういう訳か三日目にして僕の母親が間に入る事になった。




 家が近いし、村八分になった幸子さんの話を未だに聞いてやっているのはたぶん、うちの母ちゃんだけだと思う。そのことで父ちゃんと母ちゃんは口論が絶えなかった。


 父ちゃんと爺ちゃんは圭達と距離を置きたいのだ。抑えた声ってどうしてあんなに耳に入り易いのだろう。普通に話していた方が耳に入らないのでないかと思う。




 僕はといえば、春まつりの準備と神社で奉納する舞いの練習に浮かれていた。


 今年から舞いに参加出来るので、文字通り本当に舞い上がっていたのだ。だけど、圭が参加していない事は知っていたし、あんな葬式の後だから家出するのも無理無いと思っていた。




 それに宗教家とも母親とも折り合いが悪いのだ。何処に落とし所があるのか、僕には絶望的に思えた。中学生の僕等に出来る事は限られている。




 圭とは葬式以来ちょくちょく連絡を取り合っていて、色々な事を話した。それこそ最近ハマっている音楽から、お笑い芸人や漫画などのたわいない話や、母親と宗教家との具体的なやり取りまで、ほとんどSNSで直接は話さなかったけれど、愚痴を聞いて、時々意見やアドバイスをして、少しずつ失った時間を取り戻していると思っていた。 




 けれど同時に、圭の求めている未来はきっと来ないだろうとも思っていた。


 圭の母親は宗教家と離婚しないし、新しく建てたヨーロッパ風の黄色い外壁の家に、宗教家と三人仲睦まじく住まなくちゃならない。




 きっと、僕等が思っているより早く、圭は連れ戻されるだろうと思っていた。


 籠城四日目に昼前に食い物を持って、母ちゃんと圭の様子を見に行く事になった。


 都会と違ってコンビニなんて無いから、手軽に食べられる物なんてカップラーメンくらいだけれど、毎日それと言う訳にもいかない。 


 母ちゃんは圭の様子を見に行って、幸子さんに報告するつもりのようだった。






 母さんはいつもの調子で、呼び鈴も押さずに玄関の戸を開けながら「圭ちゃん入るわよ~。」と言って無遠慮に台所へと入って行く。事前に約束していたとはいえ、緊張している僕が馬鹿みたいだ。一人で玄関に立っているわけにもいかず、食卓に座って圭を待った。すぐに二階から降りてくる音がする。


「おばちゃん、ありがとう。」


 圭はやかんに火をかけている母さんの背中にそう言うと、僕を見て笑った。元気そうだ。


「あら?圭ちゃん、寝てた?あんまり寝ると目が腐るわよ!二人とも手を洗ってらっしゃい。食べたら、おばちゃんすぐに行かなくちゃならないから。」




 圭は台所の流しで手を洗い、お茶を入れ始めたので、僕は邪魔にならない様に脱衣所にある洗面で手を洗った。鏡に映る顔を見て慌てて引き締める。遊びに来ている訳じゃないのだ。




 煮つけを食べながら、母さんはいつもの様に一人で喋っては大きな声で笑って、神業の様に一番に食べ終わると、急にトーンを落として、圭に幸子さんときちんと話せと言った。この話になるとさすがに空気が重くなる。




 圭も僕と母さんに迷惑をかけている事を十分自覚しているので、神妙に聞いてはいたが、そう簡単に考えは変わらない。


「おばちゃんだって、見たでしょ?あいつらに洗脳されてんだよ!話が通じないんだって。もう一緒の空気を吸うのも嫌だ。」


圭は味噌汁を飲み干すと空になったお椀を見つめて、そう言った。


 もう何度も熟考した末の言葉なのだ。




「だけどね、圭ちゃん。幸ちゃんはこれからもずっと圭ちゃんのお母さんなのよ?本当に親子の縁を切ろうと思ったら、裁判所で争わなくちゃならないのよ?それでも認められるかって言ったら、おばちゃん、難しいと思うなぁ。」


「別に親子の縁を切りたい訳じゃないんです。頭のおかしい連中と縁を切って、母さんと二人でこの家に元通り住みたいだけなんです。」


 消沈した声音に、母さんは細いため息をついた。


「おばちゃんもね。幸ちゃんを全面的に応援している訳じゃないの。でも圭ちゃんの応援も出来ない。両方が少しずつ歩み寄るしかないと思うのよ。」


「歩み寄っていたら、こうなったんです!」圭の声には静かだが悲壮感が溢れ出ている。


「圭ちゃん。これは聡にも話した事が無い事だけど、実はね幸ちゃんが結婚する時、おばちゃんは反対したのよ。」




 圭も僕も初めて聞く話に顔を上げた。


「圭ちゃんの事を考えるべきだと言ったわ、そうしたら幸ちゃんは圭ちゃんの事を考えたからこそ、結婚するのだと言ったわ。形はどうあれ、それは嘘じゃないと思う。何回でも話すのよ!時間をかけて、諦めちゃだめよ!もしかしたら何年もかかるかもしれない。でもね急いで答えを出すべきじゃないと思うよ。」




 母さんの言う事も分かるけれど、僕は何年もこんな話し合いを続けなきゃならないなんて、考えただけでゾッとすると思ったし、向こうは大人二人でこちらは圭一人なのだ。何も口出ししなかったけれど、見え透いた奇弁だと思った。




 母さんは、話は終わりだと言わんばかりに手を叩くと「おばちゃん作業があるから帰るけど、今日は聡、舞いの練習無いみたいだから、おいて行くわ。悪いけど圭ちゃん面倒見てやってね!」と、言って僕の背中をバンバンと叩いた。


 なにをどう面倒見るのか、酷い言い草に腹が立ったけれど、叩かれた事にだけ抗議の声を上げる。


「ネバーギブアップよ!」


 母さんは謎の言葉とファイティングポーズをとると車のカギを引っ掴んで慌ただしく出て行った。




 それから静かになった居間で二人でお茶を飲んで、後片付けをして、クイズ番組を見た。


「圭。母さんの言った事はあんまり気にしなくていいと思うよ。」


「ううん。心配してくれてるから、ありがたい。おばちゃんみたいなん母さんが良かった。」


「え~?どこが良いんだよ?ずっと喋ってるんだぞ?うるさいぞ~。なによりデリカシーが無い。」


「っふふ。確かにデリカシーは無さそうだな。でもそこがおばちゃんの良い所だよ。」




 居間の隅にキャリーバックが置かれている。


「あれ荷物か?」キャリーバックを指さして圭を見ると、渋い顔で頷いた。話には聞いていたが確かにあの大きさのキャリーバックをここまで運んでくるのは相当骨が折れただろう。


「まだ、荷物はあっちの家なんだろ?」


「うん。少しずつ持ってこようと思ってる。」


「なんか手伝って欲しい事があったら言えよ?」


「うん。ありがとう。」




 圭はとてもスマートに『ありがとう』と言う。


 僕なんかは照れくささが勝ってしまってなかなか素直にお礼を言えないし、言われれば見習おうと思うのだが、実践出来たことは今まで一度も無い。ご飯を食べ始める時も『いただきます』と言い、食べ終わったら必ず『ごちそうさまでした』と言う。


 誰も言わなくても圭だけはきちんと決められた儀式の様に必ず手を合わせる。良く言えば真面目で、悪く言えば頑固な所がある。




「そうだ。圭。餅を持って来たんだよ。豆とヨモギ。好きだろ?腹が減ったら焼いて食えよ。」


 居間の入り口に置き忘れていたビニールを渡すと、早速覗き込んでいる。


「ありがとう。わぁ!デカい!」


「おう。焼いている時、見張って無いとトースターの天井に引っ付くから気を付けろよ。」


「ふふ。小さい時餅つきで、聡が餅を落として大変だったの覚えている?」


「うるさいよ。あれは、手水が少なかったたんだ!僕のせいじゃない。」




 昔、杵に餅がくっついて地面に落ちてしまった事を言っているのだ。


 それで僕は大泣きして、落ちた餅を洗って皆が食べている時も、駄々を捏ねて一口も食べなかった。正月が来るたびに誰かに一度は言われる。たぶん死ぬまで言われるのだろう。




「圭は。部活何に入るか決めた?」話を蒸し返したくなくて、強引に話題を振る。


「あ~。うん。陸上部。走るの好きだし。一人でも走れるしね。聡は?」


「僕は・・・、パソコン部かなぁ」


一人でも走れると言う圭の言葉の、小さな暗がりにドキリとする。


「くらいなぁ。」


「え?」一瞬心の声が出てただろうかと焦ったが、パソコン部が暗いと言っているのだ。


「ははっ。しょうがないだろ。運動全般苦手なんだよ。でもタッチタイピングは上達したよ。」僕はキーボードを打つジェスチャーをしたが、疑わし気な目で見られた。


「どうせ。エロサイトばっか見る部だろ?」


「違うよ、そういうのはブロックが掛かってて見れない様になってるんだよ!」


「詳しい!ますます怪しいなぁ。」


 圭は面白そうに笑った。


「何だよそれ。それより、どうすんだよ。ここから中学通うの?」


「うん。ここからの方が近いし。おばちゃんには悪いんだけどさ。私と宗教家どっちを選ぶか、母さん次第なんだよ。そういう事なんだよ。」


 圭は餅から目を離さずにそう言った。


 テレビのクイズ番組は終盤を迎えて、得点が倍になるとMCが告げている。


「そうか。」


「うん。」と、言って笑った圭の顔からは何も読み取れなかった。






 その日の夜、何の前触れも無くSNSで圭に呼び出された。


圭「聡、今日の夜中抜け出せる?家に来て欲しいんだけど。」




この文言を画面で見た時、五回は読み返したと思う。


抜け出すという事は秘密裏に来いという事だ。




聡「いいよ。何時に行けばいい?」


圭「おばちゃん達何時に寝るの?」


聡「十二時くらいまで起きているよ」


圭「おばちゃん達寝たら来て」


聡「OK。何かあった?」


圭「うん。家で話す。ごめん。」


聡「いいよ。出る時連絡する」


圭「あっ。懐中電灯持って来て。あと、厚着で!」


聡「ん?」


圭「外、出るから。懐中電灯忘れないでね。」




 田舎の夜は、月が出ていても、場所によっては懐中電灯無しではとても歩けない。


聡「あいよ。」と返事しながら不安に思った。




 夜中に友達に呼び出された事なんて今まで一度も無い。


 昼間会った時には何も言っていなかった。何かあるなら昼間の内に言うだろう。突然に何かが起こったのか、突然に思いついたのか?


 時計は八時前を差している。懐中電灯がきちんと点くか確認して、リュックに入れた。それから皆が寝静まるのをやきもきしながら待った。




 深夜、皆が寝静まった後、勝手口から抜け出して、自転車で十五分ほどの圭の籠城先に向かった。 昼間に歩いたばかりの道を夜中に戻って行くのは、巻き戻しの映像を見ている様でとても奇妙な感じがした。 


 家を出る時、華が吠えやしないかとヒヤヒヤしたが、馬鹿犬は面倒臭そうにこちらを一瞥してから、すぐに鼻先を自分の腹にうずめて寝の体制に入ってしまった。華の中で僕の順位は対等か、もしくは下らしい。






 呼び鈴を鳴らすと、すぐに圭は出て来たが、玄関先に現れた圭の顔を見て僕は驚いて目を見開いた。逆光でも明らかに口の端が切れて赤黒く腫れあがっている。




「どうしたんだよ?」と、思わず叫んでしまったら、圭は自分の口に人差し指を立てて「声がデカい」と険しい顔で言った。




 それでも僕は構わずに圭を押しのけて上がり込み、冷蔵庫の氷を袋に入れて、口を結んだものを圭の手に押しつけた。


「冷やした方がいいよ。凄く赤くなってる。」


 昼間会った時は殴られた痕なんて無かった。あれから宗教家がこっちの家に来たのだ。




「うん。ありがとう。さっきまで冷やしてた。」


 圭は氷を受け取ると少し笑ったが、笑うと痛むのだろう。


 僕だって、こんなに腫れあがる程殴られた事は無い。圭だって初めてだったろう。


「あいつに殴られたのか?」


 幸子さんが殴るとは考えにくい。あの憎々しい宗教家だろう。




「うん。診療所に行ったし大丈夫。」


「薬貰ったの?」


「ううん。歯が当たって、口の中が切れて腫れてるけど、放っておけば治るって。」


「放って置けば治るって先生が言ったのか?」


「うん。まあ、そんな様な事を言ってたよ。」


「すごく腫れて見えるけど。」


「うん。自分の犬歯があたって口の中が切れたから。」


「・・・あの先生、食中毒でも風邪だっていうからな・・・。」


「ふふ、痛たた。笑わせないでよ。」




 小さな村だ。明日には村中の人が、圭が殴られた事を知っているだろう。入学式までに元通り治ればいいけれど。




「殴られる様な事したのか?」


「母さんと言い合いになって、・・・。」


 そう言うと圭は顔をゆがめながら笑った。


 どうして笑うのか、分からない。笑う圭にもむかっ腹が立って来る。




「笑い事じゃないだろ!」つい声を荒げてしまって。


 ハッとして俯いた。圭に怒鳴るのは筋違いだ。


「聡でも、怒る時あるんだな。」圭はひどく疲れているようだった。


 いつの間に圭はこんな風に、寂しそうに笑う様になったのだろう?




「何処かへ出かけるって言ってたけど、今日は止めにした方がいいよ。」僕は取り繕う様に言った。 


 こんな状態で何処へ行くというのだ。


 家を出て来る時のほんの僅かな期待感は、強風に晒された綿毛の様に、跡形もなく消し飛んでしまった。


だけど圭は、わざわざ僕の正面に回り込んで首を振った。




 訳が分からない。


「えっ?どういう事?」


「今日、行く。」圭は真剣な顔をしている。


「どこへ行くっていうんだよ?」返答によっては、中止を促さなければならない。


「キャンプ跡。」


「キャンプ跡?」素っ頓狂な声が出る。




 ゴルフ場の手前にある廃業したキャンプ場跡の事を言っているのだ。


 なんだってこんな夜中にあんな所まで行かなくちゃならないのか?自転車で片道四十分はかかる。


 今日は月が出ていないから、おそらく山道は真っ暗だろう。




「何しに行くの?」


「・・・うん。要らない物を処分しに行こうと思って」


「要らない物って何?」


「うん。」


「うんって、何?夜中に、わざわざキャンプ跡に行って処分するの?」


「うん。」


「そのための懐中電灯か。・・・。」


 僕は懐中電灯を点けて圭の顔をわざと照らした。




「気が進まない。」


 今度は僕が首を振る番だ。


「いいよ。聡が行かないなら一人で行く。聡は帰って。」


 あまりの横暴ぶりに、呆気にとられて鯉みたいに口をパクパクしている間に、圭はいつもの黒のダウンを羽織ると、黒のマフラーを巻いた。




「なんだよ。それ?本気で言ってんの?」


 僕の問いには答えずに、さっさと玄関を出てしまう。


「圭待てよ。」


「声が大きい!」


「わかった。わかったよ。一緒に行こう!一人じゃ危ないよ。」


 僕はやや声を抑えて話した。夜中の声はよく通るのだ。




 圭はライトの点いた懐中電灯を先に自転車のカゴに入れて、その上から大きい紙袋を入れた。一体何を処分しに行くと言うのか、全く分からない。あの紙袋の中身は何だろう?処分しに行くと言う言い方も気になる。捨てに行くのでは無く、処分すると言ったのだ。




 真っ暗な道を自転車のライトと懐中電灯の明かりを頼りに走った。黒いダウンに身を包んだ圭は今にも闇夜に溶けてしまいそうだ。その後を僕は遅れない様に走った。




 道中何度か圭を呼んだが、振り向きもしない。そのうち気持ちも納まって来て、僕はこの状況を楽しんでいる自分に我ながら子供だなと思った。


 僕は今だに台風や雷が近いとわくわくするのだ。圭が殴られたと言うのに、何だか逃避行みたいだなと思った。


 静まりかえった冷たい空気に、自転車をこぐ音が騒がしく響く。


 圭と二人真っ暗な道をずっと走っていたかった。圭も同じ考えなら良いのにとも思ったけれど、たぶん圭はそれどころじゃ無いだろうなと思った。






 中学校の制服が届いてから、僕は部屋の一番目立つ所に吊り下げて、眺めて過ごしていたから、圭が言った言葉の意味が理解できなかった。




キャンプ場跡に着いてすぐに、圭は真っすぐに僕を見て「制服を燃やす。」と言った。




「・・・?制服を燃やす?」


僕は知らない外国語の発音を、教師に続いて発音するみたいに、注意深くそう言った。僕の発音は合っているだろうか?




「うん。制服を燃やす事に決めた。」


僕は圭が手にぶら下げている白い紙袋と圭の顔を交互に見た。




「本気?」


「本気。」


圭の顔は真剣だ。


「学校に何着て行くんだよ?いや、どうして制服を燃やすんだよ。」


「決意表明しようと思って。」


「何の?制服を燃やすって言ったから、殴られたのか?」


「違う。制服の事は言って無い。聡にしか言って無い。」




 圭の言葉に複雑な感情が沸き起こる。


 今まさに重大な分岐点に立っているというのに、僕にしか言っていないと言う言葉を聞いて、気を良くしている自分が居る。そう思うと途端に申し訳ない気持ちになった。こんな田舎に生まれたせいで、圭は村人Bに話さざるを得ないのだ。




 村人Bとはもちろん僕の事で、本来もっと他に適任者が居るべきなのだ。ここが都会なら、圭ももっと生きやすいだろう。制服だってわざわざ燃やして決意表明しなくたっていいはずだ。


「圭。制服を燃やすのは。いいアイデアだとは思えない。何の決意表明か知らないけど、他に方法があるはずだよ。」僕は情けない声を出した。




「生理が来たんだ。」


 せいり?整理?生理!


「ああ・・・お・・・。そうか。」僕は危うく“おめでとう”と言いそうになって慌てて口を噤んだ。


「聡。私がスカートを穿いているところを一度でも見たことある?」


「・・・ないな。まさか、似合わないからセーラー服を燃やすなんて事無いよな?」


「似合わないと思ってるんだな?」


「いや、どうかな?分からないよ。・・・たぶん、すごく似合うって事は無いだろうけど。僕だって学ラン似合うかって言われたら、似合わないと思うよ。あっ!宝塚歌劇の高校生みたいになるんじゃないか?」




 圭は困った顔をしている。僕はどんな顔をしているだろう?


「ふふ。聡は良い奴だな。」


「いや、良い奴ではないと思うけど・・・。圭?大丈夫か?」思わず聞いてしまってから、しまったと思った。圭は困っているのではなくて、泣くのを我慢しているのだ。


「・・・ーじゃない。」


「えっ?何て?」


「大丈夫じゃない!全然大丈夫じゃないよ!」




 圭はそう叫ぶと、持っていた紙袋を思い切り地面にぶん投げた。


 袋から中身が飛び出している。


 俯いてしまった圭は泣いているのかもしれない。動かない圭を見て、袋と飛び出した中身を拾い上げた。新聞紙とライターと布切れを拾い上げる。布切れには白いラインが二本入っていて、それが何か分かった時、心臓が跳ねて頭皮が泡立った。


セーラー服の襟だ。




「・・・圭。制服切ったの?」


 暗くてよく見えないが紙袋の中に手を突っ込んで確かめると、制服はハンカチ大の大きさに切られている様だった。


 おそらく切ったのは圭だろう。圭がこの制服をどんな思いで切り刻み、ここまで来たのかと思うと、急に夕飯で食べた餃子が胃の中で鉛の様に重くなった。




 圭は俯いたままだ。


「聡。私は女じゃない。」




 突然の告白にワーンと反響した音が頭に響く。


 嗚呼、聞きたくない。


 耳を塞いでしまいたい。圭がこれから何を言うのか僕には分かっている。圭も僕がわかっていると思うから話すのだ。


 そうか。そういう事なんだな。きっとこの話をしたから、圭は殴られたのだ。




「びっくりした?」


 びっくりなんかするもんか。ただちょっと待って欲しかっただけだ。


 気道がくっついて上手く息が出来ない。


「えっ?いや、まぁ。何となく・・・。」


「知ってた?」


 圭の声が僕のみぞおちに鋭く刺さる。


「うん。」反射的に返事をしてから、今の答えで果たして合っていたのだろうかと、不安になった。


「そっか。」


 圭の声は落胆するでもなく、憤慨するでもない、どちらかと言うと空々しい。圭がどんな思いでいるのか分からない。




 僕は必死に気が付かないふりをしていたのだ。


 たぶんそれは幸子さんも同じだと思う。一人娘なのだ。


 小学生で黒や紺の無地の服しか着ない女の子なんてそうそういない。


 村中の人間がなんとなく感じていて、気が付かないふりをしているのだ。中にはもうちょっと女の子らしい恰好をさせた方が良いと幸子さんに言う人もいたし、圭に直接言う人もいた。ピンクやフリルのついた服をおさがりとして持って来る人もいたようだ。


だけど、たぶん一番気が付かないふりをしていたのは圭自身なのだと思う。




 きっと家に届いたセーラー服を見て、耐えられなくなったのだろう。


 僕が浮かれて制服をしげしげと眺めて過ごしていた時、圭は何を思って過ごしていたのか。


「そっか。知ってたんだな。」圭の声色は平常だ。


「うん。・・・なんとなくね。」僕の声は少し上ずっている様に聞こえる。


「そうか。」


「うん。」


「今日はごめんな。来てくれて、ありがとう。」


 圭は笑ってそう言った。お礼を言われるといたたまれなくなる。お礼を言われる様な事は何もしていない。僕は何もしていないし、何もしてこなかった。


僕だけじゃない。誰もが目をそらして、何もしなかった。




「いや、何にもしてないし。」


 これからどうしたらいいのかも分からない。僕は俯いて他に何か言うべき言葉を探したけれど、何にも出てこなかった。それどころか一刻も早く家に帰って布団に入ってしまいたかった。


 僕は自分の情けなさに泣きそうになった。




 制服はすでに切り刻まれているのだ。


 賽は投げられた。家に帰って布団をかぶっている場合ではない。 


 僕は紙袋を指して「どうする?」と聞いた。どうするもこうするも無いだろうと自分にツッコミを入れつつ、圭を見た。


 圭は決して、帰ろうとは言わないだろう。ここで言うべきは「キャンプファイヤーでもするか。」とか気の利いたセリフだ。


 だけど僕はそんな事は言わない。万に一つもない言葉を待っているのだ。


 すると圭は晴れやかに涙を拭いて「炊事場に行こう。聡は見届け人だ。」と言った。


 僕はそれを聞いて、なんて僕は薄情な奴だろうと思った。




 夜中のキャンプ場跡は気味が悪い。


 宿泊場の窓ガラスは、ほとんど割れていて、空より暗い漆黒空間がこちらをじっと見ている気がする。舗装していない所は立ち枯れした雑草が背丈ほどまで生えていて、まっすぐに歩けない。僕はまだ緊張していたけれど、圭は楽しそうに「熊が出るかもしれないな?」などと言っている。


熊なんて出たら洒落にならない。この時期は本当に熊が出るのだ。




 炊事場に着くと、手際よく新聞紙を丸めて火を点けた。僕等は順番に、かつてセーラー服だった布切れを火に投げていった。




 セーラー服を切ったのは、そのままのセーラー服に火を点けるのを、僕がためらわない様に気を使ってくれたのかもしれないなと思った。


 僕は圭が何か言うのを待ったが圭は何も言わなかった。無言で次々に燃やしていく。


 圭は僕が見届け人だと言った。たぶんこれは儀式だ。


 僕は圭の大事な儀式に参加しているのだろう。




「見届け人より共犯者になるよ。」


 僕は気を利かせて言ったつもりだったが、圭はむっとした顔を向けてきた。


「共犯者って、悪い事しているみたいじゃないか?・・・いや、悪い事か、恩を仇で返す悪い娘か。・・・」




 僕は幸子さんに少し同情したが、圭のこの仰天行動は現状を打開する突破口には、なるかもしれないなと思った。嫌でも向き合わなくちゃならない。


「いや。そういう意味じゃなくて、制服の事を幸子さん達に言う時、僕も一緒に言うよ。また殴られるかもしれないだろ?」


「嗚呼。・・・たぶん大丈夫だよ。アイツも悪い奴じゃないんだよ。だから厄介なんだけど・・・。」




 横顔を見るが、圭は火から目を離さず、僕が口を開く前に「ごめんな。」と呟いた。


「聡はさ、卒アルの好きな言葉の欄にギャグ書いてたろ?私はさ、“健全なる精神は健全なる身体に宿る”って書いたんだけど、本当は大嫌いな言葉なんだよね。


 これ聞くと、何か、・・・自分の事を否定されてる様な感じがしてさ。」




 圭が卒アルにそう書いているのは知っていた。


 曲がった事が嫌いな圭らしいなと思っていたので、そんな意味を込めていたのかと驚いたが同時にとても腹が立った。圭は自分で自分に呪いの言葉をかけている。圭は弱っているのだ。




「圭は、馬鹿だな。そんな事ある訳ないだろ。」僕は力を込めて言った。


 健全の対義語は何だ?不健全?不浄?そもそも健全の定義は何だ?




 圭は声を出さずに泣いていた。


 僕が大人なら圭を抱き寄せて大丈夫だって言ってやる。


 でも実際には僕等は子供で、指先さえ触れあえない。僕が出来る事は、圭の隣に立ちつくして泣きやむのを待つ事だけだ。洒落たハンカチ一枚も持ち合わせていない。




 僕等は黙って順番に次々と制服を火に投げて行く。


 圭と一緒に制服を燃やす。


 揺れる炎を見つめながら、不思議とさっきまでの不安な気持ちは制服が燃える速度で無くなって行った。火が温かい。




 昨日テレビで夏目漱石が『I love you』を『月が綺麗ですね』と訳したと言っていた。昨日はよく分からないと思ったけれど、今なら分かる気がする。月の無い空を見て、月が出てればよかったのにと思った。




 冷え冷えする空気の中、燃える炎を見て、これも同じ意味合いを持たせる事が出来るのではないかと思った。


「暖かいね。」と言ってから、これじゃ何も伝わらないなと、苦笑いした。


最後に残った赤いリボンが燃えて灰になるまで圭は口をきかなかった。






 火が完全に消えたのを確認して、お互い見合うと、僕はすっきりした気持ちでいた。


 燃やしてしまった制服の事はなる様にしかならない。




「帰るか。」と、僕の呼びかけに圭は何か考えている


。いつまでも動かない圭にもしかしたら、まだ何かあるのではないかと身構えて、辛抱強く圭の言葉を待って、不安にどうにかなりそうな時間が経った頃、圭がぼそぼそと話し出した。




「聡。私、胸も・・・胸も出て来たんだ。おっぱいってやわらかいと思ってるだろ?何か固いんだよ。しかも痛くてさ。・・・さ、触ってみる?」




 脳天をかち割られるとはこの事を言うのだろう。


むっ!胸を触る!胸って!


おっぱい?おっぱい以外にあるだろうか?


僕は、おっぱいを触ってみるかと問われているのだ!圭のおっぱいを僕が触る!




「えっ!ええええぇ?」大声を上げた僕に、すかさず圭が僕の頭を叩いて「うるさい!」と、同じくらいの音量で叫んだ。 


 僕は御免、御免と謝ったが、圭はなおも僕の頭をポカポカと叩いて、なかなか止めてくれない。




「痛い!わかった。わかったから。」


 何もわからないまま、小声で抗議すると、やっと叩くのをやめてくれた。


 しかし何て事を言うのだろう?胸を触る?真意がまるで分からない。


 僕は自然と圭の胸を見やった。その視線に気が付いた圭が後ろを向く。




「圭?」


「もういい!」


「えっ?」


「もういい。帰ろう。」


「あっ。うん。そう・・・だな。帰ろう。」


 僕は馬鹿みたいに何度も頷いた。


 胸がドキドキする。


 なんだったんだ。顔をゴシゴシと荒っぽく擦って月の出ていない天を仰ぎ見た。


 おっぱい・・・。






 帰りの道中、情けない事に僕はおっぱいの事ばかり考えた。


 あの時僕がすかさず「うん」と同意していれば圭はおっぱいを触らしてくれたのだろうか?その時僕はどんな顔をして圭のおっぱいを触ったのだろうか?そのあとは?何て言うのだ?




「本当だ、硬いね?」とでも言うのだろうか?「そんな事ないよ。柔らかいよ?」「おっぱいは大きさじゃなくて形が肝心だって聞いた事がある。」いいや。どれも不適切だろう。




 自転車を漕ぐ足に力が入る。圭の後ろ姿を見ながら、心の中で呼びかけた。「圭。さっきの何だったの?」僕は試されたのだろうか?だとしたら正解は何だったのだろう?


「いいや。触らないよ?」


 そんな事即座に言えない!だって触れるものなら触りたいもの!




 圭は中学男子の持て余す性欲と好奇心がどんなに壮大かわかっていない。


 圭から、カミングアウトされたというのに全くその事について考えられない。制服を燃やしたというのに、何も考えられない。


 これからの事とか、他に考えなくちゃならない事はたくさんあるだろうに、おっぱいの事しか考えられない。






 圭の家の門扉前でぎこちなく別れた後も、僕は取りつかれたみたいにおっぱいの事ばかり考えていた。家の勝手口を開けた時に華が尻尾を振って僕を迎え入れたので、もしもの時に用意していたジャーキーをポケットから出して与えている間に、眠気を覚えて時間を見ると三時を過ぎていた。


 大みそかの年越しの時だってこんなに夜更かしした事が無い。




「お前、夜中に食うと太るぞ。」


 華は鼻を鳴らして、もっとくれとポケットに鼻を突っ込んで来る。


「お前は気楽で良いなあ。」




 


 その夜、変な夢を見た。


 僕と圭は大まじめに硬いおっぱいについて議論しているのだ。


 教室の机を迎え合わせにして、意見をノートに記入していく。見れば黒板に「硬い乳房についての考察」と書かれている。




 小学校の担任の田中先生が腕を組んだまま、机の間を見回っている。


 他の班は活発な意見が複数出ていて、まとめにかかっているようだ。僕と圭の班はなぜか二人きりでノートは真っ白で何も書かれていない。圭の顔を見やると、不機嫌な顔で、シャープペンシルを指の間で器用にくるくると回して、よりアクロバティックな技を真剣に練習している。




「圭。何か意見有る?」


 僕の問いに圭は面倒くさそうに一瞥すると。


「聡は硬い乳房と和ら無い乳房、どっちが好きなの?」と聞いてきた。




 無論、僕は触った事が無いから、よくわからないけれど、一般論として「柔らかい方が触り心地はいいんじゃないかな。」と言った。




 自然と圭の胸に視線が向く。するとどうだろう、圭の胸はムクムクと大きく膨らんできて、胸のシャツ釦が僕の左頬にペチンと飛んで来た。




「聡は私の事が好きなの?」


「えっ!!」


弾かれた様に圭の顔を見やると圭の侮蔑するような瞳とかち合った。




「聡は、なんとなく知っていたんだろう?私が女の体に男の心を持って、苦しんでいる時に、私をおかずにして、オナニーしていたの?」


 オナニー?嗚呼これは夢だ。


 圭はそんな事聞いてきたりしない。




 客観的に考えている僕が他に居て、僕は少しばかり安心したが、圭の乳房はその間もどんどん大きくなる。シャツが開けてピンク色の乳首が二つ顔を出した。


「あっ!」


 僕はピンク色の乳首から目を離すことが出来ずに言葉にならない言葉を呻いた。




 股間が熱くなってヤバいと思ってノートを見ると、そこには『裏切り者』と書かれてあった。


 ハッとして文字の上に手を乗せる。圭に見られてはいけない。


 そこで目が覚めた。






 布団を捲ると大きなため息をついた。四時十六分。デジタル時計は冷たい色で部屋の中をおぼろげに照らし出している。




「裏切り者。」 




 僕は裏切り者なのだろうか。


 圭は僕の秘めた好意に気が付いてあんな事を言ったのだろうか?僕はもう一度大きくため息を吐くと、パンツを脱いで洗面所で洗って洗濯機に放り込んだ。




 それから日が差し込んで来るまで布団の中で薄っすらと見える天井を見て過ごした。

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