第5話 【境界】砂嵐
どうすべきか迷っていた。
どれほど迷っているかと言えば、一軒家を買うかどうかを迷っているほどに、迷っていた。たぶん想像するに家を買うのには一大決心がいる。生涯で一番高い買い物だと思う。
つまり鳥の言う突拍子も無い話を、本気で信じるか、否かで迷っていた。
だけど、家を買わずに回れ右して帰る訳にはいかないのだ。帰る家が無いのだから。ここは僕の家であって、僕の家ではないだろう。
村の外に広がる茫漠とした、荒涼した、広大無辺な風景を思い浮かべて僕は唇を噛んだ。選択肢は初めから無いのだ。
僕は正座して鳥に向かい合うと、呼吸を整えた。
まずは鳥をよく観察してみよう。何かヒントを得られるかもしれない。
黒い鳥は一見黒一色の様に見えるが油でも塗った様な光沢が有り、艶やかで、黒の中に紫や群青が干渉して重なり合い、うなりとなって色が響いてくる様な、不思議な色をしている。
だけど不思議な事に、ずっと見ていると何故か落ち着かず、自然と目をそらしてしまう。嫌な感覚が背筋を震わせて僕に警鐘を鳴らしてくるのだ。例えるなら、一つの個体では何とも思わないのに、数が多くなればなるほど、蠢く姿に恐怖や気味の悪さが増すような感覚と似ているかもしれない。不愉快とも、恐怖ともつかぬ思いが湧いて来る。
だけれど僕は、例え世迷言であっても藁にも縋りたいという思いを、どうしても抑えられなかった。船頭のいない小舟の縁につかまって翻弄されるのに疲れてしまった。それに小舟に乗っているならまだ良い、ずぶ濡れだったのだ。ダム湖に沈んでいたと鳥は言ったが、訳が分からない。
僕はいつから鰓呼吸が出来るスキルを身に着けたのだ?
「あの、鳥先生。僕を助けてくれるって言いましたよね?僕は記憶が無くて困っているんです。この世界が何なのか、何処から来て、何処へ行こうとしていたのかも思い出せなくて、これからどうすればいいのかも分からないんです。」
言葉にすると散漫な不安が現実味を帯びてきて、僕は話しながらあまりの心細差に泣きそうになった。この超現実的な不安の吐露を、超空想的な鳥に意見をお伺いする行為が、正しいのか?どうしても、ひとまず降参してどこまでも信じてみようという気になれない。
「私の事はどうか“とばり”と呼んでくれたまえ。私は鳥でもなければ先生でもない。私が鳥に見えるかい?」
鳥の問いに、すぐさま(鳥に見える。)と思ったが、適切な答えではないだろう。
間違えた回答で評価を下げてしまうのは得策では無い様に思う。助けるに値する人間だと思われた方が都合がいい。そう思うと上手い言葉が見つからなくて言い淀んでしまう。
もたもたしている内に「ふむ。私の目を覗き込んでご覧。」と鳥籠の淵に移動して、鳥が顔をこちらに近づけてきた。
僕は気が進まなかったが言われた通りに、黒い小さな目をじっと覗き込んだ。
すると徐々にキラキラ瞬く星々が見え、次に渦を巻いた銀河が見えた。そのまま引きずり込まれそうな引力を感じて、驚いて身を離すと、仰向けに倒れた。
倒れたと分かったのも天井が見えたからで、いつの間にか万歳をして口を開けて倒れていた。
頭がぐらぐらする。
何だ?今の?
「驚いたかね?ここでは少年の観念を超える様態には成りえない。いいか、ここで君が死んだと思えば、君は死ぬ。死神は君の中に居ると言っても過言ではない。もちろん助けるのはやぶさかでないよ。それと肝心事を伝え忘れていたがね、私を決して籠から出してはなら無いよ。私は人では無いからね。気概によって律する事が敵わないのだ。飛んで行って二度とここへは戻るまいよ。そもそも人と交わらない存在なのだ。」
相変わらず鳥の表情はわからないし、抑揚のない話し方からも心情を計れない。それでも、ぐらぐらする頭で鳥籠の入り口の錠がきちんと閉まっているか確認した。
死神は僕の中に居る?
『とばり』と呼んでくれたまえ?
鳥の種類だろうか?鳥でないのに?
とばりさんは(なんとなく敬称を付ける事にした。)籠の中に閉じ込められている状況を不本意に思いながら従っているのだろうか?水をあげるために不用意に入り口を開けた時、たぶん、とばりさんが倒れていたから飛んで行ってしまわなかったのだ。危ない所だった。
それにしてもさっき見た銀河は何だったのだろう?引きずり込まれるかと思った。
下腹辺りがヒヤッとして、体がブルッと震えた。
本能的に敬服してしまう原因はきっとそこら辺にあるのだろう。ますます得体がしれない。一軒家どころか魔王の城でも買おうとしているのではないだろうか?さすがに魔王の城を購入するのは勇気がいる。
正座し直して向き合うとそっと一息吐いて慎重に言葉を選んだ。
「分かりました、とばりさん。ありがとうございます。とばりさんが鳥ではない事はよく分かりました。それから、ええっと、その・・・よろしくお願いします。」
とばりさんが何なのか聞こうと思ったが、返って来る答えが怖い。
「私が恐ろしいかね?」
間髪入れずに問われて、ぐっと息を止めた。
「・・・いいえ。・・・そんな事はありません。」
正直恐ろしい。しどろもどろに答えるのが精一杯だ。
「至極当然の反応だ。恐ろしいと思う事は生物において防衛本能の根本だ。理解しがたいものに対して注意せねば命の危険に関わる事がしばしば有る。ところで、ケイ。君の質問の解だがね。君は上流のダム湖からここまで歩いて来た。それも覚えていないのかな?ダム湖まで道が繋がるのにも、ずいぶん時間が掛かったし、君はずいぶん深く潜っていた。君が寝覚めるまで雨続きで橋が三度流された。地下道を通って来たのだろう?あそこも時期、砂に埋もれる。私の見立てでは、この世界が砂嵐に耐えられるのは後二、三度だろうと思う。それに境が曖昧になってきているはずだ、干渉が多くなるだろう。それまでにここを出なければならない。」
何だかRPGの序章で国王に言い渡される君命のようだが、内容が半分も理解できない。
「えっと、とばりさん。すみません。僕は頭が悪いので一度に言われても理解するのにちょっと時間が掛かるんです。一個づつ質問してもいいですか?」
「うむ。」
『うむ』なんて相槌を打つ奴本当に要るんだなと思いながら、気になっていた疑問をぶつけた。
「とばりさん、僕はどうしてダム湖に居たのでしょうか?」
どうやらスタート地点はダム湖らしいので、見に行きたいが話しぶりから遠いのかもしれない。
「さあて、ダム湖の上空を飛んでいたら、君が底に沈んでいるのが見えた。君がここへ来る前の事は不明だが、大方良くない事が身の上に起こったのだろうさ。」
名を捨てるほどに絶望する出来事・・・。僕は湖に投身自殺を試みたのではないだろうか?だけれど死にきれずにここに来たとか?
「とばりさん、僕を呼んでいた少年の事を教えてください。僕の知り合いなんですか?それと、どうして砂嵐で世界は消えてしまうのでしょうか?」
「重要な質問だ。この世界は少年の記憶で、辛うじて保っている。少年が消えかけているために砂嵐が起こるのだ。近い内に何もかもが砂に埋もれて無くなるだろう。」
なるほど、よくわからないが、急がなくちゃならないという事はなんとなくわかった。ツッコミどころはこの際無視して、ここのルールに従おう。
「少年と君とは、親しい間柄だ。」
とばりさんの言葉に顔を上げる。
親しい間柄?眠っている少年は誰だろう?
「その少年と一緒にここから出ればいいのですね?」
もしかして、僕がグズグズしているから帰るタイミングを逃してしまったのではないだろうか?だとしたら、何と言って謝ろう・・・。
「それは、叶わん。どうやったって無理な話だ。少年の器はもう活動を止め久しい。灰になっているだろうさ。」
「器が灰に?」
「そうだ。」
ゴクリと唾を飲みこむ。
「・・・その少年は死んでいて、僕は死んでいない?と言う事ですか?」
「そうだ。」
とばりさんの答えに、目の前が一気に暗くなった。この世界はすでに死んでしまった少年の記憶で出来ている?
『馬は脚が無い為死んでいた』
ひばりさんは確かこう言ったのではなかったか?
『兎も鷹も狼も猿も同様に死んでいる事がわかると----』
その後は何だっけ?何と言った?
「とばりさん・・・。その少年は僕のせいで亡くなったのですか?」
とばりさんは宿木をステップする様に動いた。
「さてな。先にも述べたが、大方良くない事が君と少年とヤマトという少年の上に降りかかったのだろう。その出来事を私は知らない。しかし、君は一足早くここへやって来た。だから急いだ方が良い。」
ヤマトという少年?
「ヤマトという少年はどこに居るのですか?会って話がしたいです!」
「ヤマトという少年はもう行ってしまった。会う事は叶わない。」
「行ってしまった?その少年はここを出れたのですか?」
「いいや、ケイ。君がここを出て、行きつく先と、彼等がここを出て、行きつく先はまるで違う。それにね。ケイ。君の様な状況でここを出た人間をただの一度も、私は見たことが無い。」
「えっ?」
・・・ただの一度も見たことが無い?
とばりさんは、ただの一度も見たことが無いと、言ったのか?
「そうだ。私は見たことが無いが、その事実が無いと言う訳では無い。しかしね。これは大変重要な事だ。何せ、私は人の営みに関心が無かった。私は人に対して極めて偏った知識しか持たないのだ。その偏った知識によって、私は人を疎んじているとも言っていい。それでも私が君と話をしてみようと思ったのは、この少年に恩が有るからだ。彼は囚われ傷ついた私を自分の身を顧みずに助け出してくれたのだ。彼は私を恨んでいたというのに。だから、私は彼の願いを受け入れて、彼の時間を延ばしてやる事にした。」
何だか、話がややこしい。具合が悪くなってきた。
「ええっと、この世界には僕を含めて三人居たけれど、ヤマトはもう行ってしまって、名の分からない少年も消えかけていて、僕は少年が消える前にここを出なくちゃならないという事ですよね?・・・僕は何をどうしたらここから出られるのでしょうか?」
「それだよ。私は見たことが無いのだ。だから君を導く手助けは限定的なものになるだろう。ケイよ。君はこの限られた空間と、限られた時間の中でそれを見つけ出さなければ、ここから出ることは叶わない。」
とばりさんの答えに今度こそ目の前が真っ暗になった。
本当に意識が遠のいて、頭から血の気が失せて行くのがはっきりとわかる。大量の血液が砂時計の狭い隙間を音を立てて落ちて来る。僕に残された時間はどれほどのものだろう?
とばりさんは、ショックを受けている僕の事なんてお構いなしに喋り続けた。
「絶望するにはまだ早い。君はこれからの短い時間の中で本当の絶望を味わう事になるだろう。その先に僅かに射す光を手繰りよせるのだ。君は何もかもを捨てて来たのだ。代償は大きい。捨てたものを拾い集める作業は気持ちの良いものじゃない。ごみ箱をあさる様なものだ。汚いものも、綺麗なものも一緒くたになって出て来る。私はね、それほど悲観してはいないのだよ。まぁ、人ではないからね。感覚的な事は分からない。それに君に比べれば長く意識を保持している。多少の事では驚かない。でもね、芋ずる式に、とんとん拍子に運べば案外と事は上手く行くのではないかとも思っている。しかし、どちらにせよ。時間が無い事は確かだ、急がねばならない。手始めにこの家を家探ししてはどうだろう?いや、その前に水浴びをするべきだな。酷い格好をしている。人も砂浴びする習慣があったとは知らなんだ。私はもう少し人に関して興味を持つべきだった。」
人は砂浴びをしないと、訂正するべきかもしれないが、僕はそれどころでは無かった。
それでも、おおざっぱに風呂に入ろうとして断念した経緯を説明した。思い出しただけで背筋が凍るようだ。僕の身体は本当にどこかおかしくなってしまったのかもしれない。
とばりさんは僕の説明を聞くと「ほう面妖な。」と言ったきり、僕をじっと眺めていた。
昔、雉や渡り鳥を追いかけまわしていたら、栄兄に「鳩でも三十年ほど生きるから俺等よりも年上かもしれないぞ。」と言われて以来鳥を追い回すのを止めたのだが・・・栄兄!
「栄兄!」
思いのほか大きな声が出て、自分でもびっくりした。
「なんだね?突然?」
僕はとばりさんの問いを無視してテーブルの周りをぐるぐる歩きながら、両手で頬を擦った。
「栄兄っていう近所の兄ちゃんが居たんです。そうだ栄太!確かに僕、圭って呼ばれてた!土二つで圭ですよ!」
「ほう。幸先が良いな。」
とばりさんの言葉に、元気が出て来た。確かに芋ずる式に思い出せるかもしれない。自然と笑みがこぼれる。
「うむ。圭よ。庭に水まき用のホースがある。水浴びをしてはどうか?時期砂嵐が来る。急いだ方がいい。」
「わかりました。」僕はまだ興奮していたが、慌てて庭に出た。空は晴れ渡っている。気持ちの良い青空だ。
しかしいざ水を浴びようと明るい所で改めて自分の身体と性器を見た時、なんとも言えぬ気持になった。何年も離れていた故郷に帰って来た様な、生き別れの兄弟に会った様な、なんとも言えぬ気持だ。
何だろう?まじまじと自分のペニスと睾丸の具合を観察したが、特別変わったところは無い様に思う。しかし比較するものが無いので確認の仕様が無い。
何かわからないまま、僕は頭から水を被った。ついでに制服も物干しにかけて水をかけた。夏でよかった。寒い時期だったら耐えられなかっただろう。空は青く晴れ渡っている。本当に砂嵐なんて来るのだろうか?
水は冷たくて気持ちいい。
洗面所にあるタオルを取りに行きかけて止めて、台所に掛けてある手拭きを掃って体をぬぐった。
あそこには入りたくない。
体が綺麗になると今度は砂が付くのが嫌でどこにも腰かけられなくなったので、台所にあった箒で、隅から順に砂を掃いて行く。年末に寺で行われる行事のようだなと思ったが、マスクが無いので仏間だけにしておいた。砂が舞うので家が綺麗になる頃にはまた自身が砂まみれになりそうだ。掃除してから水を浴びればよかった。
「圭よ。そろそろ制服を取り込んで、雨戸を閉めろ。何処か一つでも開いていると、行き場を失った空気が屋根を飛ばしてしまうぞ。」
とばりさんは毛づくろいをしながら言った。
屋根が飛ぶ?
「そんなに?そんなに大きな砂嵐が来るんですか?」こんなに晴れているのに?
僕はテレビの上に置かれた新聞紙を畳に敷いた。制服から滴が垂れるのだ。新聞の日付は二月十七日だ。手を止めて考える。スマートフォンの日付は十一月二十四日。十カ月もの差がある。二階からハンガーを取って来ると、制服を鴨居に引っ掛けた。そして苦労して開けた雨戸を、苦労して閉めた。
後は閉じこもって砂嵐が通り過ぎるのを待つばかりだ。
閉め切ると家の中の空気が暑く膨張してくる。時折、制服から垂れた滴が新聞紙に当たってポツと爆ぜる音がする。
もしここに辿り着かなかったら僕はどうなっていたのだろう?地下道で砂嵐をやり過ごすことになっていたかもしれない。ここまで歩いてきて正解だった。
僕はまだとばりさんに質問したい事がたくさんあったが、それは家探し後に回して、手始めに仏壇の引き出しと、引き戸を順番に開けて行ったが、引き出しは空気さえも入って無い程に軽く、勢い余って引き抜いてしまう程で、引き抜いたあとの虚は、逆にこちらを見返してくる様だった。
続いて押入れを開けだがこちらには扇風機とストーブ、盆に使う提灯が段ボールに納まっていた。 しかも奥の段ボールの中身は空だ。空の段ボールや箱が積んである。
なんだか嫌な予感がする。
箱の収集癖があったって、愛想のない段ボールや箱を、こんなに積み上げて収納しておくだろうか?慌てて居間に移動して戸棚を開けたが空だった。電話台の引き出しも空。郵便物や電気代の明細、通帳、印鑑など個人情報がどこにも無い。
巧妙に隠している訳ではないだろう。
そして極めつけだったのは、ファイルや書籍などの中身が白紙なのだ。通販販売のカタログの山をめくっても、中は白紙で何も載っていない。まるでドラマの小道具に出て来る、アタッシュケースに入った現金の表面だけ本物で中身が新聞紙といった、まやかしと同じ具合なのだ。
これには頭を殴られた様な衝撃を受けた。呆然として気持ちの整理が付かない。こんな出鱈目な世界があるか?
これは行儀よく家探ししている場合ではない。
僕は空き巣の様に乱暴に家中をかき回したが、結局何も見つける事が出来なかった。一度探した箇所も二度三度と入念に確認したが結果は同じだった。探すべき場所が無くなると、ぐるりと部屋を眺めた。
気が付くとガタガタと窓が揺れている。
嵐が来たのだ。
すぐに隙間からジェットエンジンの様な音が家中に響いた。家がロケットの様に打ち上がったらOZに行けるかもしれない。きっとここよりまともな所だろう。僕はやけになってそんな事を思った。
しかし、余裕が有ったのは最初だけで、真っ暗になった外が恐ろしくて窓に近づくのも憚られた。
こんなに風が強く吹いたら屋根の瓦は一つ残らず飛んで行ってしまうのではないだろうか。外は、ほとんど何も見えない。息を潜めてカーテンの隙間から目を凝らすと、薄っすらと見えるのは、色彩を失ったピンボケのモノクローム写真の世界だ。まるで意思を持った小さな羽虫が大集結して、手負いの竜の様にのたうち回っている。
突然こっちを見るなとばかりにドンと窓が風に叩かれた。
僕は怖くなって家中のカーテンを閉めて回った。
本当に家がロケットの様に打ちあがってしまったらどうしよう。
窓から出来るだけ離れて、家の真ん中に移動する。
とばりさんは、あと二、三回度でこの世界は消えると言った。とばりさんと話をしよう。本当に時間が無いのだ。
「首尾はどうかね?」
仏間に戻ると、すぐさま尋ねられた。
「とばりさん。これを見てください。」
僕は蚊の鳴くような声で通販雑誌のカタログの中身が白紙な事を訴えた。
「うむ。記憶の綻びによるものだろう、意味をなさないものから消えていく。次の手を考えねばなるまい。」
とばりさんは切り替えが早い。
打ちのめされている僕は諦め切れず、次の手なんて思いつかない。この世界はとばりさんの言うように本当に記憶で出来ているのだ。
僕は不気味な隙間風や揺れる窓の音に耐えられなくなって、無意識に目に入ったTVのリモコンの電源スイッチを押した。そしてテレビの上に置いたノートの存在を思い出した。掃除した時に邪魔だからここに放り投げたのだ。
そうだ、暗号を解読しよう。なぜこんな大事な事を忘れていたのだろう。
ノートを手に取ると砂嵐のテレビを消した。
『手紙は僕の机の上に移動させた。必ずそっちを見てくれ』
「とばりさん。二階の部屋でノートを見つけたんです。これについて何か知っている事はありませんか?」
とばりさんに見える様にノートをかざし、ページを捲って見せた。
「何かを数えた記録だと思うんです。それと、手紙は僕の机の上に移動させた。そっちを見てくれと書いてあるんですけど、手紙なんてどこにもなかったんです。あと、これ!1と書かれているのでノートは二冊以上あるかもしれません。」
ノートを指先で二回叩いて僕は興奮気味に伝えた。
「ほう。少なくとも少年はそのノートの事を記憶している。重要なヒントが隠されている可能性は否定できない。圭は覚えていないのだね?」
「はい。僕が書いた可能性もあるって事ですよね?」
「可能性はある。ここは君の家だ。」
「とばりさん、嵐が治まるまでここの事をもう少し詳しく聞いてもいいですか?話している内に何か思い出す事があるかもしれないです。」
「同意見だ。嵐が止んだらこの家を出て村を見て回った方が良いだろうが、その前に見識を高める必要がある。情報量が要になる事は言うまでも無い。」
外は凄まじい砂嵐らしく、一段と家鳴りの音が大きく響いた。ほんの僅かな隙間から風が入り込んで来て、象の悲鳴の様な音が唸りをあげて、僕を震え上がらせた。
長い間天井を見上げてじっと身を固くしていると家が揺れているのがよく分かる。
「とばりさん。この砂嵐はどれくらい続くのでしょうか?」
「さてな。少年次第だ。」
・・・名を失った少年。
この世界は名を失った少年の、消えかけている記憶でもって辛うじて保たれている。
何と心許ない現状だろう。どうしてこんな場所に僕は居るのだろう?
「とばりさん。僕はダム湖の底に居たのですよね?どうしてそこに居たらダメだったのですか?」
こんな現状ではここより元の場所の方が安全な気がする。
「ダム湖でただ消えるのを待っていた方がよかったのかね?そうだな、それも一つの選択だ。君の意思を尊重する。しかしね、まだ答えを出すのは時期尚早だ。君は幾つか有る選択肢を正しく理解していない。」
「ダム湖も消えてしまうのですか?僕は彼等より早くここへやって来たのですよね?それなのにダム湖も少年の記憶で出来ているのですか?・・・そうすると僕は少年の記憶の産物に過ぎないんじゃ・・・。」
いまいち、ここの仕組みが分からない。
「いいや、それは違う。君は君で、少年とは違う個体だ。ダム湖は圭、君が作ったのだ。私がここへ来た時、ここは今より広かった。私の中に居る少年と、もう一人ヤマトと言う名の少年が居た。彼等もそれぞれ別の個体で、少年の村とヤマトの村の間に中学校があり、少し離れた所に海岸に面した大きな街があった。私はそこを自由に飛び回って過ごした。聞いた話では、初めの頃、昼の間ヤマトは棒の先に包丁を付けて槍の様に振り回し、少年を追い回していたそうだが、私は全く関心が無かった。しかしそれがいけなかった。のちに私は漆黒の狼に捕えられ、恐ろしい牙に体を裂かれたのだ。その時助け出してくれたのが少年だ。」
「とばりさん!待って下さい!二人は仲が悪かったのですか?」
棒の先に包丁を付けて槍の様に振り回し追い回していた?
どんな状況だ?
お手製の槍で追い回されるなんて、考えただけでぞっとしない。
しかも漆黒の狼?そんなのに襲われたら逃げ切れる自信が無い。
ヤマトと少年が仲が良くなかったなんて想定外だ。
そうすると少年と僕の関係だって分からない。てっきり仲が良かったのだと思っていたが、とんだ思い違いかもしれない。それに、聞いた話と言った?
「二人はいがみ合っていた。ほぼ同時にここへ来たから、同じ出来事か、あるいは関連の有る出来事が原因でここへ来たのだろう。」
二人は死んでここへ来たのだ。事故?病気?まさか殺人ではあるまい。
ここの世界の存在理由が分からない。僕は宗教を信じていないけれど。漠然と死んだらすぐに何も無くなるのだと思っていた。こんなところで足止めを食うには何か理由があるはずだ。じゃなきゃこんな所意味が無いように思う。
「とばりさん。ここは何の為にある場所なのですか?ここの呼び名とか分かりますか?」
「さてな。ここはここだ。名称で縛るのは人だけだ。呼称は無い。しかし、そうだな君は人だから、疑問に思うのも無理はあるまい。不便なら勝手に名称を付ければいいさ。」
名称から何か分かるかもしれないと期待しての質問だったのだけれど、これでは何も分からない。
「そうですか。それならそれでいいんです。とばりさんはここから移動できないのですか?村を見て歩く時、とばりさんと一緒に歩きたいんですけど。」
「君が籠を持って歩けば移動は可能だよ。私は囚われる前、仲間達と自由に空を飛び、思い思いに過ごしていた。村の地形に詳しい。」
「とばりさんの仲間はどこへ行ってしまったのですか?」
「私が囚われたのを見て身を隠してしまった。彼らに呼びかけても、決して姿を現す事は無いだろう。恐れているのだ。」
「僕をですか?僕は何の悪さもしませんよ。」
「悪い事実はすでに起きてしまった。悪い事実を払拭し、回復したのち好転させ、信頼を得る為には普通の事をしていてもダメだ。時間が有れば彼らを説得し、彼らの持つ情報を得る事も可能だろうが、あいにくそんな悠長な事をしている暇はない。自分の足で探す他あるまい。」
「そうですか。」
とばりさんの仲間にも助けや助言を聞けたらと思ったが、難しそうだ。
「みんな同じ姿なのですか?」
「私たちは如何様にも姿を変える事が出来る。彼らは君が通常通り消えて無くなるのを待っている。助けてはくれまいよ。」
「どうしてですか?知らない間に随分と嫌われてしまっているんですね。」
「無理もない。そもそも人以外の者に、人の印象は極めて悪い。」
「そりゃ、悪い奴もいますけど、良い奴だっていると思いますよ。とばりさんを助けてくれた少年だって、良い奴だと思ったから、助けてあげたんですよね?」
「少年が良い奴かどうかは私の知るところではない。人の言う良い奴とは大抵が自身に都合の良い奴の事を指すように思う。そもそも君たち人は命の営みを過剰に複雑にした事によって、歪が生じ災いを広めた。それは人のみならず全ての者に降りかかる。我々は繋がっているのだ。歪は今も発生し、災いも拡散し続けている。もうこれを止める術は無い。出来る事と言えば速度を落とす事くらいだろう。しかしそれも容易ではない。どうして人が人の為の秩序とルールを作ると思う?人の手に人という種族が手に余るからだ。断言出来るが人ほど嫌われている生物はこの宇宙に存在しない。これは揺ぎ無い真実だ。何故なら人の作った秩序とルールは他者から見れば、それこそ秩序とルールを無視し逸脱している。ルールを破る奴は他から疎まれる。端的に言えば人とは迷惑な連中なのさ。君たち人が道や地下鉄や街を歩いている時、大声で意味不明な事を叫んでいる奴が居たら、その場からそっと距離を取って離れるのではないかな?人とはまさにそういう存在だよ。第一に体毛を退化させたくせに、他者の皮を剥いで着る。理解に苦しむね。立派な体毛は威厳と強さの象徴だ。それを後から作った物や他者から奪ったもので代用するから、本来の王が王で無くなり歪が生じるのだ。先代や先々代の功績を自分の事の様に話し振舞うのは人しかいない。過去にとらわれ過ぎている。しかも厄介な事に人の世界には、妄信的な使命感で、さも利己的かつ利他的と偽り人々を誘う王が沢山居る。次に、相利共生や共進化関係の生物はたくさんあるが、人間相手になると飛びぬけてハイリスク、ハイリターンだ。関わらない方が賢明だろう。しかし交雑はほとんどの場合、人が関わっている。まるで人が崇めている全能神の様ではないか?しかしそれは偽物だ。交雑によって生まれた者の運命は人の都合に左右される。自らの手で運命を切り開く事は許されない。例えば人間の様に身勝手な理由や何の理由もなく犬や猫を袋に詰めて捨てたりする者は他にいないよ。紙で出来た通貨不足で殺処分や食用で売られる事も無い。しかも野生に返す事も出来ない。何故なら、回り回って人が困るからだ。一見図々しくも残酷なカッコウの託卵にも大きな理由がある。人のそれと根本的に異なる。人を食った熊を人は『人食い熊』と呼ぶね?その主な理由は一度人を食った熊は人の味を覚える。その為二度三度と人を襲う事になる。だから注意喚起の為にそう呼ぶのだ。だがね、熊は腹が減れば人を食うものだよ。人が好んで飼育する犬だって腹が減れば人を食うさ。君は人だから人を食った事が無いだろう?同族を食うと病気が移行しやすいから進めはしないが、脳と眼球はほとんどの哺乳類が大体同じ味だ。人も哺乳類だ。特別ではない。この世界は全て宇宙の塵から出来ている。例外は無い。人が居ない世界はさぞ静かだろうよ。」
たぶん僕は阿呆な顔をしていただろうと思う。
まさか人類をディスって来るとは思わなかった。
確かにとばりさんは人に偏見がある。僕が持てる言葉を尽くしても相いれないだろう。とばりさんがどんな存在なのかよくわからないけれど、大きな存在なのだと思う。そんなものに拒絶されているなんて、なんとも物悲しい心地になった。
家鳴りの音と隙間風が僕と、とばりさんの間に大きく響いてくる。
とばりさんが僕に付き合って話をしてくれる事はたぶん稀有な事なのだろう。少年に感謝しなければならない。もし少年がとばりさんを救出していなかったら、僕の立場は今と随分違うものになっていただろう。
『飛んで行って二度とここへは戻るまいよ。』とばりさんが何故こんな事を言ったのか少し理解できた様な気がする。
だけど僕はとばりさんと仲良くしたい。とばりさんの事が知りたいし、僕の事も知ってほしい。これは我儘だろうか?
「とばりさん。僕は、ここを出る事が出来ても、出来なくても、ここに居る間は、いや、ここを出ても、とばりさんと仲良くしたいです。とばりさんが、僕の事が好きでも嫌いでもどちらでもいいです。それに、とばりさん、ありがとうございます。仲間と別れて、こんな狭い籠の中に閉じ込められて、その・・・ごめんなさい。」
上手く言葉に出来ない事にもどかしさを感じる。僕の思いは伝わっただろうか?
「私は君に、謝罪も感謝も要求していない。君は動物園に行った事があるかね?私は体現して理解を深めるにはいい機会だと思ったのだ。だからこうして籠の中に入っている。分かった事はとても退屈だと言う事だよ。話が逸脱した、元へ戻そう。今述べた理由から仲間の援助は得られない。よって次の手を考えねばならない。」
「はい。」
僕はとばりさんの言葉に落胆を隠せなかったが、今はこれでいいと思った。もしかしたら、ここを運よく出れる頃、とばりさんの考えが少しでも変わっているかもしれない。
ここを出る事を最優先に考えよう。
「とばりさん、少年はとばりさんを恨んでいたと言いましたよね?少年がとばりさんに恨み言を言ったのですか?」
「いいや、少年は私と話をしたがらなかった。私が会った時にはすでに名を無くし、意識が散漫になっていた。君を見つけてからは、ほとんどの時間を君を呼ぶ事に使っていた。それしかするべき事が残っていなかった。」
「どうして僕を呼んでいたのか聞いていませんか?」
「ヤマトという少年が去った時、『やっと一人になれた。』と、少年が言ったので、一人では無い事実を述べた。すると少年はダム湖まで苦労して道を作り、君を見つけた。」
「ここから歩いてダム湖まで行けるんですか?」
「君が来た道だ。無論可能だ。しかし、戻る事は推奨しない。少年は一定の間、ダム湖に留まったが、君の家で君の帰りを待つと言って帰って来た。戻って来た君と話をするつもりだったのだ。」
「そうですか。」
やはりここは僕の家なのだ。家探して記憶の手がかりとなる様な物が出なかった事は相当応える。
「少年とヤマトは、君と同じ制服を着ていた。同じ中学校へ通っていたのではないか?ヤマトと言う名に心あたりは無いのかね?」
実はそれを先刻から考えているのだが、全く何も思い出せない。そんな危ないサイコ野郎ならすぐに思い出せそうなものなのに。きっと関わりが薄かったのだろう。
「はい。思い出せません。」と、答えながら、サイコ野郎と関りが有る方が問題なのではないかと思った。
「ヤマトは酷く憤慨して二番目にここへやって来た。しかしそれは珍しい事では無い。たいていの人は憤慨するか、悲しみに暮れるか、途方に暮れるかで、自身の器が活動を停止してしまった事を知った上でここへやって来る。出現場所は強く願った場所か、器を失った場所がほとんどだ。ヤマトは海岸に現れた。そこからすぐに中学校へ向かった様だった。その時私はちょうど海岸上空を飛んでいた。ヤマトがなぜ家ではなく中学校へ向かったのかは分からない。大体初めに家に帰る。圭、君もそうだ。初めに家に帰らない理由があるはずだ。次に少年の出現場所は中学校だった。私は見ていないが、こちらはすぐに家へと帰ったそうだ。二日目に少年がヤマトの村へと入った。そしてその先に海岸に面した街を見つけると海岸へ出た。そこで二人は鉢合わせて、大声でお互いをののしり合い、取っ組み合いの喧嘩を始めた。その時も私はちょうど上空に居た。海岸上空は常に快適な風が吹いている。」
「とばりさん、そのヤマトの村と海岸の街には今も行く事は可能ですか?」
「いいや、ヤマトの領分はヤマトが去ると砂に埋もれて消滅した。今はもう無い。可動域は少年の村と君の居たダム湖だけだ。しかしね、少年の家はまだ残っているはずだ。自分の家の記憶は詳細だ、ここより多くの情報を得られるだろう。場所は定かではないが小さな村だ。すぐに見つかるだろう。」
「そうだ!とばりさん。今思い出しましたけど、門扉の表札が叩き壊されているんです。何か知っていませんか?ここだけじゃなくて、隣と斜向かいと、派手にやられているんです。」
「それは少年がすべての表札を壊して回ったそうだ。居場所を特定されない様にしたのだ。あまり意味をなさなかったようだが、追い回されるのがよほど嫌だったのだろう。無理もない、ヤマトの執着は凄まじかった。因縁があるのは間違いが無いだろう。ヤマトは錯乱状態だった。日に日に獣の様に容姿が変貌していき、しまいには夜になると黒い狼となって、嗅覚で少年を探し出し食いちぎっていた。私も彼に捕えられ大きく損傷した。」
「えっ!とばりさんを捕まえたのってヤマトなんですか⁈」
「そうだ。漆黒の狼の姿をしたヤマトだ。少年を殺害する事だけが最後に意識として残ったのだろう。少年は日々恐怖と戦っていたことだろう。器が無いとはいえ、刺されたり、食われたりすれば、それ相応の痛みがある。夜になると少年の断末魔が聞こえた。」
何という事だろう。殺人が行われていたのだ。しかも数日間に渡って!
食われても死なない体。地獄だな。
「とばりさん。ヤマトは何日くらいでここを去ったのですか?それと、少年はここへ来て何日目かわかりますか?」
それが分かれば、僕に残された時間がおおよそわかるのではないだろうか?
「ここの時間は君の知っている時間と異なる。前にしか進まない事以外に共通点は無い。分かりやすく言うと延びたり縮んだりする。目安にはならない。」
「そういえば、少年の時間を延ばしているって言ってましたね・・・。」
僕は一向に進まない壁掛け時計を見て言った。
時間の無い中効率よく手がかりを探す方法・・・。
地図が有ればいいのだが、あいにく見つけられなかった。村の境界線を回ってみれば全体の大きさが分かるだろうが・・・役場に行けば手に入れる事は可能だろうか?
「そうだ!小学校の卒業名簿が有れば少年の名前も僕の名前も色々な事をいっぺんに思い出すのではないですか⁈」
「圭。何か来る。」
「えっ?何か来る?来るって・・・ここへですか⁈」
耳を澄ませば、砂嵐は幾分納まった様だが、風の音に交じって不穏な音がする。ブーンという・・・エンジン音?車?いや、上から聞こえてくる飛行機?
こんな嵐の中を飛行機が飛んでいる?近づいてくるようだ。
耳を澄ましていると、大きな爆発音が轟いた。
「落ちた?」
僕はすぐさま窓の外を確認したが、分からない。嵐は納まってきているとは言え、外に出るのはまだ危険だ。
「とばりさん!ど、ど、どういう事ですか?何かが攻めて来たのでしょうか?」
ヤマトと少年の殺人の話を聞いたばかりだ。嫌な予感しかしない。
「さてな。パイロットがここへやってくると大抵飛行機で現状を確認する。そして大抵墜落する。」
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