第6話 【パルス】異教徒
春祭り当日まで奉納する舞いの練習で忙しくしていたが、圭が制服を燃やしてしまった事を、いつ幸子さん達に話すのか気が気じゃなくて、僕は日が経つにつれて神経衰弱になっていった。
今更ながらとんでも無い事をしてしまったと心底ビビッていたのだ。
僕は、まるで逃亡中の盗人の様に、誰かに名前を呼ばれる度についにばれたかと、恐々と祭りまでの四日間を過ごさねばならなかった。
今更考えた所で何も変わらない。燃やしてしまった制服は元には戻らない。
分かっている。
分かっているけれど、ふとした瞬間に、炎に赤く照らされた横顔を思い出すのだ。
何度もスマートフォンを立ち上げては通知の有無を確認する。
何度も文章を打ち込んでは、途中で空を見上げてしまう。
「元気か?」
「ちゃんと食べてるか?」
「怪我の具合はどうだ?」
「圭が女でも男でも、何も変わらないよ。」
なにを打っても、送信ボタンが押せない。
何故なら僕の気持ちと僕の打った文章がイコールじゃないからだ。ピッタリと合致しない。隙間だらけで大事な何かが、こぼれ落ちてしまう。
僕は少しでも時間が空けば、これまで以上に熱心に舞いの練習をして、制服の事と圭の事を頭から追い出した。
祭りに誘えばいいのだ。それまでは連絡をしない。会って話をしよう。何を話したいのかは分からないけれど。会えばきっと、何てこと無い話が出来るだろう。
馬鹿みたいに天気の話をしてもいい。
僕は予定通りに、祭り前日の夜にメッセージを送った。
聡「明日、祭りおいでよ。舞いの後に露店で何か買って昼飯一緒に食べよう。」
もう、何日も前に考えておいた文章だ。
すぐに既読が付いた。
もしかしたら断られるかもしれない。圭は僕と一緒のところを村の連中に見られるのを酷く嫌がるのだ。それなら会いに行けばいい。
それにきっと僕より圭の方が話し相手が必要だと思うし、たぶん僕以上に緊張しているだろう。入学式は祭りのすぐ後なのだ。
祭り当日。
圭「行けたら行く。」
早朝、圭から短い返信が来ていた。
今までの経験からきっと圭は来るだろうと思ったが、こっそり舞いを見たら一人で帰ってしまうかもしれないなぁと思った。
とにかく泣いても笑っても今日は本番だ。気合を入れて舞いに集中しよう。
父さんの運転する車に乗って神社へ向かうと、すでに関係者が集まっていた。いつもひっそりとしている境内は露店が軒を連ね仕込みの真っ最中だ。否が応にも気持ちが昂る。
初めに祈祷があって、それが終わると一斉に衣装を着る。
衣装を着ると不思議なもので自然と背筋が伸びる。なんだか身も心も清らかな気持ちになったような気さえするから、僕も案外ミーハーだと思う。
出番まで待合室で待機していると、カメラを持った母さんが鬱陶しい程、僕の写真を撮りまくっていたが、僕はわざと変な顔をして笑ってやらなかった。しかしそんな余裕も初めだけで、僕等は時間が近づいて来ると吐きそうになるほど緊張していた。
舞いは、小学校の三年から四年の二年間同じクラスだった、川村という寡黙な奴と組んで踊る。これまで話す機会が無かったが、話してみると家に大量のゲームを持っていたり、パソコンで簡単なプログラムを組む事も出来きたりと、物知りで親切な奴だった。
しかも同じパソコン部に入る予定だと言う。僕等二人はこの偶然を喜び急速に仲良くなった。
その川村は、さっきからやかんに入ったお茶を、秘蔵の酒を開けた爺さんの様に、神妙な顔つきでちびちびと飲んでいる。
「川村。あんまりお茶飲むとトイレに行きたくなるぞ。」
こっちを向いた川村は、表情筋が退化してしまった未来人の様な顔で「分かってるんだけどさ。口が乾くんだよね。ちょっとトイレ行って来る。」と、言って出て行った。
舞の衣装は一人で着るのが難しい。
案の定、川村はトイレから戻ってくると二回目の着付けをしてもらう羽目になった。
「中村君。義臣の事よろしくね。」
美容院で働いている川村の母さんが着付けを直しながら僕に言った。
僕の着付けをしてくれたのも川村の母さんだった。川村とイメージの違う、きびきびと動く厳しそうな人だ。
「いえ、川村には練習付き合ってもらって助かりました。」
実際に川村は練習熱心な奴だった。カメラで撮影した画像をチェックしながらの練習方法も川村が言い出したことだ。
「この子、パソコンしか友達が居ないから、困ってるのよ。」
「僕もパソコン好きですよ。中学になったら一緒にパソコン部に入ろうって話してるんです。」
「あら、そうなの?この子そういう事、何にも話してくれないのから。ほら出来たわよ。」と言って川村のケツを叩いたが、叩かれた本人は無反応のまま元の席に座った。
今頃、父さんはカメラを構えて、僕等が出て来るのを今か今かと待っているだろう。
踊り子は全部で二十名ほどいる。順番に出て行って舞いを奉納しては入れ替わりに下がって来るのだ。
僕等は二番目の出番だ。テンポの遅い曲に合わせての腕の角度や腰の落とし加減など細かい所を合わせるのが難しい。しかも衣装が動きずらい。
移動時間になって出番順に並んで出発すると、何だか地に足が付いていない感じがして心許ない気持ちになった。
僕は自分に気合を入れるためにも、前を歩く川村の肩を叩いて「川村。欲を掻かずにいつも通りにやろう。」と、言った。
川村は僕の言葉に息を大きく吐きながら頷いて答えた。
大丈夫。あれだけ練習したのだ、きっと上手くいく。
そうこうしているうちに一組目の舞が終わって、太鼓の合図で舞台中央に移動する。
いよいよ僕等の番だ。
僕は静かに息を吐いた。
集中すると周りの雑多な音が消えて雅楽の音だけがはっきりと聞こえる。
踊り初めの笛の音が鳴って、僕は右足を前に出した。
腰をひねりながら落とす、両腕をそろえて下げる、伸びあがって右を向く、左足を打ち鳴らす。
息を吐いて吸う。川村とタイミングを合わせる。
左腕を突き出ししゃがみ込む。
ゆっくり立ち上がる。
ぐるりと回る時は目線を高く。胸を張って姿勢よく。
大丈夫だ。ちゃんとやれてる。
僕は想像を巡らす。
ここだけ神様の異空間で観客は神様しかいない。
動くたびに鈴の音が空間を波紋の様に震わせて進む。
厳しい冬が終わって春の訪れに感謝して、神様と共に踊るのだ。
春の風が吹き抜けて、春の日差しが呼びかけると、黒い土を押し上げて芽吹きが答え、鳥が歌う。
きっと神様は笑って見てくれている。
暖かい。
ぐるりと回って最後のパートを丁寧に舞う。
静かに音楽が終わり、短くも長い舞いは終わった。
入れ替わりに入って来た踊り子に道を譲ってから脇に座る。
終わった。
舞っている間は集中出来ていたと思う。
男舞の次の女舞が終わると舞台から降りて、川村とお互い見やって笑い合いながら、半ば小走りで控室に引き上げた。
「上手くいったな!」
「うん。疲れたよ。」
肩の荷が下りるとはこの事を言うのだろう。皆口々に安堵の声を上げている。
しばらくして全員が無事に控室へと戻って来ると、代表から総括があり、堅苦しい挨拶が終わると、集合写真を撮って、やっと、さなぎの様な衣装を脱ぐ事を許された。
重いわけじゃないのに、脱ぐと開放感で身体が軽い。畳の上に横になりたい位だ。
後は大人達の宴会が始まるだけだ。見つからない内に退散するに限る。
安心したら急に空腹を覚えた。
圭は見てくれただろうか?
帰り支度を済ませた川村が僕の傍に来て、晴れやかな顔をしている。
「僕はいとこが来てるから合流して、露店を見るけど、聡はどうするの?」
「ああ、一応約束してるけど。どうかな、家に帰るかもしれない。」
「そっか。じゃ、次会うのは入学式だな?僕暇だからいつでも連絡して。」
「うん。じゃ、また。」
ここ数日、毎日川村とつるんでいたから、少し寂しい思いがする。
川村と別れた所で母さんに後ろから声をかけられた。
「聡。圭ちゃん来てたわよ。一緒に中に入りなって言ったんだけどね。露店回るって言ってたから、まだ外に居ると思うわよ。」
母さんに耳打ちされて、僕は不機嫌な顔を思い切り作った。
「近いよ、母さん。分かったから。」
母さんは訳知り顔で笑っている。母さんにはいつだってデリカシーが無いのだ。
しかし圭が来てくれるか、半信半疑だったから、嬉しい。
早くつかまえないと帰ってしまう。
スマートフォンの画面に通知は表示されていない。やはり何も言わずに帰ってしまう気なのだ。
聡「圭。母さんに会ったんだって?露店見てる?腹減ったから合流しようぜ。」
連絡を入れてしばらく待つと返事が返って来た。
圭「お疲れ様。馬子にも衣裳で似合ってた。」
聡「母さんと同じ事言うなよ。どこ?上の階段に居るんだけど。」
圭「そっち行く。」
圭に会うのは、あの日以来だ。圭は家に閉じこもってばかりだから、良い気分転換になれば良い。あんな何も無い部屋に一人何をするともなしに、じっとしているのは、誰が考えたって良くない。
「聡。」
マスク姿で現れた圭は思ったより元気そうで少しほっとした。
「圭。元気か?焼きそば食べようぜ。」
「さっき、食べた。」
「えっ?もう食べたの?」
「うん。おなか減って。」
「そっか。ちゃんと食べてるか?」
「食べてるよ。でもまだ食べたいから、聡は焼きそば食べればいいじゃん。私、焼き豚食べたい。」
「焼き豚も良いな。」
ブロック状にカットされたブタが焼ける匂いは食欲をそそる。食べる前から涎が出て来た。
「舞い見た?」
「うん。人が凄かったから、後ろの方で見たけど、聡が出てきたら、すぐに分かったよ。」
「そっか。」
「ちゃんと踊れてた。」
「まあ、練習したからな。」
「うん。良かった。私、帰りにベビーカステラ買って帰りたい。」
圭の声はいつになく弾んでいる。やっぱり、誘ってよかった。
小さい頃、圭とこうやって並んで露店を見て回った。あの頃から圭は女舞より男舞が好きだった。
圭が男として生まれていたら一緒に踊れたかもしれないなぁと思ったが、口に出して言うのは止めておいた。無い事を、あったかもしれない事の様に言うのは良くない。虚しくなるだけだ。それにきっと圭なら女舞でも見栄えよく踊れただろう。
「よし。じゃあ買いに行くか!家に帰ったら、おにぎり有るけど持って帰るか?」
「え?いいよ。家族の分でしょ?」
「露店飯だけじゃ腹がふくれないから、朝に作ってもらったんだけど、さっき弁当が配られてさ。」
「そうなの?余るんだったら、貰うけど。夜食べるんじゃない?」
「大丈夫。夜は宴会だよ。」
「異教徒!」
突然に大きな声がして、声のした方を見やったが一塊に人が居て、誰が発した言葉か分からずに圭の方に向き直ると、圭は顔をこわばらせて声がした方を睨んでいた。
それでようやく、さっきの言葉が圭に向けられたものだったのだと合点がいって、あまりの悪意に閉口してしまった。
圭は声のした方を睨み付けると「ごめん聡。やっぱり私、帰る。」と言って、階段を下りて行ってしまった。もしかしたら、『異教徒』と呼ばれた事が前にもあったのかもしれない。たぶんきっとそうだ。
「圭!」
せっかく来たのに本当に帰るのだろうか?あの部屋を出てここまで来たのに?
どうしてあんなことを大声で、しかも皆が居る前で言うのだろう?こういう事する奴の気がしれない。誰が言ったのか分からなかったが、若い男だ。同級生かもしれない。
「圭!待って!」
参道は露店がせり出していて、いつも以上に狭い。
圭の後ろ姿は人ごみに消えようとしている。昼の一番混む時間帯なのだ。
僕の声に圭は一度こちらを振り返って、僕を目でとらえると、静かに首を横に振った。来てくれるなと目が言っている。
僕は金縛りにあったみたいに圭を黙って見送った。
圭がなにをしたと言うのだろう?
横を見ると、ちょうど焼き豚の屋台の前で、肉が焼ける香ばしい匂いがする。僕は急いで二本買うと、隣の屋台で焼きそばを買って、鳥居をくぐる前にベビーカステラを買って圭を追いかけた。
僕も圭も腹が減っているし、皆と同じように祭りに来ているのだ。誰にも邪魔されるいわれは無い。何が異教徒だ!腹が立つ!ここで諦めたら圭と話せない。
大荷物で逆走する僕に視線が集まっている気がするが構わない。
通りに出るとすでに圭の姿は見えなかったが、僕は迷わず走った。
僕の家を過ぎた所で圭の背中が見えた。とぼとぼと歩いている。
「圭!焼き豚買って来たぞ!」
僕の声に圭は振り返ってくれた。
「家で食べよう。」
今日は天気が良い。じっとりと汗をかいたが、風が吹いて気持ちいい。
圭はじっとこちらを見ている。
「圭!冷めちゃうよ!早く。」
圭は遠目からでも分かるくらい大きなため息を一つ付くと、とぼとぼと戻って来た。
何だか可愛い。
「何やってんの?」
圭はあきれた口調でそう言ったが、声に剣は無い。
「圭の分も買ってきた。」
「・・・ベビーカステラ食べたかった。」
圭は元気なく呟いたが、僕は嬉しくなって、まだ暖かい袋を目の高さまで持ち上げた。
「あるよ!」
「・・・。」
圭は袋を見て、我慢しきれなくなった様で笑い出した。
今日は祭りだ。
春の到来に感謝する日だ。
良い日でなければならない。誰かと一緒に、美味しいものを腹がいっぱいになるまで食べれば、そんなに悪い日ではないだろう。
家に戻る道中、早速、焼き豚にかじりつく圭の顔を見ながら、そう思った。
そうして短い冬休みが終わってしまって、いよいよ差し迫った入学式の前の晩に、僕はとうとう我慢できずに圭に連絡を入れた。
聡「明日入学式だけど。制服の事は上手く言えた?」
圭「まだ、言って無い。」
聡「今から言うの?大丈夫?」
圭「明日の朝、間際に言う予定。」
聡「そうか。がんばれよ。」
圭「うん。ありがと。」
がんばれよと送信してから、やっぱり母さんに相談した方が良いのではないかと思ったが、ますます話がややこしくなるだけで、問題は解決しないだろうと思って、止めておいた。
明日の朝、制服を燃やしたことを告げられる幸子さんは、気が動転してしまうに違いない。
制服を眺めながら、これを切り刻むのは相当な勇気と覚悟がいるなと改めて思った。その覚悟が幸子さん達に伝わるだろうか?
明日の事を思うと憂鬱でなかなか寝付けない。
きっと圭も同じ気持ちだろう。
今なら、世界で一番圭の気持ちを分かってやれるのは僕だと自信を持って言える。
入学式当日、僕は小学校の入学式を思い出そうとして断念した。
六年前は子供で何も考えていなかった。ただ漠然と、晴れやかに誇らしく背筋を伸ばし、未来は明るく輝いていると信じて疑わなかったような気がする。
体に馴染んでいない制服は歯列矯正の金具の様に僕等に前を向かせる。学ランの胸に赤い花を付けてもらい、行儀よく整列して音楽と共に入場していく時に、僕は一人そんな事を考えていた。。
なんにせよ僕等は中学生になったのだ。
見た目には背も伸びたし、体重も増えた。顔付もしっかりしてきたと思う。だけど何をもって大人に近づいたのか?分からないままに時は過ぎ、流されるまま中学生になった。
それでも、制服は階級が一つ上がったかの様な錯覚を起こす。これから毎日これを着て登校するのだ。
数日前に圭とセーラー服を燃やした僕は、言いようのない気まずさを一人感じていた。敵陣に一人紛れ込んだスパイの様な気分だ。
圭の姿を探したが見当たらない。心配している反面、圭が居なくて良かったかもしれないと思う僕は相当嫌な奴だろう。圭が出席すればきっと水を差す事になるし、明るい未来を脅かす者として見えるかもしれない。
圭の居ない入学式は粛々と滞りなく進み、予定通りの時間にきっかり終わった。
式が終わって教室に戻る途中でトイレに寄って、圭に連絡を入れた。すぐに既読が付く。
聡「圭。どこ?学校来てる?」
圭「制服の事、朝言ったら喧嘩になった。」
聡「大丈夫?」
圭「大丈夫じゃない。」
聡「怪我したのか?」
先日、宗教家から手酷く殴られたばかりだ。また殴られるのではないかと心配していたのだ。
圭「怪我はしてないけど、軟禁状態だよ。部屋に居る。」
聡「怪我して無いのは良かったけど、学校来てないのか?まだ幸子さん達居るの?」
圭「アイツは帰ったよ。母さんは居る。」
聡「そうか、今日行くよ。圭は2組で僕は1組だったよ。見つかるとヤバいから。またな。」
圭「来なくていい。」
最後の文面を呼んで、何か返事を打とうかと思ったが、諦めた。
こうなる事を全く予想していなかったわけじゃないけれど、圭自身はどう思っているのだろう?
僕の方のクラスには洋平も仲の良い友達も居たが、圭は五年生あたりから友達とつるんでいる所を見たことが無い。
今朝、圭から釘を刺された文面が頭をよぎる。
圭「学校では話かけない方がいい。」
なんて寂しい事を言うのだろうと思ったが、圭なりの心使いなのは分かっている。
入学式からヒエラルキーだのスクールカーストだの言われている階級を少しでも上げようと皆気合が入っている。圭は僕の足を引っ張るつもりは無いと言っているのだ。
宮本さんは入学式前から女子全員に声かけをしていて、すでに半数の女子からウザがられているが、気にしている様子は無い。僕にはあんな勇気はないなぁと感心してしまう。
「聡!お前どこ行ってたんだよ。便所か?」
席に戻ってくると洋平が話しかけてきた。
「いや、圭が入学式に居なかったからさ。連絡してた。」と、僕が言うと途端に洋平の眉間にしわが寄った。この顔をすると父親にそっくりな顔になる。
「聡。悪い事は言わない。圭とは縁を切れ。あの家はヤバいって。」
洋平の声音から僕を心配して言ってくれているのは分かる。
「ヤバいからだよ。ほっといたらもっとヤバくなるぞ?」
洋平は大げさに手をあげると「知るかよ!」と嘲笑った。これが村の反応だ。分かってはいるが何とかならないものかと思う。洋平も村の青年会の真似をしているのだ。
幸子さんが美人じゃなかったらもっとひどい状況になっていたのではないかと思う。でも幸子さんは結婚したし、何より爺ちゃんが死んだ。これまでより風当たりはきつくなるだろう。
「爺ちゃん死んだし、幸子さんが宗教家と結婚して大変なんだよ。知ってるだろう?」
力になってやれとは言わないが、せめて見守ってほしい。
「俺は知らん。もう駄目だ、あの家は。」
洋平は吐き捨てる様に言った。だがそれよりも “俺”と言った洋平の顔を僕はまじまじと見た。驚いたのだ。
「洋ちゃん、いつから一人称俺になったの?」
「しっ!馬鹿だな。最初が肝心なんだよ。西小と第二小の奴らに舐められるぞ!」
「洋ちゃん。そんな心配してんの?」
圭の心配事と比べて、余りの幼稚さにげんなりした。
「お前も俺の事は洋平って呼べ。ちゃん付け禁止な。」
「えぇ~。嫌だよ。」
「ガキ臭い事言ってんなよ。洋平って呼ばれた時だけ返事するからな。」
「面倒くさいなぁ~。それで髪の毛テカテカなの?」
「おう。兄貴の忘れてったジェル使ったんだけど、良いだろ?」
「うーん。ちょっと付けすぎだと思うよ。」
「そうか~?まだ加減が分かんねーからな。」
「栄兄、高校県外だっけ?」
「ああ、地獄の寮生活だよ。俺は念願の一人部屋をゲットしたから、今度遊びに来いよ。」
洋平は圭との決別宣言の後、少しして兄ちゃんが所属している町のサッカーチームに入ってしまって、放課後一緒に遊ぶ機会が減ってしまった。僕より世界が広い分、洋平の方が先に大人になって行く。
あんなに面倒臭がりだったのに毎朝ランニングしていると言うから驚きだ。僕はサッカーの面白さは分からないけれど、洋平は先に始めた兄の栄太より上達が早いらしい。
「洋ちゃん。部活は、サッカー部に入るの?」
「おう。チームの練習もあるから。忙しいぜ。お前は?」
笑いをかみ殺して平静を保つのが難しい。言った傍から洋平は呼び方の事など忘れてしまった様だ。
「パソコン部にすると思う。」
「暗っ。パソコンで何すんの?」
「ゲーム好きだし、プログラミングでも勉強しようかなと思ってるんだ。」
「自分でゲーム作るって事?すげえな。昔は一緒にやったなぁ。」
「レベル上げだけ、やらされてた気がするなぁ。」
僕はわざと遠くを見るふりをするが、洋平は真剣な顔で「いや、お前はレベル上げの才能があった。俺に、その才能は無い。」と、言った。たぶん本気で言っているのだ。
「ふふ。嘘つけよ。」
「ゲーム出来たら。見せてくれよ。パソコンに詳しい奴が友達に居るのは良い事だしな!がんばれよ!俺の為に!」
「ふふ。なんだよそれ~。」
洋平はいつも笑いの中心にいる。きっとチームでも人気者だろう。同じクラスになれて良かった。
馬鹿話をしていると、先生が終礼の為に教室に入って来た。
担任は国語が担当の山崎政孝と言う。頭が胡麻塩の太ったおっさんだ。眼鏡を鼻先に掛けて三白眼でこちらを見渡し、起伏の無い独特な話し方をする。気難しい印象だが、すぐに破顔して悪役プロレスラーの様な笑い方をした。生徒に対する返答にもユーモアがあって、僕はすぐに好きになった。きっとモノマネをする生徒が現れるだろう。
終礼はすぐに終わって解散となった。
父さんが運転する車に乗って家に帰る最中、母さんは父さんが録画した動画をチェックして厳しいダメ出しをしている。父さんの方が性能なんかは詳しいのに、写真や動画を撮ると母さんの方がセンスが良いのだ。
桜並木を見ながら今日の入学式も、高校へ入る頃にはもう、あまり覚えていないのだろうなと思った。
『なんとなく毎日をただ過ごしていると、なんとなく人生は終わるのよ。』と、母さんのはよく言う。それを聞く度に布団屋の看板を思い出すのだが、車はもうすぐ、その布団屋に差しかかっていた。
何年も雨戸が閉まったままの布団屋の前を通る。そこには、ほとんど文字が消えかけた大きな看板に、『人生の三分の一は布団の中』と、書かれているのだ。
僕はこの看板を小学生の時に見つけて唖然とした覚えがある。人生の三分の一も布団の中に居るのだから、良い布団で眠ろうと言っているのだろうが、僕は覚えたての分数がこんなにも身近に、揺ぎ無い数字として目の前に現れた事に恐怖を感じた。だからこの布団屋の前を通る度に、相変わらずなんとなく日々を消費している自分を恥ずかしく思う。中学生になったのだから今度こそ頑張ろうと漠然と思ったけれど、すぐにいったい何を頑張るのだろうと思い直して、たぶん頑張らないだろうなと思った。
家に帰ると、思いのほか疲れを感じた。圭は上手くやっていけるだろうか?
昼飯を食べて、二時ごろ連絡を入れた。
聡「調子はどうだ?今から行っても良い?」
圭「家族やめたい。」
圭が幸子さん達に制服の事をどんな風に話したのか、詳しくは分からない。だけど圭は話し合いを重ねても無意味だと結論づけた様だ。
聡「そう言うなよ。じゃ、十五分後。」と打つと部屋を出た。
台所に居る母さんに圭の家に行って来ると告げると、桜餅を押し付けられた。
「いらないよ。これ昨日、爺ちゃんが買ってきたやつだろ?」
爺ちゃんは二カ月ほど禁煙中で口寂しいらしく、おやつばかり買って来るのだ。
「いいから、こんなのばっかり食べてたら糖尿になるから。持って行って、爺ちゃんに長生きして欲しいでしょ?人助け。」と、これも母さんの常套句で三段腹の母さんが偉そうに言うので、言われる度に僕は奇妙な気持ちになる。
痩せ型の爺ちゃんより、母さんの方が問題があると思うからだ。
僕は自転車をのんびり漕いで圭の城へ向かった。カラカラと回る自転車の音が心地良い。鶯が鳴いている。だいぶ暖かくなって来た。
圭の城にはピンクゴールドの車高の高い軽が停まっていた。
少し憂鬱な気持ちになってしまう。幸子さんは決して悪い人じゃない、どちらかと言うと繊細で優しい人だ。美人だし。美人だし。美人だ。
インターフォンを鳴らすと、幸子さんが泣きはらした目をして出て来て驚いた。
思わぬ事態に僕はびっくりしてしまって、何も言えずに幸子さんの顔をただ凝視してしまって、言葉が出てこない。
大丈夫ですか?と聞くのも変な気がするし、何かあったんですか?と聞くのも踏み込み過ぎな気がする。
「聡君。ごめんね。圭ちょっと、具合が悪いのよ。」
「あ。・・・そうですか。」
嘘だと思ったが、何も言えない。
圭より明らかに幸子さんの方が具合が悪そうだ。半分しか開かない扉を見て、これは圭には会ってくれるなという事だろうと思った。
「桜餅。」
言葉が続かず袋を手渡す。
「ありがとうね。圭と仲良くしてやって。入学式行って来たんでしょ?」
「あ、はい。僕は1組で圭は2組でした。」
「そう、クラス離れちゃったのね。残念だわ。」
幸子さんは本当に心の底から残念そうにそう言った。
「あ、でも隣なんで・・。」隣だから何だと言うのだろう。言ったそばから、自分が何を言いたいのか分からなくなってしまう。
「ありがとう、これ頂くわ。お母さんにも宜しくね。」
突然家の中で扉が閉まる大きな音がした。たぶん圭が抗議の為に、おもいきり扉を閉めたのだ。
幸子さんは困った顔をして何も言わなかったので、僕も何も言わなかった。
立ち去った方が良いだろう。
「じゃ、あの、失礼します。」
まさか会えないとは思っていなかったので、面食らってしまった。圭の部屋を見上げるがカーテンが閉まっている。スマートフォンの画面を見るが何も通知は来ていない。仕方が無く自転車に乗ったが、ペダルが重い。
明日も圭は学校へ来れないのだろうかと思うと、陰鬱な気持ちになる。
家に帰ると、母さんに幸子さんの様子を報告して圭には会えなかったと伝えた。母さんは「あらら。仕方が無いわね。」と、言って鍋に火をかけた。
いったい何が仕方が無いのだろう?と、腹が立ったが、圭からの連絡を待つより仕方が無い、と、僕も同じような事を考えて、ため息が出た。
連絡は夕方になって来た。
圭「桜餅ありがとう。」
聡「うん。大丈夫?明日は来れそうなの?」
圭「分からない。」
分からない。これでは余りに、圭がかわいそうだ。
僕は何と言ってやって良いか、全く分からなかった。この世にあるすべての言葉が平坦で薄っぺらな、頼りないものに思えた。
台所からカレーの匂いがする。
腹が減った。
カレーの匂いにも、腹が減った自分にも腹が立つ。
ベッドに寝転がると、枕を殴って布団を被った。
大声で叫びそうだ。
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