第13話 【パルス】 不都合な真実 その1

『村上圭は死んだ。次はお前だ。中村聡。』




 圭が目覚めぬまま二学期が始まった日、僕の机にでかでかと貼り紙がしてあった。


 何だこれ?




 貼り紙を見たまま停止した僕は、爆風で頭が吹き飛ばされたみたいに、何も考えられなくなって何の言葉も出てこなかった。


 文面を読み返すが意味が分からない。




 ぎこちなく椅子に座ると、前の席に座る遠山が心配顔で振り向いた。


「俺が来た時には貼ってあったよ。お前、村上の事件になんか関係してんの?」


「し、してない。」声がかすれて生唾を飲み込む。


勿論みんな圭の事故の事を知っているのだ。




 教室に入った途端にみんなが僕の方を見たから何事かと思ったが、こういう訳だったのか。


 ガムテープを剥がす手が震える。ご丁寧に四辺隙間なく貼られている。




 圭は離脱しただと?


 腹が立つ。圭は離脱なんてしていない。


 誰だ?こんな出鱈目を堂々と言う奴は?


 次とはどういう事だ?もう圭は死んだ事になっているのか?




 圭の事故に学校の生徒は関係していない。


 あの宗教家がやらかした事だ。


 何があったのか具体的なやり取りまでは分からないけれど、幸子さんから母さんに電話があって、


 大体のあらましは聞くことが出来た。




 この貼り紙を書いた奴は面白半分で僕の机に貼ったのだろう。何も知らないくせに、当の本人が居ないから僕の机に貼ったのかもしれない。今この瞬間、僕の反応を見て笑っているに違いない。だけど僕は顔を上げて周りを見渡して犯人を捜す勇気が無かった。


 情けなさで目眩がする。


 皆が僕の一挙手一投足を見ていると思うと、ますます手が震える。動揺を気取られまいと舞台役者の様に平静を保つ芝居をしなければならない。顔がこわばっているのが自分でもわかる。


 僕はいつも一時間目が始まるまでの間、何をして過ごしていただろう?


 いつもこんなに教室は静まりかえっていたっけ?


 騒めく沈黙に耐えられそうもない。


 僕は息をするのも忘れて、永遠とも思えるこの瞬間を打ち破って誰かが何かを言うのを待ったが、誰も何も言わないので、貼り紙を丸めて教室の後ろにあるゴミ箱までゆっくりと歩いた。




 すると、そこ等にいた三人が大げさに僕を避けた。わざとおどけているのだが、僕は気が遠くなりそうになった。


たった三人の、その僅かな行動に傷つき、そんな事で容易に傷ついてしまう自分に大いに傷ついた。


 顔を上げずに席に座ると、遠山が「気にすんなよ。」と声をかけてくれた。僕は曖昧な返事しか返す事が出来なかったけれど、遠山に心の底から感謝した。こんな時、圭なら前を向いて遠山に「ありがとう。」と、言うだろうなと思った。




 朝礼で山崎先生が「まず初めに、みんな知っていると思うが、二組の村上の事故だが。」と、切り出した時、心臓が跳ねて顔を上げられず、僕はじっと自分の手から視線を動かさなかった。


「不幸な出来事があって入院しています。帰って来た時に気持ちよく迎え入れてあげれる様に、皆で回復を信じて待とう。それまで不確かな噂を鵜呑みにしない様に!以上!」と、言うと、次にはもう夏休みの宿題の提出期限についての話になっていた。




 余りの短さに呆気に取られてしまう。


 それだけ?それだけなのか?


 やるせなさが込み上げて来て、僕はじっと手を見たまま微動だにせず、込み上げて来たやるせなさが凪いで行くのを待った。




 それから、ぞろぞろと体育館に移動して慣例的な始業式が始まって、気もそぞろな内に始業式は終わっていた。


 僕はまるで、囚われて牢獄に一人幽閉されている様な気分だった。


 悲しみと憤りが波となって交互に押し寄せて来ては、少しづつ陸地を削っていく様に、僕の平衡感覚をいびつな物へと変えしまうのを、どうしようもない気持ちで眺めた。それはまるで自分の家が燃えているのをただ眺める事しか出来ないような時間で、容赦がない。


 燃えて無くなっていく。




 そして終礼が終わる頃には、すっかり浸食されて絶壁の孤島に一人、わななく怒りに震えていた。


 一刻も早くこの群衆から抜け出したい。


 馬鹿らしい。


 何がそんなに面白い?


 誰だ!あんな貼り紙をした奴は!


 腹立たしい!


 圭は死にかけてるんだぞ?


 みんないつも通りだ。


 どうしていつも通りなんだ?


 たいして面白くも無いのに、声を上げて笑うな!


 誰だ!あんな貼り紙をした奴は!


 馬鹿らしい。


 何がそんなに面白い?


 誰だ!あんな貼り紙をした奴は!


 腹立たしい!


 圭は死にかけてるんだぞ?


 みんないつも通りだ。


 どうしていつも通りなんだ?


 たいして面白くも無いのに、声を上げて笑うな!






 足早で自転車置き場に向う途中、後ろから声をかけられた。驚いて振り返ると急いで追いかけて来たらしい洋平が小走りで現れ、僕の肩に力強く手を置くと一息ついて「一緒に帰ろうぜ。」と、笑顔で言った。




 その笑顔と力強い手の感覚に、僕は何故だかハッとして洋平の顔をまじまじと見た。


 まるで憑き物が取れた様な感覚だった。




 真っ黒に日焼けした洋平は少し背が伸びた気がする。


「洋ちゃん。」


「ん?何だよ?」


 洋平と一緒に帰るのは久しぶりだ。入学当初もたまにしか一緒にならなかったし、最近はお互い部活で忙しく、教室でもあまり話さない。


「今日は部活無いの?」


「さすがに今日はねえよ。」


 きっと今朝の事を気に病んでいる僕を追いかけて来てくれたのだろう。大きく息を吐いて込み上げてくるものを、いなした。


「そっか。じゃあ、一緒に帰ろう。」


「おう。」




 九月に入ったとはいえ昼間は日差しが強く、自転車を五分も漕げば汗が噴き出る。


 農道脇のコスモスが満開だ。


 洋平は自転車をゆっくり漕いだ。並走して走る僕もスピードを合わせる。


「聡は宿題全部終わったか?」


「うん。何とかね。」


「お前、圭と宿題やってたろう?」


 洋平の言葉にびっくりしてハンドルが左右に振れてしまう。


「えっ?ああ、何で知ってるの?」


「お前の母さんが俺の母さんに話してたのをたまたま聞いたんだよ。」


「ああ。」と、僕は呻いた。




 母さんは、顔も広いし、お節介だし、おじゃべりなのだ。


「聡。圭に構うからあんな事になるんだぞ?」


 今朝の貼り紙の事を言っているのだろうが、その言い方だと貼った奴の方が正しくて、僕が悪いみたいに聞こえる。


「まあ、圭の事はもういい。お前も気を付けろよ。」


 洋平の中でも圭はもう死んだことになっているのだろうか?


 僕を心配して声をかけてくれているのだろうけれど無性に腹が立った。何もかもに腹が立つ。そして腹が立った途端に悲しくなった。


「あんなの気を付けようがないよ。」


「まあな。」


 日差しは強いが風が吹くと涼しい。カラカラと回る車輪の音を聞きながら、夏も終わりだなと思った。圭に披露したお手製のゲームを完成させなければならないが、あれから全く手を付けていない。なんだか遠い昔の事の様に思う。




「しかし圭の事はびっくりしたな。」


「うん。」


「お前。圭の家まで行ったんだろう?」


「うん。」


「大変だったな。」


「別に、大変じゃ無かったよ。見てただけだったし。」


「そうか。」


「うん。」


「それで、圭はどうなんだよ?」


「どうって?分からないよ。」


「まぁ、そうだよな。」


 圭の青白い顔と、鳥の巣みたいに絡まった後頭部と、人工呼吸器の音を思い出す。圭の事は話したくない。


「洋ちゃん。佐々木と喧嘩したって言ってたよね?」


「ああ?佐々木?喧嘩じゃないけどな。アイツが舐めた態度取るから、同じ一年の俺が言わなきゃ示しが付かなかったんだよ。」


「もう部に顔出してないんだろ?」


「もう来れないだろな。何て言ったと思う?『こんな過疎地のお遊びサッカーに付き合ってられない。』だとよ。」


「・・・そんな事言ったの?凄いな。」


「何が凄いんだ!アイツはまだ自分が東京に住んでるつもりなんだろうさ。田舎者になった事を受け入れられないんだよ。偉そうに!」


「高校は東京に帰るらしいよ。」


「なんだ?詳しいな?圭だな?アイツは部に来なくなったと思ったら圭にちょっかい出してたからな。」


「見たことあるの?」


「そりゃ目と鼻の先で話してりゃ嫌でも目に付くさ。」


「そうなんだ。」


「アイツかもしれんな。」


「何が?」


「貼り紙の犯人だよ。」


「えっ?」


 確かに何を考えているかわかない佐々木ならやりかねない。


「うーん。」


 憶測で滅多な事は言えないが、可能性はあるだろう。洋平に今までの事を話すべきか悩む。


「東京に帰るなら、関わらん方がいい。村のもんじゃないからな。」


「うん。そうだな。」


 果たして佐々木が犯人ならば僕を放って措いてくれるだろうか?と考えてすぐに、きっと放って措いてはくれ無いだろうな、と思った。






 次の日、教室に入ると机に向かう間もなく、洋平が僕の腕を取って廊下に連れ戻した。


「聡。お前の机ベランダにあったぞ?」


 洋平は何の前置きも無くそう言うと、腕を握る手に力を込めた。


「えっ?」


「戻しといたけどな。お前、苛められてんのか?」


「えぇ?」


 苛められている?僕が?何故?


 顔が熱い。急に恥ずかしくなってきた。もっと違う言い方は出来ないのかと、文句が言いたくなる。


「ぼおっとすんな。二日続けてだろ?大丈夫か?」


「大丈夫かって言われても・・・。」


「先生に言うか?」


「えっ?・・・どう、しようかな?」


 先生に言ったら、大事になってしまう。先生はなんて言うだろう?きっと「中村の机をベランダに出した奴はだれだ?」なんて馬鹿みたいに聞くだろう。


 その後の重苦しい沈黙が続く間、僕はどんな顔をしていればいいのか分からない。


「いや、いいよ。誰がやったか分からないし。」


「そうか?まあ、先生に言ったところで、わからないだろうしな。」


「うん。」


「なんかあったら言えよ?」


「ああ、サンキューな。」




 洋平に促されて教室に入ると、あからさまに皆が僕を遠巻きに見ている。自分の教室なのに見当違いな場所に迷い込んだ錯覚に陥る。




 犯人は誰だろう?


 本当に佐々木だろうか?この中に犯人が居るんじゃないか?犯人は一人とは限らない。僕の見ていない所で今まさに目配せして笑っているのではないか?


 知らない間に何かが起こっている。これは始まりに過ぎないのではないか?


 ぞんざいに扱われた僕の机。


 この机を使い続けなくてはならない僕自身に値打ちが無いように思えて、酷く嫌な気分になった。


 一時間目の数学の教科書を机の上に出して、息を呑んだ。


 すぐにページを開いて、閉じない様にペンケースを上に置く。


『偽善者』


 表紙にでかでかと極太のマジックで書かれていた。そっと机の中の他の教科書もチェックするが、全てに同じように『偽善者』と書かれていて、手が震えた。


 なんてことだ。


 言い逃れの出来ない犯罪を暴かれた様に、じっとりと全身に汗をかいた。




 偽善者?


 偽善者って何だ?


 ・・・わからない。




 僕の何が偽善的だと言うのだろう?


 誰だ?


 誰だ?誰だ?


 誰だ?誰だ?誰だ?




 先生が黒板に方程式を書いて聞く。


 先生。


 僕にはわからない。


 先生。


 僕にはわからない。






 その日の放課後、パソコン部に顔を出すと、早々に川村が申し訳なさそうな顔で僕を人気の無い廊下に連れ出した。僕は正直、またか!と、うんざりしたが、川村は急いている様子で「聡、佐々木が僕の所に来たよ。」と、言った。


「佐々木が?」


「うん。これから聡はパソコン部に来れなくなるけど、どうしようもない事だから気に病むなって言われたけど。どうなってんの?」


「何だよそれ?」


「佐々木に何か言われたんじゃないの?」


 僕の困惑顔を見て川村の顔が険しくなった。




「何も、言われてない・・・。」


 やはりあの貼り紙は佐々木かもしれない。


「聡、佐々木と仲いいって訳じゃないよな?」


「そんな訳ないだろう。」


「そうだよね?もしかしてだけどさぁ。村上が関係してるんじゃないかな?」


「圭が?」


 きっと僕と話すまでの間、川村は色々な事を考えたのだろう。口調から何か確信めいたものを感じる。


「うん。聡には言って無かったけど、たぶん佐々木は村上が好きだったんじゃないかな。」


「嗚呼、どうだろうな。」


「知ってたの?」


「いや、圭から佐々木の事は聞いてたよ。」


「そうなんだ。」




 川村に見栄を張っても仕方ないと思いつつも、圭と佐々木の関係性が川村の目を通してもそんな風に見えていた事実に素直に驚けなかった。




 どうして佐々木は圭の事が好きになったのだ?


 仮にそうだとしても佐々木の意図がまるで分からない。好きな相手が入院しているのに、『離脱した』なんて過去形で書いたりするだろうか?


 何にせよ川村には悪い事をした。


 急に僕が部活に来れないと佐々木に言われたら、誰だってびっくりするだろう。


「なんか、ごめんな。変な事に巻き込んで。」




「いや、それは良いんだけど、パソコン部に来れなくなるって言うから、何かあったのかと思ってさ。一年は僕等だけだし。」


「大丈夫だよ。アイツちょっと頭がおかしいからな。」


 僕は笑って言ったけれど、川村は不安気なままだった。


 実を言うと、貼り紙の犯人が佐々木だと目星がついて、僕は少し安心していた。


 それまでは誰からの視線も悪意のあるものに感じて、まるで靴の中に小石が入っている時の様に何をするにも邪魔が入って来て、漠然とした焦燥感から抜け出せなかった。


 佐々木と話をするのは正直気が進まなかったが、川村にこんなことを言うくらいだから、正体がばれても構わないという事だろう。だけど、あの独特の圧迫感を思うと気が滅入ってしまう。


 アイツの目に僕は一体どう映っているのだろう?想像するのも嫌になる。






 次の日、僕は気合を入れて佐々木を呼び留めたが、驚くことに佐々木は事前に約束を取り交わしていた様に片手を上げて僕に合図すると、ついて来いと人差し指だけで僕を手招きした。こんなの映画でマフィアが手下を呼ぶときにしか見たことが無い。




 黙ってついて行くのも腹立たしいが、川村に言った言葉の真意を問い質さなければならない。それに張り紙の事も、机をベランダに出した事も、教科書の烙印も、問いたださなけれならない。




「佐々木。川村になんであんなこと言ったんだよ?部活に行けなくなるってなんだよ?」


佐々木は、息まく僕をいなす様に首を振ると、うんざりした表情で「ここの奴等は元気がいいね。」と独り言ちる様に言った。




 余りの態度に頭に来て、もっと大きな声で言い返してやろうと息を吸うと、佐々木は片手を突き出して僕を制し「そんなに大きな声を出して良いのか?」と声を落とした。それから満足したように笑うと、「村上圭の秘密を教えてやる。」と、言った。


「えっ?」


「忙しくなるよ。」


「秘密?」


「嗚呼。」


「・・・?」


「心配しなくても、今日授業が終わったら迎えに行くよ。」と、言うと、話は終わったとばかりに、あっさりと踵を返してしまった。これではどちらが呼び出したか分からない。




「佐々木!待てよ!」


 僕はたまらず抗議の声を上げたが、僕の声なんて聞こえていないかのように振り向きもせず行ってしまう。まるで相手にされていない。




 容量オーバーだ。圭が何だって?


 それから僕はまた、一日中佐々木が言った事を考えて、またあのどうしようもない悲しみと憤りが波となって交互に押し寄せて来るのを、平衡感覚がいびつな物へと浸食されるのを、絶壁の孤島に一人、わななく怒りに震えながら、眺めて過ごさなければならなかったが、終礼が終わって廊下の掃除をしている最中に塵取りを蹴飛ばして現れた佐々木と目が合った時、あんなに怒りにわなないていたのに、泥水を飲んだ後の様な気分になった。




 せっかく集めたごみが散々している。


「迎えに来てやったぞ。んじゃ、行くか。」


「ど、どこに?」


 まるで違う惑星から来た奴と喋っている様だ。佐々木は口角だけ上げて笑ったが、僕はもうすっかり佐々木に対して委縮してしまっているのに気が付いた。


 佐々木は僕の持っていた箒を当然の様に奪うと、一緒に掃除していた木村に渡して「後はよろしく頼むよ。」と、言った。




 唖然と立っている僕を振り返ると「早くしろよ。」といって僕の足を蹴って、それでも動かない僕に舌打ちしてから突然「おい!」と一喝して僕と木村を震え上がらせた。


 木村が怯えたように僕等を見ている。


 廊下に居た奴らが何事かとこちらを見ている気配に、たまらなくなって「分かったよ。」と、答えたものの、何がどうなってこんな事になったのか全く分からず、冤罪で突然に不当逮捕された者の様に、鞄を持って恐々と前を行く佐々木の後をついて歩く羽目になった。


 何処に連れていかれるのか、これから何が始まるのか、まるで生きた心地がしない。




 佐々木は下駄箱まで黙って歩くと、「靴を探せ。」と、言った。


 訳が分からず佐々木の顔を見るが無表情で僕を見ているだけで口を開く気配がないので、僕は下駄箱を開けて靴がそこに無い事を確認してから絶望的な気持ちで「どういう事?」と、聞いた。




「靴を隠されたお前が、靴を探すんだよ。」


 こんな堂々と靴を隠す奴が居るだろうか?圭の秘密を教えてくれるのではなかったのか?


「ID教えろ。五時になったら、有ったかどうか確認を入れるから。」


 誰が考えたって教えない方がいい。


「嫌だよ。靴返してよ。」


「どうして俺がお前の靴を隠したと思うんだ。」


「違うの?」


「さあな。それより俺の事は山門って呼べよ。あのブタ女と一緒だと気分が悪い。」


ブタとは佐々木と同じクラスの佐々木栄子の事で、この状況については、詳しく説明する気は無いらしい。どうして今、自身の呼び名を気にするのだろう?


今、言う事じゃないだろう?




「分かった。山門って呼べばいいんだろ?そうじゃなくて、どうしてこんな事するんだよ。」


「お前がIDを教えないと川村に聞きに行く事になるんだぞ。」


 これには心臓に冷や水を浴びせられた様にゾッとした。耳の奥で心音が響く。


「川村は関係ないじゃないか。」


「関係は、作るのも、壊すのも、そいつ次第だ。」


「佐々木。」


「山門な。」


「ああ、山門。何がしたいのか分からないよ。」


 山門は下を向いて大きなため息を一つ吐くと、顔を上げて「早くしろよ。」と、言った。真面に僕と話す気が無いのだ。僕は言いようのない恐怖を感じた。




 これは揺るがない決定事項で僕は逃れられないのだ。


 佐々木は今にも恫喝しそうな顔で僕を見ている。唾を飲み込むとゴクリと大きな音がした。


 スマートフォンをポケットから取り出してIDを表示する。山門は静かにIDを打ち込んでから、「日が暮れるぞ。」と、言って僕を一人残して帰ってしまった。




 それから少しの間、山門が戻って来るのではないかとビクビクしていたが、戻って来る気配は無い。本当に帰ってしまったのだ。




 嘘の様な話だが靴を見つけない限り本当に手元に戻っては来ないだろう。


 先生に相談しようかと逡巡するが、こんな話とても信じて貰えそうも無い。しかし僕が突拍子も無い嘘を付く道理も無いから、分かってくれるのではないだろうか?




 そんな事を考えている最中にもクラスメイトが通りかかると、その度に物陰に隠れなければならなかった。どうしてコソコソと息を潜めなければならないのか、悲壮感で一杯になる。




 一時間ほど探しただろうか、粗方探し終わった頃にポケットのスマートフォンが震えたので、僕は慌てて画面を確認して、ため息を付いた。


「今日は部活に来ないのか?」と表示されている。


 昨日の今日で部活に来ないものだから心配したのだろう。川村の心配顔を思い起こして、もう一度大きなため息を付いた。




聡 「ごめん。今日は無理っぽい。」


川村「なんかあった?」


聡 「何にもないよ。急ぎの用事が出来たんだ。明日は行くよ。」


川村「了解。」




 画面に映る『明日は行くよ』という文字を見ながら、明日が来るのが怖いなと思った。


 スニーカーは何処を探しても見つからない。


『何にもないよ。急ぎの用事が出来たんだ。明日は行くよ。』自分で打った文章が僕の中でこだまする。




 何もないよ?


 急ぎの用事?


 明日?




 十七時に山門から着信が入った。


「どうだ?」


「ギブアップするよ。」


「ふっ。ギブアップでもなんでもすればいいさ。」


 電話は一方的に切れた。






 次の日の朝、僕は学校を休んでしまおうかと考えたが、それは山門に屈服して完全なる敗北を認める事になる様な気がして止めた。と、言えば聞こえは良いが、その実、休んでいる間に何をされるか分からない恐怖に打ちのめされていた。机が校庭の真ん中にあったなんてことになったら、今度こそ大事になってしまう。山門が何時に学校へ来るのか分からないけれど、先に教室に入っておきたい。


いつもより早く降りて来た僕を見て母さんが驚いた顔をした。




「あら?早いわね?弁当まだよ?」


「うん。」


「早く出るの?」


「ちょっと早く出ようかな?」


「ちょっと、早く出ようかな??そういう事は昨日の内に言いなさいよ。朝言うのは止めて頂戴。弁当、自分で詰めてよ?」


「うん。」


「何?元気ないわね?」


「えぇ?眠いんだよ。」


「また、夜中まで対戦してたんでしょ?」


「してないよ。そうだ、母さん、スニーカーがきつくなったから、お金頂戴。」


「えぇ?もう?こないだ買ったばっかりじゃない?成長期恐ろしいわね?背は伸びないのに足が先に大きくなった訳?どうする?このまま足だけ大きくなったら?」


「知らないよ。」


「何よ?あんたの事でしょう?忙しいんだから朝言わないでよ!財布に現金入ってたかしらね?あっ!お爺ちゃん、箸持っていって。」


 台所に入って来た爺ちゃんに気を取られている内に、母さんから避難する。


 洗面所で顔を洗う。 


 憂鬱だ。


 鏡には確かに元気の無い顔が映っている。






 母さんから一万円を貰って、いつもより早く家を出た。


 玄関先で古いスニーカーを引っ張り出した時、こんなに薄汚れていたかと少し驚いたが、十分もしない内に古い友人の様に感じた。




 同じメーカーの白のスニーカーだ。母さんを除いて誰も気が付かないだろう。


 ばれない内に帰りにスニーカーを買って帰ろう。その為には山門に見つからないように帰らなければならない。川村にも連絡を入れて。いや、いっそのこと川村には話してしまおうか?


 洋平には言わない方が良いような気がする。でも川村を巻き込むのは気の毒だ。


 だけど、このままだとどうせ心配をかける気がする。


 あれやこれやと考えたが、結局何も考えがまとまらないままに学校へ着いた。






 自転車置き場に入ると山門が立っていた。


 僕は声にならない悲鳴を上げたが、山門は僕を見つけると嬉しそうに「早いじゃないか。」と、帰省した親類を迎える様に傍に来て「良かったな。いつも通りギリギリに来たら、ぶっ飛ばす所だったぞ?」と、久々に会った甥っ子の成長を喜ぶ様に言った。




 僕はというと脳細胞がジリジリと死んでいく思いがした。


「別に、約束して無かったよね?」


「約束したら、意味が無いだろう。」


 何の意味があるのか、聞いても教えてくれないだろう。佐々木の言う事の半分も理解できない。


「何か用?」


 言ってから自分の質問が酷く滑稽で馬鹿みたいだと思った。昨日、靴を隠されたのに隠した本人を前に『何か用?』と、聞いたのだ。用があるに決まっている。


 靴を返してもらわなければならない。




「用があるのはお前だろう?」


「・・・。」


「ついて来いよ。」


 僕の返事を待たずに歩きだす山門の背中を睨み付けて、今日こそは山門の思い通りにさせてなるものかと、山門が振り向く前に走って教室へ逃げた。 




 そう、逃げる事くらいしか僕には反逆する勇気が無かった。でも、あのままついて行ったら恐ろしい事が待っている気がしてならない。


 根本的な解決にはならないかもしれない。より事態が悪化するかもしれない。でも僕はもう、黙ってついて行く事が出来なかった。




 教室に入ると五人登校していて、僕の顔を見ると、おやっという顔をしたが誰も声をかけて来なかった。元々親しい訳じゃない。


 佐々木が教室に入って来たら、話も聞かずに逃げよう。


 もう、無くなってしまったスニーカーの行方なんてどうでもいい。


 夕方には新しいスニーカーを手に入れるのだ。




 じりじりと朝礼が始まるのを待って、無事に先生が教室に入って来た時、僕は安堵して大きく息を吐いた。


「中村。お前のだろう?廊下の真ん中に落ちてたぞ?」


 名前を呼ばれて、心臓を握りつぶされたように息が止まった。




 教卓の前に立つ先生の左手に僕の体育館シューズ入れがぶら下がっている。


 学校指定のそれは全学年共通で学年と組、名前を書く欄が張り付いているのだが、そこにはまぎれも無い僕の筆跡で中村聡と書かれていた。




「えっ?あれっ。すみません。」


 どうして廊下に、落ちているのだ?


 前に進み出て先生から受け取ると重くて、おやっと思った。これは体育館シューズの重さじゃない。中身は昨日、佐々木に隠されたスニーカーではないか?


「どうした?」


「あ、いえ。すみません。」


 心臓が張り裂けそうだ。中身を確認せずに机の横のフックに引っ掛けてノートのページを慌ただしく捲った。


 きっと洋平は不審昨に思ったに違いない。


 昨日の事を誰にも知られたくない。僕は強くそう思った。




 シャーペンを握る手に力が入って、ぷつっと芯が折れる。


 佐々木はどうしてスニーカーを返してくれたのだろう?僕の知らない所で問題は解決して、佐々木の満足いく結果が得られたのだろうか?いや、待てよ?スニーカーの状態を確認しよう。酷い有様になっているかもしれない。




 休み時間に袋から出して確認すると、スニーカーは何の問題も無かった。だけど財布の中の一万円札を思うと気が重くなった。これでは母さんをだまして金を手に入れたみたいだ。新しいスニーカーを買わなければ、母さんに怪しまれてしまう。レシートとお釣りを返さなければならないのだ








 放課後、僕はわき目も振らずにスニーカーを買いに走った。




 店頭のマネキンは薄手のニットを着て、すっかり秋の装いだ。店内の至る処に装飾されている造花も紅葉して秋の雰囲気を演出している。




 だけど、僕は陽気なBGMが流れる店内を脇目も振らずに歩いて目的の店に入った。


 品数は少なく選択肢は二つしかない。


 展示してあるスニーカーを手に取ると足を入れた。サイズはピッタリだ。せっかく新しく買うのだからワンサイズ大きい物も試しておこうかと、顔を上げると、そこに居ないはずの山門が立っていた。




 僕は今世紀最大に血の気が引いて、持っていた鞄がずり落ちて足元に力なく転がったのに気が付かず、その鞄に足を取られてよろめいた。


 山門は口角だけ上げて笑った。




「スニーカー返ってこなかった?」


「いや、サイズが小さかったし。」


「ん?無くなって、丁度良かったって訳?」


「いや、そういう訳じゃないけど。」


「なんだ?丁度よかったじゃん?」


 僕は急いで、持っていたスニーカーを棚に戻す。


「それ買わないの?」


「ああ、うん。また今度にするよ。」


「ふーん。じゃ、ゲーセンいこーぜ。さっき通って来たとこにあったじゃん。じょぼくれゲーセン。」


 さっき?


 ずっと僕の事を付けて歩いていたのだろうか?




「いや、僕は帰るよ。」


「何でよ?来たばっかじゃん。」


「いや、やる事あるし。」


「聡君は、嘘が下手だね?」


「・・・。」


「ゲーム作ってるくらいだから上手いんだろ?対戦しようぜ。」


「いや、上手くないし。」


「金だけ置いて帰るのと、対戦してから仲良く帰るのと、どっちが良いと思う?」


「えっ?」


「スニーカー買う金、親に貰ったんだろ?」


「これは・・・。」


「じゃ、行くか!」




 がっしりと肩を組まれて、僕はカツアゲされるくらいなら、さっさとスニーカーを買えばよかったと思った。


 山門は僕の肩に腕を回したままスマートフォンを取り出すと電話をかけ始めた。




「あ、俺。俺。今どこに居んの?んあ?ああ。そう。ゲーセン居るから。来いよ。おう。ダッシュな。はい。はい。」


「・・・。だ。誰か来るの?」


「ん?まっつんと、ヒロ。」


 取り巻きの二人を呼んだらしい。山門一人でも手に余るのに、あと二人も加わるのかと思うと絶望的な気分になった。




 しばらくして現れた二人は僕を見ると、眉根を上げた。


「あれ?コイツ一組の中村?」


「ああ、偶然会ったんだ。」


「ふーん。」


「山門。俺達あんま金ねーぞ。」


「メダル交換は聡君がしてくれるよ。」


「えっ?まじで?お金持ち!」


「えぇ?いや、そんな事言って・・・。」


 僕が声を上げると山門が顔を覗き込んで来て、子供をあやすように僕の背中をトントンと叩いた。




 それから、たっぷり二時間、順番に対戦したが勝っても負けても文句を言われて、すぐに僕は蚊帳の外で所在なく画面を見つめる羽目になった。




 松本の引き笑いが耳についてイライラする。


 軽くなった財布を見ると気が重い。


 最後にプレーしたクレーンゲームで取れたアニキャラを、報酬だとばかりに僕に渡すと、三人は満足した様子で帰って行った。




 ヒグラシが鳴いている。


 黒い山の向こうに陽が沈む。


 家の明かりが見えた時、僕は安らかな気持ちで過ごせる場所を失った事に気が付いた。

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