第10話 【パルス】永遠の夏

 僕が圭を見つけると、佐々木がわざわざ圭の隣で、僕にだけ分かる様に口角だけ上げた顔で、手を振って来る事が有る。




 圭に近づくなと言ったから、腹いせに嫌がらせしているつもりなのだろう。初めは、なんて奴だと腹が立ったが、そのうちに手がかりの無い切り立った峰を歩いている時の様な、嫌な汗が背中を伝うようになった。 




 佐々木はまるで人間のふりをしている宇宙人の様な、身分を偽って潜入捜査を生業にしている奴の様な、とにかく僕等とは違う生物か、或は独自の思考を持っていて、僕等と違う世界に住んでいる。目的が分からないから、なにを考えているかも分からない。




 それに加えて、田舎者と仲良くする気は無いらしく、七月に入る頃には佐々木の印象は当初のそれとは大きく変わり、女子達の落胆は失望に変わって、すっかり残念なイケメンに落ち着いた末に、にわか仕込みの取り巻きも二人に減ってしまった。


その二人も、どこか無理している様に見えるのは、きっと気のせいではないと思う。




 そんなわけで、僕は夏休みが始まるのを心待ちにしていた。指折り数えていたと言っても大げさじゃない。


 佐々木の目の届かない所で圭と話す必要がある。


 それも時間をかけてじっくりと、警戒心の強い野良猫を捕まえる時の様に。




 学校では徹底して僕と関わりを持とうとしないから、佐々木の好きな様にさせてしまっていたけれど、もう少し佐々木に注意してもらいたい。これを上手く伝えなくてはならない。




 それと肝心の圭の家出は続行中で、四カ月経ってようやく実を結び始めていた。


 どういう心境の変化が有って、圭と何を話したのか分からないけれど、幸子さんが宗教家と離婚する可能性が出て来たのだ。圭の粘り勝ちといったところだろうか。




 幸子さんは週末だけ駅前の黄色い家に帰っている状態で、どちらが家出をしているのか分からない状況になっていた。圭の反乱を応援していながらも、たぶん失敗するだろうと思っていた僕は、圭からの報告を聞いても一緒に喜ぶ資格が僕に有るのだろうかと、なんだか申し訳ない気持ちになってしまった。




聡「良かったな。」と、打って送信した。


圭「うん。ありがとう。おばちゃんにも、お礼言っておいて。母さんの相談に乗ってくれてたから。」


聡「母さんは好きでやってるから、礼とかいらないよ。」


圭「そんな事ないよ。おばちゃんが居てくれて、本当に良かった。」


 母さんのおせっかいも時には役に立つのかもしれない。


聡「わかった。気が向いたら言っとくよ。それより、盆に爺ちゃんの墓参りに行こう。」




 既読が付いてから、画面をじっと見つめるが、すぐに来るだろうと思っていた返信はなかなか返ってこなかった。




 新盆だけど村上家は坊さんを呼んだりしないだろう。位牌があるのかも怪しい。だから、せめて僕等だけでも墓参りに行きたい。僕の家の墓と圭の家の墓はすぐ近くにあるのだ。


 余計なお世話だと思われただろうか?祝賀ムードをぶち壊してしまったのかもしれない。


 せっかく忌々しい宗教家と母親が離婚する所まで漕ぎ付けたのだ。圭の精神力は並大抵じゃない。僕ならとっくに降参していただろう。圭は昔から頑固な奴だった。そういう所は幸子さんに似ていると思う。待っていた返信は三分くらいしてやっと来た。




圭「ありがとう聡。宿題一緒にやろう。やっぱり、おばちゃんにも私から直接お礼を言うよ。」




 盆に一緒に墓参りに行けたら、その時に宿題を一緒にやらないかと提案するつもりだったから、僕はこの提案に一も二も無く飛びついた。




聡「おう。いつでもいいよ。」


圭「じゃ、明日行ってもいい?」


聡「母さんに言っとく。暑いから午前中に来いよ。昼飯用意してもらっとくから。」


圭「分かった、ありがとう。」




 画面から顔を上げると部屋を見渡して青くなった。早急に掃除しなければならない。


母さんに明日の来訪を伝えに階段をリズムよく下りてから、しまったと思った。これでは機嫌がいいのがばれてしまう。時間を置いてから伝えよう。








 約束の時間の十分前からの、僕の落ち着きの無さは自分でも引くほど、やましいもので、部屋の窓から見える一本道をカーテンの陰からばれない様にじっと見ている光景は、誰が見たってストーカーじみていた。




 圭が僕の家に来るにはどうしたってこの道を通って来るのだ。


 母さんがトウモロコシを湯がいてくれている匂いが二階まで充満している。


 今日は朝から、お薦めする漫画と音楽データをチョイスして、面白そうな映画をダウンロードした。宿題が一段落したら、一緒に華の散歩に誘うのも良いかもしれない。華の腹を撫でながらそんな事を思った。




 でも、誰かに僕と一緒の所を見られるのを嫌がるだろうから、提案するのは止めておいた方が良いかもしれないなぁとも思う。・・・どうして悪い事をしている訳でもないのに、不倫している者の様にコソコソと会わなくてはならないのか、息苦しくなって、華をぎゅっと抱きしめたが、身をよじって逃げられてしまった。




 道の向こうに圭が自転車を漕いでやって来るのが見えると、顔の筋肉を揉み解して一階に下りた。


 きちんとインターフォンを鳴らして現れた圭は、白いTシャツに短パン姿で学校に来る時と同じ格好をしていた。もしかしたら幸子さんに学校に行くと言って来たのかもしれない。




 出迎えた母さんに「お邪魔します。」と、遠慮がちに言って僕の家に入って来た圭は、笑顔がとても自然な感じで、学校でも普通に笑って過ごせたらいいのにと思ってしまっう。


「圭ちゃん。暑かったでしょう?冷たい麦茶入れるから、上がって頂戴。」


「ありがとう。おばちゃん。」


「いいえ。むさ苦しい我が家へようこそ。ゆっくりして行ってね。昼はてんぷらと素麺よ。圭ちゃんの好きなトウモロコシ湯がいてるから食べてって。」


「トウモロコシ?そう言えば今年食べてない。あ、聡。ありがとうね。」


 僕と目が合った圭は改まってそう言った。


「いや、仏間で宿題しようぜ。」


 母さんの手前、ぶっきらぼうな言い方になってしまう。




 向かい合って座ると圭は喉を鳴らして麦茶を一気に飲んだ。何だか幸せそうだ。


 幸子さんと上手くいっているのだと分かる。


「聡は、どうせ宿題全然やって無いんだろ?」


 鞄から宿題を取り出しながら圭はからかう様に言った。何だか久しぶりの感覚だ。


「全然という事も無いよ。ほら!」


僕は三ページ進んだ漢字書き取りを見せると、圭は盛大に顔をしかめて「全然進んでない。」と首を振った。こんなやり取りに、はしゃいでしまいそうになる。


「いいんだよ。今からやるんだから。数学、分担しようぜ。」


「ふふ。いいよ。」




 普段ならうるさくて集中できない蝉の声も、居間から聞こえる高校野球の中継の音も今日は何だか遠くに聞こえる。それよりも圭が走らせるシャーペンの音が心地いい。


 十二時になって献立通りの昼食をとると、さすがに眠くなって、仏間に寝転がった。圭も僕に習って横になる。本当に昔に戻ったみたいだ。




「ちょっと食べ過ぎたな。」


 調子に乗って詰め込んだ腹を撫でた。


「昔、この仏間で寝るのが怖かった。」


 天井を向いたまま圭はつぶやく様にそう言った。


「うん。引き戸の木目が怖いよなぁ。」




 仏壇の横に作り付けの棚があるのだが、宇宙のガス溜まりの中に沢山の目が浮かんでいる様な木目なのだ。今見ても気持ちの良い物じゃない。




「墓参りに誘ってくれて、ありがとな。」


「嗚呼、葬式の時、僕が抜けさせたから。爺ちゃんに一緒に謝ろう。」


「爺ちゃん、きっと怒ってると思う。」


「・・・そうかな?」


「あっ、聡の事じゃなくて、母さんの事。たぶん私の事も。寺とも、もめてたし。」


「寺とも?」


「納骨の時もめてた。」


「そうなんだ。あの若住職、代替わりしたばっかりで気が立ってるんじゃないか?字が下手過ぎるしな。」


「ふふ。確かに下手だね。親、習字の先生なのに。」


「たぶん、自分の親に習うのが嫌だったんだろ。なんとなくわかる。」


 寺ともめたから墓参りに行きにくかったのだろうか?だとしたら、誘って良かった。




「寝ちゃいそう。」


「目覚ましかければいいよ。」


「駄目だよ。生物の絵描こうよ。」


「えぇ~。嫌だよ。暑い。」


「聡の家、庭にミニトマト植えてなかった?」


「あそこは日中ずっと陽があたってるぞ。」


「聡は何描くの?」


「決めてない。草なら何でもいいんだろ?。簡単な草が良いな。そうだ!忘れてた!文化祭用にプログラミングしてるんだけどさ。見てよ。途中だけど、まあまあ良い出来なんだ。ちょっと待ってて。」




 自室にノートパソコンを取りに行くと、なぜか圭もついて来た。


「持って行くから待ってろよ。」


「聡の部屋が見たい。」


「えぇ~。良いけどさ。」と、答えてから内心、昨日汗だくで掃除しておいて良かったと思った。圭の事だから部屋が見たいと言い出すんじゃないかと思っていたのだ。


「エロ本どこに隠してるの?」


「そんなの無いよ。」


 隠した場所を見ない様に心掛ける。


「そういや陸上大会あるんだろう?」深く追求されそうで、無理やり話題を変えたが、圭は僕の顔から眼をそらすと「ああ。私は出ない。」と、言ったきり部屋を眺めてこっちを見ない。


「何で?」


「走るのが好きなだけで大会とかタイムとか興味ないし。」


圭の口調で嘘をついているのが分かる。嘘を付く時、圭は少し早口になるのだ。体育祭後に川村が言っていた事を思い出した。


川村は『自主練に参加させてもらえてなかったと思うよ。』と、言っていた。




 そういえばパソコン部が忙しくて、圭が部活で走っている所を最近見ていない。


 部活でも仲間外れにされているのではないだろうか?どうしてそんな事にも思い当たらなかったのかと今更ながら悔やまれる。そういえば佐々木も洋平と喧嘩したとかで、サッカー部に顔を出さなくなったと聞いた。


 いつ佐々木の事を切り出そう?




 パソコンを起動させてアイコンをクリックする。圭は椅子に座ると画面を見て「昔のゲームみたいだな。」と言った。仕様は簡単だ。攻撃しながら敵を避けてゴールを目指す。


「音は出ないの?」


 考え事をしていた僕は振り向いた圭の顔の近さに驚いて、気が付いた時にはもう、思った事をそのまま口に出してしまっていた。


「佐々木に何か変な事されてない?」


 完全に言い方を間違えた。




 圭は驚いた顔というより戸惑った顔で「変な事って何?」と、僕を初めて見た虫を見るような目で見ている。無理も無い。


「いや、佐々木がさぁ。何て言うか。相変わらずだろ?圭に絡んでくるって言うか、ちょくちょく顔出すだろ?」


「あっ、放課後?あれは・・・。山門ヤマトもサッカー部行って無いし、私も大会出ないし、それで、なんとなく。暇なんだよ。」




 驚いた。


 放課後、二人で会っているのか?しかもいつの間に下の名前で呼ぶようになったのだろう?


 佐々木の顔がちらついて嫌な気分になる。わざわざ僕に手を振って来るのだ、圭にわざわざ会いに行ったって不思議じゃない。


「ん?その事じゃないの?」


 固まったままの僕を見て圭が首をかしげる。


「いや・・・アイツちょっと怖くない?」


「ああ、何か、よく勘違いされるって言ってたよ。でも高校は向うに戻るから、別にいいんだってさ。」


「東京に戻るの?」


「うん。そうみたいだよ。。私も高校は東京に行きたいし。」




 東京!


 そんな話をしているのか?


 圭は東京に行ってしまうのか?


 佐々木と一緒に?


「東京?」


「うん。まだ、母さんに言って無いけど。」


 そんなの太刀打ちできないじゃないか?


「そうか・・・。」




 わかってる。


 ずっと一緒に居られない事は村を見れば一目瞭然だ。


 大学を卒業してここに戻って来る奴なんてほとんどいない。でもきっと圭が話しているのは中学を卒業したら、ここへは戻って来ないと言っているのだ。思っていたよりもずっと早い。冷静に考えたら、その方が良いだろう。爺ちゃんは死んだし、幸子さんだって離婚したら、ここにこだわる理由は無いのではないだろうか?




「佐々木が勧めたの?東京の高校?」


「ううん。なんとなくそうなったら良いなとは思ってたよ。山門と話してると、そんなに難しい事じゃないような気がして来た。」


「そうか、ところで佐々木のしたの名前って山門って言うの?」




 僕は画面のゲームオーバーという文字を見ながら他人事みたいに言った。上手く想像できない。圭が東京の高校へ行って、ここへは二度と帰って来ない。


「ああ、女子の佐々木さんと区別する為に、みんな山門って呼んでるよ。」


「爺ちゃんの家はどうするんだよ?」


僕の声は少し上擦っている様に聞こえた。そんな事が聞きたいのでは無い。爺ちゃんの家なんてどうでもいいじゃないか。




「まだ先だし。どうなるか分からないよ。」


 この村を捨てるのかと言いかけて、こんな村捨てられて当然だと思った。閉め切った部屋は暑く背中を汗が一筋流れて落ちた。


「暑いな。下に降りよう。」


「そう?」


 パソコンを持って階段を下りる。もう佐々木の話は、どうでもよくなってしまった。




 先に降りる圭の綺麗なつむじを見ながら、僕も東京へ行けたらなぁと、考えていた。


だけど大学に進学するにしても東京には行かせてくれないだろう。すでに姉ちゃんが両親と東京の大学への進学の件で、さんざん話し合った結果、東京は無しという結論に至ったのだ。




 仏間に戻ると、圭は僕の隣に座って背筋を伸ばした。


「聡。実はさ。母さんの怪しい宗教に行って来たんだ。」


「えっ???教団に?」


「うん。インチキ教団。敵情視察。とりあえず一度見てみようかと思って、聞き分け良いふりして潜入して来たんだけどさ。何か、もっと怪しい所かと思ってたんだけど、デカい体育館見たいな所だった。劇場とかもあって、ビデオ見たけど普通に凄かった。自分達で大道具から作ってるんだって、演技も上手かったし、なんか普通の人ばっかりだった。座談会があってさ、むしろ良い人ばっかりだったよ。良い人過ぎるから宗教に頼っちゃうんじゃないかな?」




 圭は鞄から一冊の本を取り出すと、僕に渡して「これ、経典みたいな奴。見てみる?」と言った。


 文庫サイズの黒いカバーに宗教団体の名前が金色で印字してある。


「なんだか怖いな。」


 僕は本をぱらぱらとめくって、ざっと目に付くところ読んでみた。




「第一項、まずは己を信じよ。己を信じられぬ者がいったい何を信じるというのだ。第二項、人間を信じよ、同じ人間をも信じられぬ者は神など信じられない。神は人ではないのだ。」


「ふふ。怪しいでしょう?だけど、神様より人を信じろなんて変な宗教だよね?」


「一回行ったら、もっと来いって言われるんじゃないか?」


「敵を知らなきゃ説得できないでしょ?」


「うーん。そうかな?大丈夫か?洗脳されたりしないか?」


「大丈夫だよ。」


「気を付けろよ?何に気を付けるのか分からなけど。それはそうと、離婚は出来そうなの?」


 経典を机に置いて伸びをする。何だかやる気が無くなってしまった。


 僕と圭に残された時間が卒業までと、はっきりして現実逃避してしまいそうだ。




 僕はここで爺になるまで田んぼに苗を植えて過ごすのだろう。冷夏を心配して、台風を心配して、圭の事を考えなくなるのだろうか?


「まだ分からないけど、話し合いはしてくれたみたいだよ。」


「そうか。」良かったなと心から言えない自分が居て、嫌になってしまう。


「盆に墓参りに行ったら、花火しよう。」


 気分を変えたくて思い付きで提案してみたが、いいアイデアだ。


「どこで?」


「うーん。ここじゃ駄目か?」


「夜はおじちゃん達いるでしょ?」


「そんなに気を使わなくてもいいよ。」


「うん。でも、やめとく。」


「じゃあ、キャンプ跡は?」


「あそこは夏はいかない方が良いよ。毎年ヤンキーが肝試しするから。」


「そうかぁ。」


 こんなにだだっ広いのに、二人で花火をする場所も無いのか?体よく断られただけかもしれない。




                     ◇◇◇




 このまま圭の望むように事態が好転して、次の段階に進むのだろうと思っていた矢先、八月十三日、日曜日、午後二十時四十五分。


 だんだんと近づいて来るサイレンの音に、僕はスマートフォンから顔を上げた。


 風呂からあがって、昼間に買っておいた棒アイスを食べながら、自室のベッドに寝ころんで、無料のアプリでカードゲームのパーティーを組んでいる所だった。二十一時からオンライン対戦で僕は攻撃隊長を仰せつかっていた。




 ここに救急車が来る事はそうそう無い。




 近づいて来るサイレンの音に、カーテンを開けて外を確認したが何も見えない。外は頼りない外灯が連なっているのが見えるだけで、いつも通りの黒い山と黒い空と、そこにあるであろう見えない田んぼしかない。




 外から涼しい風が入って来る。


 最近になって急に夜が冷える様になった。日中は半袖でも暑いが、夜は長袖の羽織る物が必要だ。


 サイレンの音は圭の爺ちゃんが死んだ時の事を思い出させた。あの時も、消防と救急とパトカーがけたたましいサイレンを轟かせてやって来た。半年ほど前の話だ。




 しばらくして予想通り救急車が僕の家の脇を走り去って行った。この先はT字路だ。


「右に曲がるな。」


 祈るような気持ちでテールランプを睨むが、車はT字を右に曲がった。くそっ。心の中で毒づく。


 僕は微動だにせず暗闇を見る。


 自室の照明のせいで網戸が白く反射して外が良く見えない、照明のスイッチを切ると、また遠くから聞こえてくるサイレンの音に気がついた。急に暗闇が迫ってくる感覚に襲われて、脇の下に嫌な汗が流れた。




 たぶん同じ場所へ行くだろう。


 サイレンの音がさっきのそれと違う。たぶんパトカーだ。


 それからすぐにパトカーが僕の家の脇を抜けて、同じ様にT字路を右に曲がったのを見送って、スマートフォンを操作して圭の電話にコールした。なにもなければそれでいい。他愛ない話をすればいい。コール音の後に留守番電話の非情なアナウンスが流れると、僕は自転車の鍵を掴んで部屋を飛び出した。




 嫌な予感がする。


 姉ちゃんが玄関から電話をしながら出ていくのに続いて僕も出る。後ろで母さんが何か言ったが聞こえない。




 僕は構わず自転車に跨ると、さっき緊急車両が通った道を全力で走った。


 自転車のライトの光は細く、漕いだそばから道の向こうへ飲み込まれていく。吸い込む空気が冷たい。


 何だ?今度は何だ?




 あの角を右へ曲がったら山道に入る手前に民家は五件ほどしかない。奥から三番目が圭の家だ。


 嫌な想像が膨らんで来る。春先に言い争いになった圭の頬を宗教家が殴った事があった。今度そんな事になったら、反撃してやると圭は息まいていたがここ数カ月は何事もなく過ぎていたのだ。


 飛ばせば自転車で十五分いや、十分だ。すぐに着く。ペダルをこぐ足に力を入れる。圭の家までは緩やかな昇り坂だ。ペダルが少しずつ重くなる。




 僕の息遣いと、ペダルを漕ぐ音がやけに大きく響く。


 上り坂に息が切れ始めた、最後のカーブを曲がって飛び込んできた光景に、僕は頭が真っ白になった。


 ここらの民家と民家の間は畑や田んぼがあって百メートルは離れている。遠目でも位置関係で分かるのだ、救急とパトカーが止まった家は圭の家だ。間違い無い。




 出し抜けに棺に入った圭の爺さんの顔を思い出す。やめてくれ。圭が何をしたと言うのだろう。なんだ?何が起こった?




 圭の家の手前で警察官が行く手を阻んだ。


 知らない顔だ。交番の坂崎さんじゃない。


 家には入れてもらえそうにない。幸子さんはこの事態を知っているのだろうか?


 週末は駅前の家に居るのではないか?




「すみません!なにがあったんですか?知り合いなんです。村上さんの家には圭しか、中学生しかいないんです!親には連絡がいっているんですか?」


 警察官は僕を一瞥して「ご家族以外は入れませんよ!」と両手を広げた。大きな声を出されて、一瞬ひるんでしまうが、ここで引いたら何も分からない。




「中学生の子は大丈夫なんですか?」


「通報があって、今調べているからね。警察車両が通るから。下がって!」


 僕は必要以上に後ろへ追いやられてしまう。警官はそれだけ言うと、敷地内に入ってしまった。


 これでは何も分からない。




 停車中の車両の赤いランプが忙しなく回転しているのを見ていると、イライラしてくる。


 圭の携帯に電話をかけるが、やはり単調な呼び出し音が続いた後、留守電に切り替わる。一度切って再度電話をかけたが結果は同じだった。




成す術がない。後ろを振り返ると野田のおばちゃんが歩いて来る所だった。圭の家の隣に住んでいる野田のおばちゃんだ。


「おばちゃん!何があったか知ってる?圭見なかった?」


 心配そうなおばちゃんの顔が赤いパトランプの光に照らされている。


「聡君!おばちゃんも今出て来た所だから。誰か怪我したんじゃないかね?救急車が来てるから。大した事なきゃ良いけど・・・。」




 おばちゃんの手にはテレビのリモコンが握られている。


 僕の視線に、気がつくと恥ずかしそうにエプロンのポケットにリモコンをしまった。


「圭ちゃんに電話は?」


 おばちゃんはそう言うと、僕の携帯を指差した。


「繋がらないんだよ・・・。」




 僕はあたりを見渡して他に事情を知っていそうな人を探しながらそう言ったが、野田のおじちゃんが向こう隣りの田村のおじちゃんと顔を見合わせて、首を振っている様子からして、事の顛末を知っていそうな人は見当たらない。皆あわてて飛び出して来たんだ。




 僕は改めて、圭の家を見上げる。二階の圭の部屋は電気が付いている。警察官は通報があったと言った。誰が通報したのだろう?




 母さんに電話をかけると、すぐに母さんの声がした。


「あっ。母さん?圭の家が大変なんだよ。」


「え?あんた今どこにいるの?」


「パトカーと救急車が来てて、入れないんだ。幸子さんに連絡してみてよ!」


「え?なに?さっきの、また圭ちゃんの家だったの?」


 母さんも爺ちゃんの事故の事を思い出したのだろう。


「そう!パトカーと救急車が来てるんだよ!圭の家に!」


「なんで?」


「だから、それが、分からないんだ!幸子さんの電話番号知らないから、母さんから幸子さんに電話してみてよ!」


「わかった。かけてみるけど、圭ちゃんには繋がらないの?」


「繋がらないから、頼んでるんだよ!」イライラする。


「わかった。わかった。じゃあ連絡してみるから。聡は家に戻りなさい。あんたがそこに居たって何にもならないんだから。邪魔なだけよ。わかったわね?」


「なんでだよ!」


「いいから戻りなさい!」


「・・・。」食い下がっても無駄だろう。


「わかったから、帰るよ!だから早く電話してみて!切るよ?」


 電話を切って画面を元に戻す。圭から連絡は入って無い。


 もう一度圭に電話をかけるが、願いは虚しくすぐに留守電に切り替わった。




 それからもう一台パトカーが来て警官が十人ほどになった。


 十分くらいしてストレッチャーを動かす音がして振り返ると、救急隊員が圭を乗せて家から出て来た。


「圭っ!!」近づこうとすると警官に押しやられた。


「危ないから、下がって。」


 圭の口に空気を送り込む為に管が入れてある。


 風船の様なものを手動で押して空気を肺に入れているのだろう。プールから上がった直後みたいに髪が濡れていて、顔は真っ白だ。その白さに僕は息を呑んだ。


人間はあんなに白くなるものなのか?




「救急車が出るから、下がって!」


 警官が僕に言ったが、救急車はなかなか発車しなかった。それからまた、おおよそ十分経ってから救急車は、けたたましいサイレンを鳴らして来た道を引き返して行った。


「忠信さん、亡くなったばかりなのに・・・。」


 野口のおばちゃんの声が遠くで聞こえる。


「忠信さん、亡くなったばかりなのにねぇ・・・。」


 野口のおばちゃんは誰に言うともなく、もう一度そう言った。




 圭の家を見上げる。


 寒い。寒いよ。歯の根が合わない。震えが止まらない。腹を抱えてしゃがみこむ。


「聡君?大丈夫?」


 野口のおばちゃんの声が遠くで聞こえる。


 圭を乗せた救急車のサイレンが遠ざかって行く。


 ん?・・・。


 遠ざかって行くサイレンと別に遠くからサイレンの音が近づいて来る?


 さっき出て行ったばかりなのに?戻って来る・・・はずはないから、もう一台ここへ来るんだ!




 はじかれた様に家を見やると、パトカーの向こうに見覚えのあるワンボックスカーが停まっている。宗教家が家に来ているのだ。もしかしたら幸子さんも来ているのではないか?


怪我?病気?いや、圭はずぶぬれだった。なんだ?何が起こった?




 考えがまとまらないまま、もう一台救急車が到着した。すぐに隊員が降りてストレッチャーを引いて家に入って行く。


 誰が出て来る?何があった?


 しばらくすると空のストレッチャーを押した隊員と手に包帯を巻いた宗教家が出て来た。自分で歩けるなら怪我は大した事無いのだろう。




「あの!あの!僕、圭の友達の中村です!何があったんですか?」


 僕は警察官に阻まれながら叫んだ。


「教えて下さい!幸子さんは?」


 宗教家は僕の方をちらりと見て、ばつが悪そうに顔を伏せた。


「え?ちょっと!何があったんですか?何か言って下さい!あんたが!あんたが何かしたのか?」


 警官に力強く抑えられる。


「落ち着きなさい!君!小学生?親御さんは?」


 警官に小学生かと問われて、ますます頭に血がのぼる。


「何があったか聞いてるだけじゃないですか!」


 その時、ポケットから携帯電話の呼び出し音が鳴り響いた。


 はっとして警官の手を振り払って携帯の画面を見たが、僕は気落ちして、すぐに腹が立った。そうさ、圭は今しがた運ばれたばかりなのに、僕は圭からの電話だと思ったんだ。


 画面には“家 ”と表示されている。


 僕はその場にへたり込んだ。




 救急車の後部ドアが閉められてサイレンが遠ざかって行く。


「聡君。大丈夫?さあ立って。圭ちゃんは、きっと大丈夫よ。」


 野口のおばちゃんの言葉にかっとなる。


「大丈夫なもんか!あんな、あんなに顔が白かった・・・。」


「携帯鳴ってるのでなくていいの?」




 ゆっくりと立ちあがって電話に出る。


「聡?今どこに居るの?」


 母さんの声を聞いた途端に涙が出て来た。


「母さん。圭が・・・。」嗚咽で言葉が出ない。


「え?何?・・・聡。とりあえず家に帰って来なさい。お父さんが軽出したから、もう着くと思うわ。後ね、幸ちゃんに何回か電話したんだけど、繋がらないわ。いったん家に戻りなさい。」




 不思議なことに母さんの声を聞いて、あんなに波立った気持ちが、落ち着いた。


 母さんは母さんなんだなと妙に納得して「分かった。」と、返事をして電話を切った。


 それから、迎えに来てくれた父さんは僕に助手席で待っている様に言って、野口のおばちゃん達と少し話してた。乗って来た自転車は荷台に乗せてくれた。




 待っている間にバンに乗った警官数人と原付が二台到着すると警官は総勢十人くらいになった。


 僕は、とてもこれが現実に起こっている事の様に思えなくて、なんだか面白くも無い映画を無理やり見させられている妙な感覚で、早くエンドロールが流れて来ないかと思って見ていた。




 圭の白い顔。


 生気の無い、


 あの顔。


 きっと宗教家が何かしたに違いない。


 そう思うと怒りで頭の血管が膨張して炭酸の様にパチパチと弾けた。




 その後二週間、僕は一歩も外へ出ずに過ごした。


 圭と約束した墓参りにも行かず、ほとんど誰とも口を利かずに天井ばかりを見て過ごした。そして、圭の病院へ誰にも言わずに一人で行く事に決めた。




 誰も信用できない。


 花を持って行こう。


 いつまで寝ているんだと笑ってやろう。


 そうすればきっと、圭は僕の顔を見た後に、不機嫌な声で「何しに来たの?」と言うだろう。でも、花を買って来たと知れば、きっと「ありがとう。」と、言うのだ。

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