第9話 【境界】誰ともしれぬ血を流した者 その2

 パイロットのせいで、ここに来るまで随分遠回りしなければならなかった。




 しかし中学校をぐるりと囲むフェンスが見えても、ようやっと着いたという喜びは、目の前の光景に吹き飛んでしまった。中学校はこの村の端にある様だ。




 広陵とした白砂の荒れ地に中学校が建っている。


 校門へと続く道は砂に埋まってしまって無い。




 とばりさんの話ではここからヤマトの村へと続く道が伸びていたはずだが、そんな様子は微塵も感じられない。砂嵐が唐突に終わった時と同じ様に、ヤマトの村もまた唐突に消えてしまったのかもしれない。




「圭。ここは目立つ、早急に捜索して立ち去った方がいい。」


とばりさんはパイロットが追いかけて来ると言っているのだ。


「そうですね。」


恐ろしい。




 パイロットの事もそうだが、村が消えてしまうのが恐ろしい。


 ここが消えてしまったら、湖へ戻らなければならないと、とばりさんは言った。


 湖がどんな所か覚えていないけれど、村を出て行くのは嫌だ。どうせ消えてしまうなら村と一種に消えてしまいたい。見えなくても人のいる所に居たい。湖に人なんて居ないだろう?




「とばりさん。次の砂嵐はいつ来るか目安みたいなのはあるんですか?」


「無い。」


 それでは備えようが無い。




「心配せずともまだ来ない。」


 中学校を捜索したら、急いで少年の家を探しに戻ろう。


 足早に昇降口を抜けると職員室を探した。気が急いているせいか、場所が思い出せない。一階を早足で見て回ると二階で職員室を見つけた。職員室に入ってから、ここに先生達が今働いているのだと思うと、やるせなさが込み上げて来て泣いてしまいそうになった。




 僕には見えないけれど、とばりさんには見えているのだろう。


 僕はたぶんまだ中学校を卒業していないだろうから、卒業名簿は無い。先生の机の中を漁っても少年が見たことが無いものは再現されない。とすると出席簿と日誌を探そう。




 僕は何年生なのだろうか?田舎の学校だ、生徒数はしれている。職員室をざっと捜索して出席簿と日誌が無い事を確認すると、教室に向った。日直が持って行っていると仮定して一年一組から見て回るより他にない。




 一組の扉を開けて教卓の中を覗いたが何も入っていない。


 生徒の机を覗き込んで二つ目で嫌な予感がした。何も入っていない。




 教科書を毎日持って帰る事になっていたとしても、そんな規則を守る奴なんてそうそう居ない。テスト期間中なのだろうか?この世界のルールが分からない。教室の後ろに回って机の中を見渡してみると、綺麗にすべての机の中が空っぽなのが分かった。




 小学校の机の中は道具箱や教科書がわんさか入っていたのだ。机の横のフックには習字道具や巾着が掛かっていて、椅子にはキャラクターの布地で出来たクッションが敷いてあった。




 それに比べてここは、後ろの棚にさえ何も入っていない。


 まるで使われていない教室の様だが、掲示板には連絡事項や時間割などが張られている。




 僕は本当にこの中学校へ通っていたのだろうか?


 小学校と違って、懐かしい気持ちが蘇って来ない。


 生徒の笑い声や、騒めき、漠然としたイメージや雰囲気さえ馴染みが無い。もっと言うと拒絶感さえ感じる。僕が拒絶しているのか、学校が僕を拒絶しているのか、そのどちら共なのか。




 ベランダに出て校庭を見下ろしてみると、グラウンドを一人走った記憶が蘇って来た。


 走るのが好きだった。


 風を切って、呼吸とフォームを意識して、前だけを見て走るのが好きだった。余計な事を考えずに、走る事だけに集中するのが好きだった。




「圭。得られた情報はあるか?」


 グラウンドを見たまま動かない僕を不審に思ったのだろう、とばりさんはこっちをじっと見ている。何と答えていいか少し考えたが、この気持ちを何と言っていいか分からなかった。


「いいえ。まだ何も。」と答えて、どうして“まだ ”と付けたのだろうと思った。何か見つかるとは思えない。




 たぶん僕にとって中学校は楽しい所では無かったのだろうと思う。


 虐められて居たのかもしれない。


 虐められて、思い詰めて湖に飛び込んだのだろうか?


 僅かな記憶では僕は泳ぐのも、走る事と同じくらい得意だった気がするが、入水自殺なんてするだろうか?




 そういえば僕が小さな頃、キャンプ場で川に流されて子供が死んだ事があった。僕より一つ年上の子で都会から帰省した親に連れられて、川に流されて死んだのだ。


 そうだ、僕はそのニュースを見てとてもショックを受けたのだった。


 事故があった場所は僕の知っている場所だったし、同世代の子がこんなに近くで死ぬ事が有ると思わなかったのだ。




 今ならそんな不幸な事故もあると理解出来るけれど、その当時、僕はまだ幼くて理解できなかった。人間は皆歳をとって病気になって死ぬものだと思っていた。こんな身近に死が有る事に驚いて、母親や爺ちゃんに死なないでくれと頼んだ記憶がある。




 そうだ、あの時、爺ちゃんは長生きすると言ったではないか!


 なのに突然に死んでしまったのだ。 


 寒い雪の日に、それから、それから、何だった?


 思い出せない。






 一組を後にして二組に入ると、整然と並ぶ机が中央だけ大きく乱れていて、すぐに床の大きな血だまりが目に飛び込んできた。




 赤々とした鮮血は今しがた何かが起こった様だ。


 こんなに血を流したら、死んでしまうのではないだろうか?


「何これ?」


 体の中から噴き出た血液。




 刑事ドラマのセットとは違う、あんな綺麗なものじゃない。


 手を付いた跡と靴底の跡、複数の人が動いた形跡。




 訳が分からない。


 パイロットが先にここへたどり着き、血を流しなのだろうか?




 僕は無意識にポケットへ手をやり携帯電話を取り出そうとしたが、携帯は家に置いてきたのだったし、何処へ電話しようと言うのか、混乱している頭に嫌気がさす。




「と、とばりさん!パイロットがもう来たの・・・」


「圭。これは少年の記憶だ。」


「え?パイロットの血じゃないんですか?」


「パイロットはこの村の住人ではない。」




 そうか!


 これはヤマトお手製の槍で刺された現場かもしれない。


 こんなに血が出たから、少年は消えそうなのだろう!


 こんなに血が出るまで刺すなんて、正気の沙汰じゃない。


 どうしてヤマトは少年を刺したのだろう?




 こんな小さな村で中学生が二人死んで、僕も死にかけているという事だろう?


 そんな事態想像がつかない。


 何が有ったらそんな事態に陥るだろう?


 しかもここへ来てまで殺意が納まらないなんて、よっぽどの事だ。




 こんなに大量の血だまりを初めて見たからか、気分が悪くなってきた。


 廊下へ出ると、大きく息を吸って深呼吸した。足が震えている。


「圭。顔色が悪い。」


「大丈夫です。びっくりしただけです。」


 同級生を刺すほどの怨み?想像がつかない。




 隣の教室で少し休もうとして足元を見ると、血痕が点々と廊下を蛇行している。よく見ると血だまりを踏んで靴底に付いた血だ。靴底の形状で足跡が続いている。この後をたどればヤマトがたどった道順が分かるだろうけれど、ヤマトはもう居ないし、辿った所で何かを得られるとも思えない。


 隣の教室の扉を開けて一番近くの椅子に腰かけた。




「とばりさん。ちょっと休もうと思います。あんなに血を見たからちょっと具合が悪くなりました。」


「それは、血を流した者の痛みを自分に置き換えての事か?」


 具合が悪い時に難しい事を聞いてくる。




「さあ、わかりません。僕はあんなに血を流した事が無いと思います。」


「誰ともしれぬ血を流した者の、痛みを自分に置き換えて、気を病む時間は無い。」


「・・・時間が無いのは分かっています。でも少年の血ですよね?あれ?とばりさんを助けて、僕を呼んでくれた少年の血ですよね?」


「さて、それは定かでは無い。」


「だって、とばりさんが教えてくれたんですよ?ヤマトって奴が、お手製の槍でもって少年を追い回してるって!」


「追い回している者が返り討ちに遭う事は人間の世界だけでなく、生物の世界ではよくある。手負いの獣には気を付けた方が良い。そして早計に過ぎる認識は愚かな錯覚を生む元だ。あの血は少年の血であるかもしれないし、そうでないかもしれない。あるいは君の血かもしれない。そういう事だよ。」


「とばりさんが、何を言っているのかよくわかりません。」


「早合点が過ぎるという事だ。あの足跡を辿る必要がある。」


「とばりさんは、何か知っているんですか?」


「何かとはなんだ?」


「・・・。何かって?何かですよ・・・。」




 とばりさんは僕の顔を瞬きもせずにじっと見ている。


 僕の言った事が理解できなかったのだろう。僕だって理解できない。僕は観念して「分かりました。あの足跡を辿ればいいんですね?」と、言った。


 僕は大きく息を吐いて、廊下に続く足跡を辿った。




 歩幅が大きいから、走って教室から逃げたのだろう。


 足跡は途中で薄くなったが、階段で手を付いた跡があった。上へ向かっている?上?上に何が有ると言うのだろう?逃げるにしたって上に逃げるなんて・・・火事で炎に追い立てられたのならまだしも、上に逃げるメリットなんてあるだろうか?燃えたような様子は無いが、何かに追い立てられたのだろうか?




 階段を上ると何度か手を付いた跡があり、満身創痍なのが伝わってきた。


 最上階まで上ると、足跡も手形も見当たらない。




 左に旧校舎へ続く渡り廊下があり、右に教室へと続く廊下が少し先で左に折れている。どっちだ?確か最上階は移動教室ばかりだった様な気がする。




 僕は右に曲がり教室の扉を見て歩いた。


 血が付いた手で扉を開けたら手形が付くだろうと思ったのだ。


 だけれど、端まで歩いても扉には不審な点は見当たらなかった。引き返す際に扉を開けて覗いてみたが変わった様子は無い。元の階段まで戻って旧校舎を眺めた。




 旧校舎は木造で薄暗く気味が悪いので、出来れば足を踏み入れたくない。


 気が進まないまま渡り廊下に差し掛かった時、手すりに付いた血の手形に釘づけになって足を止めた。




 後ずさり僕は何て愚かなのだろうと思った。


 人を刺した後、上へ逃げる意味なんて一つしかないではないか。


 きっと、たぶん、ここから落ちたのだろう。


 下を覘く勇気が無い。




「身投げしたか。」


 とばりさんの声が非情に聞こえる。


「圭よ。下へ降りよう。」


 待てよ。ここから落ちたのは誰だ?




 この世界に来ても執拗に少年を追い回していた奴が、身投げなんてするだろうか?


 いいや、分からない。人を刺す奴の気持ちも、身投げする奴の気持ちも、僕には全然分からない。


 駆け足で一階に下りて右へ曲がると、とばりさんに呼び止められた。




「そっちではない。落下地へ行く。」


 僕はてっきり少年の家を探しに行くのだと思っていたので驚いた。人が落ちた場所に、何が楽しくて向かわなければならないのか!


「嫌です。行きたくありません。」


僕の声は自分でも情けない程震えていた。


「何故だ?先も言ったが、誰ともしれぬ血を流した者の、痛みを自分に置き換えて、気を病む時間は無い。」


「こんな事をしても僕の記憶が戻って来ると思えません。」


「あの血が誰の血で、誰があそこから落ちたのか知ってから、気を病めばいい。感情の起伏は記憶の喚起を助けるのではないか?それに、少年が現れた場所は中学校だ。ここが少年のスタート地点だよ。これには大きな意味がある。あの血だまりがここへ来てからのものなのか、ここへ来る前の記憶のものなのか確認する必要がある。」




 僕は呆気に取られて、しばらく動けないでいた。


 あの血はここへ来る前の物?


 現実世界での出来事?


 そんな事あるだろうか?


 どちらかが、刺されて、刺した方が渡り廊下から落ちた?


 いいや、刺された奴が逃げ出して渡り廊下から力尽きて落ちた?・・・。


 手すりの高さは胸のあたりまであった、越えるのはもみ合っていても難しいように思う。持ち上げられて故意に落とされた?




 でも二人は死んでここへ来たのだ。


 辻褄が合わない。やはり、どちらかが、刺されて、刺した方が渡り廊下から落ちたと考えるのが自然な気がする。




 待てよ?


 刺したのが名を無くした少年だったら?


 刺されたのがヤマトだったら?


「だからヤマトはここへ来て、少年を追い回していた!」


口をついて出た自分の言葉に、寒気を感じた。


 なるほど、辻褄が合う。




 ずっと少年が良い奴だと思っていたから、裏切られた様な気持ちでいっぱいだ。


 自分を刺した奴とこんなところで鉢合わせしたら、怨みひとしおだろう。追い回したい気持ちも分からなくは無い。




 さっき見た血だまりが頭から離れない。


 重い足取りで旧校舎の方へ向かうと遠目には、落下地点に血の様な物は見えなかった。


「圭。もっと近づいて足元を探した方がいい。怖がる必要は無い。少年は私の中に居るし、ヤマトは行ってしまった。」




 確かに教室の血だまりの様な惨状では無かったので、あれほど気分が悪くなる事はなさそうだが、正直どっちがここへ落ちたかなんて、もう知りたくも無い。


 一刻も早くこの場所を去りたい。




 パキっと足裏に何かを踏んづけた感触があって、足を挙げると傷が付いた丸いガラスの様な物が・・・眼鏡のレンズだ。




 何だろう?胸が騒めく。


 心臓にまで鳥肌が立った様で、僕はゆっくりと鳥籠を地面に置いた。 


 少し離れた所に見覚えのあるフレームが落ちている。


 僕は過呼吸で息が出来なくなった。




 落ち着け、僕はこの眼鏡をかけた笑顔を覚えている。


 僕を心配してくれる瞳がこの眼鏡の奥にあったではないか!


 僕を呼んでいたあの声!




 良く知っている。


 ずっと前から、物心付いた時から一緒だったじゃないか!


 そう、名前は、名前。僕は何て呼んでいた?


 彼の名を何て呼んでいた?


 思い出せない。


 思い出せないよ。


 何て薄情者だろう!


 涙が伝って顎先から落ちた。




「圭?記憶は戻ったか?」


 僕はとばりさんに答える事が出来ずに、震える手でブルーのフレームを拾った。


 ここに眼鏡が落ちているなら、落ちたのは名を失った少年の方か?




 少年はどうして死ななければならなかったのか?


 どうして僕だけが死に損ないなのか?


「少年の家を探しましょう。少年の名前をもう少しで思い出せそうなんです。」








 校門を目指して歩いていると「圭。方向を変えて走れ。」と、とばりさんが言ったと同時に、校門の柱の陰からパイロットが猛ダッシュでこちらに迫って来た。待ち伏せされていた?




 僕は驚きのあまり悲鳴を上げて踵を返して走ったが、心臓は血液を足ではなく頭へ送る事に忙しくて、ギクシャクと体は硬く、思うように前へ進めない。




 しまったと思った時には足がもつれて、手にしていた鳥籠が一足先に宙へと投げ出されて地面に落ちるのがスローモーションで、はっきりと見えた。




 ヘッドスライディングした先に、鳥籠がワンバウンドして錠が外れると、とばりさんが空へと羽ばたいた。




「あっ。」


 すると辺り一面の白砂から一斉に何万何十万という黒い鳥が羽ばたいて、僕は目を開けていられなくなった。なんてことだ!!!!


「とばりさぁぁん!」




 僕の叫びは、鳥たちの羽ばたく音でかき消され、僕の耳にも届かない。


 急いで身を起こすと辺りは暗闇に包まれていた。


 見上げた空は月の無い夜空が広がっている。


 鳥一匹飛んでいない。




「ビビった。今の何?急に夜になるとか、どうなってんの?お前、同級生を殺した中学生やろう?違う?村の名前見てすぐ分かったわ。テレビで毎日放送されてる奴やろ?ええっと、確か中村聡君やったっけ?」


 パイロットが放った名前を聞いた瞬間、脳内のシナプスが瞬いて、凄まじい勢いで記憶が逆流して来た。




「聡?中村聡!少年の名前は中村聡だ!」


「え?何?急にどうしたの?」


 パイロットの戸惑う声の向こうに地鳴りの様な音がする。




 砂嵐が来る。


 僕は放心したまま。夜空を見上げてそう思った。


「行かなきゃ・・・。」


「えっ?ちょっと待って。」




 突然、氷の様に冷たい物に腕を掴まれて払いのけた。


 振り向くとパイロットは自分の手を見ている。


 暗くてよく見えないが、みるみる手が震え出し驚愕の眼差しで僕を見た。




「どうしてお前は暖かい?」


 パイロットは絞り出すようなくぐもった声で言った。


 怖くなって後退ると、「ちょっと、こっちへ来い!」と、言って僕を捕まえようと手を伸ばして来る。


「触るな!」僕は闇雲に手を動かして叫んだ。




                     ◇◇◇






 捕まえようと手を伸ばしてくるのを、払いのけた。


「触るな!」


 私は闇雲に手を動かして叫んだ。




「私かそいつかどっちか選んでよ!」


 私は母さんに向って絶叫した。


 怒りで体が震える。




「そいつとは何だ!幸子さんがお前の為を思って、買ってきたお守りだろう!」


 拾い上げたお札とお守りを私の鼻先まで持ち上げて見せる。


「そんな物、金の無駄だよ!馬鹿じゃないの?」


「お前がいつまでも、馬鹿な事を言って周りに迷惑をかけて困らせているからだろう!」


「馬鹿な事じゃない!」


「いい加減にしなさい!お前は女だ!一過性のものなんだよ!まだ子供で分からないだけだ!大人の言う事を信じなさい!今に、言う事を聞いていて良かったと思える日が来る!そういうものなんだ!お前は大人になった事が無いがな!俺たちは子供から大人になったんだぞ!子供のお前が言う事は分かってる!」


「何が分かってるの?分かって無いから、こんな村八分にされてんじゃん!私のあだ名何て言われてるか知ってる?異教徒だよ!全部母さん達のせいじゃん!」


 違う。こんな事が言いたかったんじゃない。




 全部母さんのせいだとは思って無い。


 だけど分かろうともせずに、分かっていると言われると頭に来る!


 わたしの事は放っておいて欲しい!


 分かる訳が無いのだ!




 村上和真は少しショックを受けた様な顔をした。


 異教徒と呼ばれている事に驚いたのかもしれない。




「勉強熱心じゃ無い奴に、何が分かる?この村で一番熱心なのは幸子さんだぞ!お前の為だ!知ってるだろう?」


「だからそれが気持ち悪いって言ってんの!どうして分からないの?」


「何が気持ち悪いだ!お前の為に幸子さんは勉強してるんだ!謝りなさい!」


「お前の為。お前の為って!押しつけがましい!私には父親もインチキ宗教もいらない!必要じゃない!迷惑!消えて欲しい。」


 私は声の限りに叫んだ!


 本当に心の底から消えて欲しいのだ!


 どうして分かってくれないのだろう?




「うるさい!叫ぶな!目上の人間に向ってそんな口の利き方をするもんじゃない!」


 村上和真も負けじと怒鳴り声をあげる。


「勝手に決められるこっちの身になってみなよ!私が一度でも頼んだ?頼んでないでしょ?私が頼んでいるのは母さんと別れてって言ってんの!日本語分かんないわけ?」


「お前だけが駄々を捏ねてるんだぞ?誰の金で飯を食ってると思ってるんだ!それも俺の金で買った服だろう?脱げ!そんなに嫌だったら素っ裸で家を出て行け!」




 首を押さえつけられて、後ろから羽交い絞めにされた。大人の男に力で叶わない。


「触るな!変態!」


 力任せに暴れるが、後ろ向きに引きずられる。


「頭を冷やせ!何が変態だ!人を何だと思ってるんだ!」


 母さんが部屋の隅で泣いている。両手で顔を伏せて座り込んでいる。


 どうして私の味方をしてくれないのだろう?


 どうしてこの男を追い出してくれないのだろう?


 私の為を思ってくれていると言うくせに、私の言う事は何一つ聞いてくれない。どうして?




 手足を無茶苦茶に動かして抵抗した。骨が折れたっていい。思い通りになんてさせてやるものか!


「暴れるな!静かにしなさい!」




 ガムテープで私の手を後ろ手にぐるぐるに固定し始めた。


 悔しくて涙が出る。


 身体をひねって横っ腹を思い切り蹴り上げると、間髪入れずに脳が揺れるほどの平手を食らった。


 また、蹴られることを恐れてか足も、ぐるぐる巻きにすると、村上和真は私を担いだ。




 家を放り出されるのかと思ったが、バスタブに放り込まれた。


 全開にされたシャワーの水を顔面に受ける。




「頭を冷やせ!いつまでも甘やかしてやらんぞ!」と、言うとドアを破壊しそうな勢いで閉めた。


 荒々しい足音が遠ざかると、大きな怒鳴り声と共に何かが壊れる音がした。




 バスタブの底で縛られているから、身動きが取れない。何とか顔をシャワーの水から背けようとするが上手く行かない。


 息が出来ずに苦しい。


 口を開けると容赦なく水が入って来る。


 このままでは死んでしまう!


 どうしてこんな目に合わなければならないのだ?


 もう嫌だ。


 何もかもが嫌だ。


 もう何もいらない。


 必要じゃない。


 消えて欲しい。


 私の目の前から何もかもが消えて無くなればいい。


 目の前が白くなる。




 眠ってしまいたい。


 穏やかに眠りたい。


 息を止めて目を瞑って、何も聞こえない所へ行きたい。


 胎児の様に羊水に浮かんで、膝を抱えて安心したい。


 私を放っておいて欲しい。


 私は風船に結び付けられた紐を空へ向かって放す様に、何かをそっと手放した。




 飛んで行く風船を見上げていると思っていたら、自分が下に引っ張られているのに気が付いた。


 風船が飛んで行ったのではない、バスタブの底が抜けて、私が下に引っ張られている。


 ゆっくりと沈んで行く。


 ゆっくりと下へ向かって沈んで行く。


 安心だ。




 私の中が満ちて来る。


 静かだ。


 水の中に流れは無い。










 誰かの声がする


 誰かが呼んでいる


 起きる時間?


 家に帰る時間?


 呼ばないで


 私を呼ばないで


 あなた誰?


 ・・・私。


 ・・・私。この声知ってる。




 嗚呼


 行かなくちゃ。


 行かなくちゃ。




 目を開けると、僕は白い砂地を、足を引きずって歩いていた。


 俯いた視界に、乾いた風が砂を巻き上げ吹いてくる。舞いあがった砂で黒いスニーカーは真っ白だ。

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