(4)兄夫婦の事情
「柚希さん、今、お時間は大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫よ。沙織さん、どうかしたの?」
「さっき豊から、柚希さんに子供ができたって内容のうっざいメールが届いていて。まずは、妊娠おめでとうございます」
沙織が大真面目に祝いの言葉を口にすると、苦笑気味の声が返ってくる。
「ありがとう。やっぱりあの調子で、沙織さんにも連絡したのね」
「豊には、返信で浮かれすぎるなと叱っておきましたが、方々にあの調子で連絡したんですか……。柚希さんに色々とご迷惑おかけしたというか、おかけしそうだなと思ったもので」
「大丈夫よ。豊はもうすっかりおとなしくなったから」
神妙に詫びを入れたものの予想外の展開だった事で、沙織は不思議に思いながら尋ね返した。
「え? 『おとなしくなった』って……。柚希さんが一喝して黙らせたんですか?」
「違うの。お義父さん、厳密に言えば、社長の鶴の一声の結果よ」
「すみません。益々意味が分からないんですが……。和洋さんが、何か言うかするかしたんですか?」
困惑を深めた沙織に対し、柚希が笑いを含んだ声で詳細について語り出す。
「お義父さんにもあの調子で、私の妊娠の事を報告したのよ。そうしたらお義父さんが、さっき豊に電話をかけてきてね。『それなら柚希さんが産休育休中の監査課課長業務は、直属の上司であるシステム部部長のお前が代行だな』と言い渡したの」
それを聞いた沙織は、思わず遠い目をしながら納得した。
「あぁ……、その判断は、妥当と言えば妥当なんでしょうね……。例の愛人疑惑勃発の時に話を聞きましたが、柚希さんの職場はかなり特殊みたいですし……」
「そうなのよね。業務量としては他部の課長と比べると少ないけれど、配属社員が真っ当な事務処理の為に出社するような人達じゃないから」
「その人達に、柚希さんの代行をお願いするのは無理、と。当然、同じシステム部の中の他の課長さんとか、将来の昇進を見越して有能な一般の社員さんにお願いするという選択肢は……」
「依頼した瞬間に、その人から退職願が提出されると思うわ」
「……ですよね。あの時、『システム部全体から恐怖の対象になっている』とかなんとか、言っていた気がしますし」
沙織の口から思わず乾いた笑いが出たところで、柚希が溜め息まじりに言い出す。
「だけどお義父さんにそう指示された瞬間、豊ったらスマホを取り落として。フラフラと夢遊病者のように寝室に入ってから、一向に出てこないのよ。室内は静まり返っているし」
呆れ返った口調で話された沙織は、さすがに兄を不憫に思った。
「しばらくそのままにしておいてあげて下さい。気持ちが落ち着いたら、出てくると思いますから。あとはそのまま寝て、明日の朝には気持ちを切り替えて出社するとか。豊は昔から、ネガティブな感情は長く引きずらない性格なので」
「そうね。本当に豊ったら、いざとなったら皆を平気でこき使うくせに、普段は腰が引けているんだから……。ところで沙織さん。退院後、体調はどう? 豊がまだ結構心配していて、今度様子を見に行こうかと言っていたのよ」
この機会に聞いておこうと思ったのか柚希が話題を変えてきた事で、沙織も瞬時に意識を切り替えた。
「あの時はお騒がせして、本当にすみませんでした。勿論、異常も体調不良もありませんし、わざわざ様子を見に来る必要もありませんので、豊にそう伝えておいて貰えますか?」
「それなら良かったけど……。あの時、豊が友之さんを踏みつけたりしたでしょう? 沙織さんの事も心配だったけど、友之さんの方も変なトラウマとかになっていないか心配だったの」
そんな事を義姉から申し訳なさそうに言われてしまった沙織は、その時のとんでもない兄のキレっぷりを思い出してがっくりと項垂れた。
「柚希さんが謝る筋合いの事では無いので、本当にお気遣いなく。何か問題があったら豊に責任を取らせますが、友之さんに特にこれといって変わった事は……」
そこで沙織が不自然に言葉を濁して口を閉ざした事で、柚希は不思議そうに電話越しに声をかけてきた。
「沙織さん、大丈夫? どうかしたの?」
「ええと……、急に黙ってしまってすみません。最近友之さんに関して、ちょっと変だなと思っていた事を思い出しまして。あ、勿論、例の豊と揉めた事は無関係の筈ですよ? 日にちが経ちすぎていますし」
「そうなの? 因みにどんな事? 仕事に関する事かしら?」
「仕事の話をしている時の事ですが、どうも仕事の内容に関わる事では無いみたいなので」
「どういう事?」
心底不思議そうに尋ねられた沙織は、特に秘密にしなければならない必要性を感じなかった為、吉村との会食からの帰り道での会話から始まる、この何日かのや友之とのやり取りを柚希に語って聞かせた。
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