(32)結婚記念日の由来

「豊! 友之さんが来ているわよね!? 柚希さんに聞い……、はあぁ!?」

「豊! あなた一体、何をやってるの!」

 飛び込んできた二人は、土下座している友之の頭を豊が踏みつけているという予想外の光景を目の当たりにして激しく動揺したが、

当の豊はそのままの体勢で平然と応じた。


「何だ。騒々しいと思ったらお前か。今、こいつに引導を渡しているところだから、邪魔をするな。部外者のくせに、身内面されるのは噴飯ものだ。事実婚で良かったな。今回後腐れなく、綺麗さっぱり」

「ふざけないで! 部外者はそっちよ!」

「何だと?」

「沙織さん! 豊を刺激しないで!」

 沙織が怒鳴り返した途端、豊が不愉快そうに顔を歪め、柚希は焦りながら彼女を宥めようとした。しかし沙織は、そのままの勢いで続ける。


「さっき、友之との婚姻届を区役所に提出してきたの! 無事に受理して貰って、入籍済みなんだから! 隠し事とか女性問題とか、これはどう見ても夫婦間の問題よね!? 分かったら、単なる兄弟なんて部外者は引っ込んでて! 友之を足蹴にして、踏み付けして良いのは私だけよっ!!」

「へぇ? 『単なる兄弟』の『部外者』とは……、言ってくれるな」

「………………」

 柚希と床に頭を押し付けられたままの友之が、あまりの急展開に物も言えずに唖然としていると、豊はは眼光鋭く妹を睨み付けながら短く命令した。


「離婚届を出せ」

「ガタガタ五月蝿いわね! とにかく、その足を退けろって言ってるのよ!」

「沙織、お前……」

 取り付く島の無い兄の様子に、早々に痺れを切らした沙織が半ば体当たりして豊を押し退け、頭を上げた友之の前で座り込みながら勢い込んで尋ねた。


「大丈夫!? 怪我はしてない!?」

「ああ、踏まれただけだ」

「踏まれただけって……、豊! 本当に何してくれてるの!?」

 変なトラウマにでもなったらどうしてくれると、怒りの形相で振り仰いだ沙織だったが、対する豊は相変わらず冷えきった視線を向けるのみだった。


「お前の男を見る目の無さは、前々から分かっていたつもりだがな」

「悪かったわね! 否定はしないけど放っておいてよ!」

「沙織さん。友之さんが気の毒だから、少しは否定してあげて」

 思わず友之が不憫になった柚希が口を挟んだが、兄妹の舌戦は続いた。


「親父と同じで、ろくでもない事で躓くタイプだったとは、呆れ果てて言葉も無いぞ」

「さっきからベラベラ喋ってるじゃない!」

「さっき『夫婦間の問題』とか言ったか?」

「言ったわよ。それが何!?」

 憤然とした沙織が立ち上がりつつ言い返したが、豊は嘲笑ぎみに言葉を継いだ。


「それから『足蹴にして、踏み付けして良いのは私だけ』とかも言ったよな?」

「それがどうかした? 妻である私の権利よね? 当然じゃないの!」

「それなら、今後こいつがヘマをしでかしたら、お前が責任を持って足蹴にして踏みつけてやるんだよな?」

「え?」

 立ち上がるタイミングを逃し、未だに座り込んでいる友之を指差しながら豊が確認を入れてきた。それを聞いた沙織は反射的に友之を振り返ってから、今までの勢いを綺麗に消し去った顔で弁解する。


「ええと……、確かにそれはそうだけど、友之さんもそれほど頭は悪くないし、そうそう下手は打たないと思うけど……」

「夫婦は一蓮托生と言うし、こいつをしっかりお仕置きできない場合は、お前も纏めて制裁確定だな。その覚悟はあるんだな?」

「…………」

 薄笑いを浮かべながらの脅迫じみた台詞に、沙織の顔が強張ったが、豊は全く容赦なかった。


「有るのか無いのかはっきりしろ」

「有るわよ! 今後はしっかり友之さんのやることなすことに目を光らせておいて、もしヘマをしたら責任を持って私が制裁を下すから、安心して頂戴!」

 半ば自棄になりながら沙織が宣言すると、豊が如何にも面白く無さそうな顔で、二人を追い払うように片手を振りながら言い放った。


「分かった。それなら取り敢えずお前に任せるから、責任を持ってそいつを飼い慣らせ。きちんと躾られなかったら、今度こそ一蓮托生でお前も制裁対象だ。そいつを連れて帰って良いぞ」

「そうですか。それじゃあお邪魔様! さあ、友之さん、帰るわよ!」

「あ、ああ……。豊さん、柚希さん、お邪魔しました」

「いえ……、大してお構いもしませんで……」

 この間、口を挟む隙が無かった友之は事態を傍観するしか無かったが、半ば強引に手を引かれて腰を上げた。そして顔を引き攣らせた柚希に見送られ、二人は玄関を出て歩き出した。


「全くとんでもない……。下で待機してくれているお義父さんに、何て報告したら良いのやら……」

 沙織が項垂れながら愚痴っぽく呟いた内容を聞いて、友之は並んで歩きながら驚いた顔を向けた。


「父さんも来ているのか?」

「薫からの『豊がキレているらしい』という電話を聞いて、慌てて階段を踏み外しちゃったものだから、心配して送ってきてくれたのよ」

「踏み外したって、怪我は? 大丈夫か!?」

 慌てて問いかけた友之に、沙織は平然と答える。


「この通りピンピンしてるわよ。それで豊が横槍を入れてくるのを撥ね付ける為に、勝手に入籍しちゃってごめんなさい」

「それは構わないが……。沙織は良かったのか?」

「いつかは入籍するつもりだったから、構わないわ。それよりも、どうしたものかしら……」

「何か困った事でもあるのか?」

 思わず心配そうに尋ねた友之だったが、沙織は真顔のまま続けた。


「子供が生まれて大きくなった時、『結婚記念日はどうしてこの日になったの?』とか聞かれたら、どう説明したものかと思って。普通は入籍日を結婚記念日にすると思うけど、その理由を『伯父さんに踏みつけられたお父さんを救出する為に入籍した』とか、正直に言えないじゃない」

「……ああ、そうか。確かにそうだな。子供か」

 沙織の話を聞いて、友之は一瞬呆けた顔になってから、クスクスと笑いだした。しかしその反応を見た沙織は、ムッとした顔になって文句を付ける。


「あのね、笑い事じゃ無いんだけど!? それにお義父さんとお義母さんに、どう説明すれば良いのよ!」

「それは沙織の早とちりと、心配性が過ぎただけだと謝るさ」

「納得できない! 昔と今のヘマしたのを豊に掴まれて、蛇に睨まれた蛙状態だったくせに!!」

「うん、哀れな蛙を救出してくれた奥様には、海より深く感謝してる。これからは何でも言う通りにするから、ご指導よろしく。俺が何かやらかしたら、遠慮なく踏みつけて良いから」

「するかぁぁっ!! もう本当に、こんな騒ぎはこれっきりにしてよ!?」

 本気で叱りつけてくる沙織を満面の笑顔で宥めながら、友之は義則が車で待機している駐車場に向かった。

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