(31)対決
早めに家を出た友之は、カフェで思考を邪魔されないようにスマホの電源を落として時間を潰してから、十三時ちょうどに豊のマンションに到達した。
「こんにちは、お邪魔します」
「やあ、お待ちしていました」
「い、いらっしゃいませ。どうぞ、お上がりください……」
豊と柚希が揃って玄関で出迎えてくれたが、豊に対して柚希の笑顔は引き攣っており、友之はそれに気付かないふりをして上がり込んだ。
「沙織の様子はどうですか?」
「特に問題なく過ごしています」
「それを聞いて安心しました」
(豊さんは平常心にしか見えないが、柚希さんの顔色が悪いし挙動不審だ)
廊下からリビングに入るまでのそんな何気ない会話の間も、柚希はどことなく怯えた様子であり、友之の緊張感がいやが上にも高まる。当初二人はソファーで向かい合って世間話をしていたが、柚希がお茶を出し終えると豊が彼女に声をかけた。
「柚希、下がっていて構わないぞ?」
「え、ええと……」
「用があったら呼ぶから」
「……分かったわ。失礼します」
柚希はこの場を離れる事にかなり躊躇いを見せたが、豊に重ねて言われておとなしく引き下がった。そしてリビングに二人きりになった途端、豊が顔付きを改めながら話の口火を切る。
「さて、友之さん。今回松原工業に押し掛けて傷害行為に及んだ女性は、他の傷害事件で執行猶予中の女性だとか。今回の事で、起訴も実刑判決も確実ですね」
「そうなると思います」
「それでその女性は、以前あなたに付きまとっていたストーカーだとか。本当に災難でしたね」
「そうですね。何をどう勘違いしたのやら」
「社内を含めて対外的には、“そう”なっているんだよな?」
「…………」
がらりと口調と表情を変えて凄んできた豊に、友之は表情を消して黙り込んだ。すると友之の反応が無かった事に対して、豊は気を悪くした風情などは見せずに立ち上がり、壁際のリビングボードに向かう。そこの引き出しから書類の束を取り出した彼は、それを持ってソファーに戻った。
「これだから素人さんは……。普通に画面から消去しただけで、安心しているんだからな。まあ、普通の人間に復元できる筈も無いから、通常であれば支障は無いだろうが。後ろ暗い事をしでかした割には、迂闊過ぎるな」
目の前のローテーブルに些か乱暴に置かれたそれらを、友之は慎重に手に取った。それから目を通し始めた彼は、ある程度の予想はしていたものの、その徹底した調査ぶりに驚くのを通り越して感心してしまった。
「以前お聞きした、柚希さんを含めた監査課の方々のお仕事ですか?」
「ああ。良い仕事をしているだろう?」
「そうですね。さすがです」
そして引き続き書類に目を落としている友之に向かって、豊が冷えきった声で淡々と続ける。
「例の女は、今回間違いなく起訴されるだろうが、裁判はどうなるんだろうな? これを出したら情状酌量が認められる可能性もあるが、犯罪行為により入手した物は証拠として採用されない。もとより正当な入手経路で得たとしても、あの女の利益になるような行為をするつもりは無いが」
「そうですね。裁判では使えませんね」
「裁判で使えなくても、色々使い道はあるがな。松原工業にとってはとんだスキャンダルだし、弁護士と司法書士は国家資格剥奪だけで済めば良いが。そうは思わないか?」
「…………」
その問いかけに友之は顔を上げ、お互いに無表情のまま相手の反応を探るように睨み合った。しかし少ししてから、豊が軽く肩を竦めながら言い出す。
「まあ、俺も鬼ではないし、自分の行為をきちんと認識していた当事者達はともかく、無関係の大勢の社員に迷惑をかけたり、不利益を被らせるのは本意ではない。こちらの条件をお前が飲んでくれたら、これらは全てお蔵入りにしても良い」
「どんな条件でしょうか?」
「沙織ときっぱり別れて貰う。ついでに松原工業も退職させて、CSC(うち)に再就職させる」
「お断りします」
即座に拒否した友之に、豊が不敵な笑みを見せた。
「即答か。良い度胸をしているな」
「豊さんが仰りたい内容は、ある程度予想が付いていましたので」
「それで堂々と乗り込んで来た事は褒めてやるが、生憎と手心を加えるつもりは無い」
相手が本気であるのが明確に理解できた友之は、単なる弁明だけではまともに聞いても貰えないと判断して立ち上がった。そしてローテーブルを回り込み、豊に近付いてからスリッパを脱いで床に両手両膝を付き、彼に向かって深々と頭を下げる。
「全て、私の不徳の致すところです。豊さんには今回の事で大変ご心配をおかけした上、過去の事で大変不快な思いをさせて、誠に申し訳ありませんでした。ですが今後は間違っても沙織を危険な目には合わせませんし、誠心誠意」
「ガタガタうるせえぞ」
「……っ!」
「これまでにも長続きしないとは思っていたが、沙織の男を見る目と男運の無さには、今回ほとほと呆れたな」
口上の途中で豊が立ち上がったと思ったら、友之の後頭部がいきなり上部から勢い良く押し付けられる。完全に不意を衝かれた友之は、自身が床に額を打ち付けた衝撃とその音に、一瞬思考が停止した。しかしすぐに豊の立ち位置から、彼の足で後頭部を踏みつけられていると察し、何とか気を取り直しながら言葉を返す。
「今回確かに、褒められない行為をした自覚はありますが」
「自覚はあっても、改める気は無いだろう?」
「豊さん。顔を見てお話ししたいので、足を退けて貰えませんか?」
「断る」
(話にならない。だが、まさか沙織の兄を殴り倒すわけにもいかないし、どうしたものか……)
勿論友之には好き好んで踏まれたがる趣味など無く、やろうと思えば力ずくで足を退かして反撃は可能だったが、乱闘に及んだ場合にどう考えても状況が悪化するとしか思えない事態に、彼は本気で進退窮まった。しかしここで、何やらインターフォンの呼び出し音が聞こえたと思ったら、廊下から物音が伝わってきたが、それが徐々に大きくなってくる。
「沙織さん、どうして」
「マンションに入る方に便乗しました!」
そして半ば揉めながら廊下を進んだ沙織と柚希は、殆ど一塊になって緊迫感張り詰めているリビングに乱入した。
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