(30)最悪の予感

 沙織が退院した翌々日。土曜日の朝から真由美の機嫌は悪かったが、昼近くになって友之が出掛けようとしたところで癇癪を起こした。

「友之! 休みの日に、まだ本調子ではない沙織さんを放置して出かけるなんて、どういう了見なの!?」

 豊から呼び出しを受けて会いに行くとは沙織に言えなかった友之は、控え目に弁解しながら玄関に向かう。


「悪い。ちょっと今日は午後に、前々から約束があって」

「どんな約束よ! 断りなさい!」

「お義母さん、私は別に構いません。私が怪我をした位で約束を反故にしていたら、友之さんの交友関係が成り立ちませんから。友之さん、気にしないで行ってきて」

「ああ、すまない。何か買って帰る」

「行ってらっしゃい」

 沙織が真由美を宥めている隙に友之は靴を履き、慌ただしく玄関から出た。


「沙織さん! 友之を甘やかしたら駄目よ!?」

「甘やかしてはいませんから」

(母さんの金切り声を聞いている方が、傷の治りが遅くなりそうだがな。豊さんの話は粗方予測が付くし、食欲が無いからどこかで珈琲だけ飲んでいくか)

 ドアを閉める時に聞こえてきた母親の声にうんざりし、豊の話の内容を想像して気が重くなりながら、友之は最寄り駅へと向かった。そんな騒ぎの後、真由美は不機嫌そうに昼食の支度に取りかかり、義則と沙織はリビングで先程の事について話していた。


「すまないね、沙織さん。真由美が五月蝿くて」

「それは構いませんが……。今日用事があるなんて入院前には聞いていなかったのに、急用なのかしら。お義父さんは何かご存じですか?」

 沙織が何気無く尋ねると、義則が少し驚いたように問い返す。


「沙織さんは知らなかったのか?」

「はい。朝食の時、初めて聞きました」

「…………」

 そこで怪訝な顔を見合わせた二人は、すぐに取って付けたように言い合う。


「その……、男同士の付き合いのあれこれを、一々私に言いませんよね?」

「うん、まあ……、そうだな。色々すまないね、沙織さん」

「いえ、別に気にしていませんから。……あ、失礼します。弟からです」

 ポケットに入れていたスマホが着信を知らせた為、沙織は相手を確かめてから義則に断りを入れて電話に出た。


「もしもし、薫? そっちからかけてくるなんて珍しいわね。どうかしたの? 急用?」

「あの野郎は家にいるのか?」

 挨拶抜きの第一声に、沙織は無意識に眉根を寄せながら小言を口にした。


「あのね……。友之さんの事を言っているのよね? 『親しき仲にも礼儀あり』って言葉を知らないの? 仮にも姉の」

「そんな事はどうでも良い。居るのか、居ないのか?」

「居ないわよ。少し前に出掛けたわ。何なのよ、藪から棒に」

「どこに!? まさか豊の所じゃ無いよな?」

「……何よそれ。どういう事?」

 半ば腹を立てながら応じていた沙織だったが、急に狼狽した声を上げた薫に低い声で詳細を尋ねた。すると何とか平常心を取り戻したらしい薫が、順序立てて説明してくる。


「火曜に豊から連絡を貰った時に名前を聞いて、沙織に怪我をさせた女が例の女と同一人物だと分かったから、以前の調査内容のデータを全部、豊に渡したんだ」

「それ位は予想の範囲内だけどね……。それで?」

「その時のやり取りが気になって、昨日の午後、豊に電話してみたんだが、声と言うか雰囲気がキレまくってたんだ。奴の事を調べ上げると言っていたし、俺が知っている事以上の何かヤバいネタでも掴んだんじゃないかと、昨日から気になっていて。今電話してみたんだが、豊の携帯も家の固定電話も、柚希さんの携帯まで繋がらない状態で」

「馬鹿薫! どうしてそれを早く言わないの! 切るわよ!」

「あ、おい! 沙織!」

 薫の話の途中で沙織は顔色を変え、問答無用で通話を終わらせた。そして続けざまに友之の携帯番号に加え、先程彼が言った通り兄夫婦と自宅の固定電話番号にもかけてみたが、薫が言った通り悉く通じなかった。


「出ない……」

「沙織さん? 弟さんがどうかしたのか?」

「まさか今回のあれこれまで、この何日かで調べ上げたとか……。それを豊が知った上で、友之さんを呼び出したのだとしたら……」

「沙織さん?」

 ぶつぶつと沈黙しているスマホを凝視しながら呟いたかと思ったら、勢い良くリビングを飛び出して行った沙織を、義則は呆気に取られて見送った。


「お待たせ。お昼の支度ができたわよ。あら、沙織さんは?」

「ちょっと席を外しているが……」

 リビングに二人を呼びに来た真由美が、義則しかいなかった事に怪訝な顔をしていると、部屋の外から沙織の悲鳴と何かがぶつかる音が聞こえてくる。


「きゃあぁぁぁっ!」

「沙織さん!?」

「どうした!?」

 二人が慌てて部屋を飛び出して音が聞こえた方に駆け付けると、沙織は階段を三段上がった所で、足を斜め下に投げ出して座っていた。


「いたた……」

「沙織さん、どうしたの!?」

 真由美達が血相を変えて駆け寄ると、左手で手すりを掴んだまま呻いていた沙織は我に返り、右手で持っていた用紙を二人に向かって差し出した。


「すみません。慌てて足を滑らせて、お尻を打っただけですから。そんな事より! お義父さん、お義母さん! 大至急、この証人欄に署名と捺印をお願いできますか!?」

「え?」

「これって、婚姻届?」

「詳細は後でお話ししますから! 私は出掛ける支度をしてきますので!」

 切羽詰まった様子の沙織の訴えに、義則は余計な事は言わず、妻に指示を出す。


「分かった。真由美、判子を三種類出してくれ。友之の欄の捺印もまだだ。リビングで署名をするぞ」

「ええ、分かったわ」

 それから再び二階に駆け上がった沙織はバッグ片手にリビングに戻り、保証人欄に署名捺印済みの婚姻届を受け取った。


「ありがとうございます」

 するとここで、義則が真顔で申し出る。

「沙織さん。慌てていると注意散漫で危ないから、私が車を出す。区役所に行った後は、どこに向かえば良いのかな?」

「兄のマンションです。住所は教えますので、お願いします」

「分かった。それじゃあ真由美、昼食は帰ったら食べる」

「ええ。二人とも気を付けてね」

 心配そうな真由美に見送られて、義則と沙織は車に乗って家を出た。その直後から助手席の沙織はどこかに電話をかけていたが、全く応答がないらしく苛立った声を漏らす。


「まだ繋がらない……。三人とも、何をやってるのよ」

「沙織さん。詳細のさわりだけでも、教えて貰えるかな?」

 前方を見ながらさりげなく義則が声をかけると、沙織は渋面になりながらそれに応じた。


「兄が私に内緒で友之さんを呼び出しているのなら、どう考えても無事に済む気がしないもので」

 その懸念を聞いた義則も、難しい顔で考え込む。

「お兄さんか……。沙織さんの愛人騒動の時、いとも容易く色々調べ上げていたからな……。もしかしたら例の女の背景とか、友之の裏工作まで知られたかな?」

「その可能性が大です」

 沙織が冷静に述べると、義則は深々と溜め息を吐いた。


「やれやれ……。確かにそれでは、一発殴られて済む話では無さそうだな。だが、それと婚姻届とどういう関係が?」

「泣き落としと理屈が通じなかったら、既成事実で押し切るまでです」

「頼もしいと言って良いものか……。不甲斐ない息子で申し訳ないね、沙織さん」

 語気強く断言した沙織に対して思わず謝罪の言葉を口にした義則は、それからは無言で目的地に向かって車を走らせた。

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