(29)アグレッサー5の力量

 豊が名古屋にいる弟からの電話を受けたのは金曜の午後であり、当然彼は職場での勤務中だった。しかしその時彼は部長室で部下の一人と対面中であり、豊は彼に断りを入れてから薫からの着信に応じた。

「やあ、薫。お前の方から連絡してくるとは、珍しいな」

「あのな……、一昨日俺が送ったデータを見たか?」

 挨拶抜きで用件を切り出した弟に、豊の笑みが若干深くなる。


「ああ。隅々まで、じっくりと目を通させて貰ったよ。概略は知っていたが、調べる手間が省けて助かった。礼を言うぞ」

 しかし薫はここで、微妙に豊の探るように問いかけてくる。


「……それだけか?」

「それだけと言うのは? もっと心が籠った感謝の言葉が欲しいのか? それとも金や物で謝礼が欲しいと言う意味か? それなら遠慮せずにはっきり言え。俺達はれっきとした兄弟だろうが」

「そうじゃなくて! 怒っていないのか?」

「はぁ? 俺が、誰の、何の行為に対して怒ると?」

 今にも高笑いしそうな場違いな顔付きになった豊を見て、正面に座っていた監査課所属の橘は無言のまま片眉を上げ、その声音にはっきりと危険な物を感じ取ったらしい薫は、怖じ気づいたように話を終わらせた。


「…………いや、怒っていないなら良い。礼も要らないから、それじゃあ」

「ああ」

 そこであっさり通話を終わらせた豊は、スマホを再びポケットにしまい込みながら独りごちる。


「あいつも相変わらずだな。つついて怖じ気づく位なら、最初から余計な電話なんかしなければ良いものを」

 その一部始終を目の当たりにした橘は、豊より遥かに年長者らしい貫禄を醸し出しながら、控え目に意見した。


「部長の殺気垂れ流しの声を聞かされたのなら、仕方が無いでしょう。弟さんに同情します。それから、ここに出向いたついでに監査課にお嬢の顔を見に行ったら、可哀想にすっかりビビっている様子でしたよ。あの子は貴重な俺の弟子なんですから、あまり苛めないで欲しいですね」

 彼にしては結構切実な要望だったのだが、豊はさほど感銘を受けた様子も無く、あっさり切って捨てた。


「別に、柚希を怖がらせたつもりはありません。それで?」

「物が物だけに、データを送信するのは憚られまして。どこから、誰に覗かれるか分かりませんからね。こちらに纏めて入れてきました」

 橘が溜め息を吐きながら、この二日の調査の成果であるSDを差し出すと、豊は満足そうに頷く。


「確かに世の中は広いですから、あなた方並みの能力保持者が存在していてもおかしくありませんね。用心深いのは結構な事です。今回は業務外の事で働いて貰った上、ご足労おかけして申し訳ありませんでした」

「今度はこちらが質問させて貰いますが……、これをどうするつもりですか?」

 目をすがめて相手の反応を見定めようとした橘だったが、豊は如何にも楽しげに笑っただけだった。


「どう、とは? 勿論、有効活用させて貰いますよ? あなた達に貴重な時間を割いて貰ったのですから、当然じゃありませんか」

「『有効活用』ですか……。そうですね。それでは失礼します」

「ご苦労様でした。皆にも個別に謝礼を出しますし、礼を言っておきます」

 一体どう活用するつもりなのか、詳細を聞く気にもなれなかった橘は、おとなしく立ち上がって退出した。そして不気味な笑顔の豊に見送られて廊下に出てから、深い溜め息を吐く。


(本当に、あの坊っちゃんもな……。普段の常識人っぽい時は、俺達の事を本当に苦手にしているくせに、いざとなったら平気で駒扱いするところがなんとも……。無意識の人畜無害な猫被りっぷりは、社長以上だよなぁ……)

 心の中でそんな事を盛大に愚痴ってから、橘は気を取り直して歩き出した。


「だが、逆よりは良いか。例の大量引き抜き騒動の時も、率先して陣頭指揮を執った上、裏切り者どもにきっちり制裁を下したしな。CSCも当面は安泰そうで、結構な事だ」

 橘がそんな独り言を漏らしていると、前方から驚愕と狼狽の囁き声が聞こえてくる。


「ひいっ!」

「何であの人がいるんだよっ!」

「今日、出社する予定なんかあったか!?」

「緊急監査か?」

「俺、何もへまをしてないよな!?」

 そんな囁きと共に、複数の社員が自分の進路を遮ったしないように廊下の壁にへばりついたり、自分の視界から逃れようと近くの部屋に駆け込んだりするのを目の当たりにした橘は、小さく舌打ちした。


(全く、ピーチクパーチクと五月蝿い奴等だ。俺の姿を見た位で、そこまで動揺するなよ。お嬢も苦労していそうだな)

 そこで軽く背後を振り返った橘は、軽く首を振ってから無言のままエレベーターに向かった。

 一方の豊は、それからは本来の業務そっちのけで橘が持参したデータに目を通していたが、二時間近くかけてそれらを精査し終えた。そしていつのまにか浮かべていた凄みのある笑顔のまま、友之に電話をかけ始める。


「友之さん、お仕事中すみません。一之瀬です。今、少々お時間を頂いてもよろしいですか?」

「え?」

 当然友之も就業時間中であり、何事かと思ったらしく一瞬反応が遅れたが、すぐに重要な用件だと判断したらしく了承してきた。


「構いません。どうかしましたか?」

「今回の事について、少々お話がありまして。明日は土曜日ですし、午後に特に予定が無ければ、私の自宅に出向いて貰えませんか? 折り入って、お話ししたい事がありまして」

「それは構いませんし、こちらからお詫びに伺うつもりでしたが、沙織は」

「お互い、沙織はいない方が良いでしょうね。勿論、こちらに来る事も、誤魔化しておいた方が良いかと思います」

 友之の台詞を些か乱暴に遮りながら言い聞かせると、さすがに緊迫感を感じさせる声になって応じてくる。


「……分かりました。一人で伺います。ご宅の住所は、以前聞いて控えてありますので大丈夫です」

「それでは十三時では?」

「結構です。その時間にお邪魔します」

「よろしく。それでは失礼します」

 そして首尾良く友之を呼び寄せる手筈を整えた豊は、再び目の前のディスプレイを凝視しながら忌々しげに呟く。


「全く……。こんな男が俺の義弟とはな。情けないにも程がある」

 その憤怒の形相を一般の社員達が目の当たりにしたならば、先程橘を目撃した時の比では無い位、血の気が引く事は確実だった。

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