(28)母娘の看病イベント再び

 帰宅してすぐにリビングに顔を出した友之は、ソファーに座って義則と談笑していた沙織を見て、安堵しながら声をかけた。

「ただいま。沙織、大丈夫か?」

 それに沙織が笑顔で応じる。


「ええ、ちゃんと先生からのお墨付きを貰ってきたわ」

「それなら良かった。退院手続きを全て母さんに任せてしまって、すまなかった」

「仕事があったし、大した事ではないから。寧ろお義母さんは、私の世話を焼けると喜んでいたわ。『こういう時って、男は本当に役に立たないんだから』と上機嫌に言いながら付き添いをしてくれたから」

「……否定はしないが」

「こちらも耳が痛いな」

 友之は憮然とした表情になり、義則が苦笑したところで、真由美がリビングにやって来た。


「友之、夕飯の準備ができたわ。早く食べなさい」

「分かった」

「それじゃあ、沙織さん。台所を片付けたら、一緒にお風呂に入りましょうね」

「はい、お願いします」

「は? どういう事だ?」

 素直に食堂に向かいかけた友之だったが、真由美の台詞を聞いて思わず足を止めて振り返った。そんな彼に、沙織が説明する。


「退院時の説明を受けた時、お風呂に入ったり、シャンプーを使って洗髪をしても構わないと言われたけど、さすがに縫合部を強く擦るのは避けて欲しいと言われたの。だけど自分では見えないし、ちょっと不安で……」

「だから私が、髪を洗ってあげる事にしたのよ。友之の出る幕はありませんからね」

「ああ……、うん。事情は分かった。よろしく頼むよ」

「あ、友之さん。後でちょっと話があるんだけど」

「分かった。後で頃合いを見て、部屋に行くから」

 微妙な顔付きになりながら、友之は了承の返事をしてリビングから食堂に向かった。


「全く、母さんは……。楽しんでいるようにしか見えないぞ」

 すっかり親子の看病イベントに突入しているとしか思えない母親の様子に、友之は呆れ気味に愚痴っぽく呟いた。

 その後、夕飯食べ終えてから、女二人で賑やかに風呂に向かったのを父親から聞いた友之は、時間を見計らって沙織の部屋に出向いた。


「沙織、今は大丈夫か?」

 声をかけながら室内に入ると、机に向かってスマホを操作していた沙織が、椅子ごと振り返る。

「ええ、髪も乾いたし。お義母さんに乾かして貰っちゃった」

「どう考えても、母さんは楽しんでいるとしか思えないんだが。ところで話って何だ? 勤務に関してか?」

 ベッドの端に座りながら友之が尋ねると、沙織は机の引き出しから一枚の髪を取り出しながら話を切り出す。


「確かに社内の状況や反応は聞きたいけど、まずはこっちね」

「婚姻届がどうかしたのか?」

 いきなり出されたそれに友之が戸惑う中、沙織は真顔で話を続けた。


「当面は事実婚のままで提出するつもりは無かったけど、一応準備だけはしておいたのよ。だけど今回、なし崩し的に事実婚の事を社内に公表してしまったし、この際正式に入籍しない?」

 その提案に、友之は少々驚きながら問い返した。


「良いのか?」

「別に婿を取る必要は無いし、色々訂正や変更手続きをする必要はあるけど、どうしても嫌だという訳でも無いし、社内では入籍後も旧姓で勤務ができるもの。それに今年中には労働組合から、同一所属内での結婚でも配置転換を求めない規定を提起する予定になっているのよね?」

 そこで友之は、事件発生後に怒濤の展開を見せた出来事を思い出した。


「すっかり説明するのを忘れていた。その事だが、前倒しで認められそうだ」

「え? どういう事?」

 目が点になった沙織に、友之が順を追って説明すると、彼女は思わず天井を仰いだ。


「由良……。だから『任せておけ』の一文メールだったのね……。さっき送信にも、なかなか返事が来ないと思ったけど……」

「吉村の話では膨大な数の署名が着々と集まっていて、今週中に全組合員数の八割の署名を集めると、本宮課長が豪語しているらしい。来週早々に、労使協議の場を設定済みだしな」

「うわぁ……、話が際限無く大きくなってる……。松原工業の社員数って、各支社や営業所や製造工場まで含めたら、どれだけの人数になると思ってるのよ……。本宮課長、本気なの?」

「本気だし、彼だったらやるだろうな……」

 完全に呆れ顔になった沙織に、友之が自棄気味に応じたが、ここで沙織がちょっとした疑問を口にした。


「それにしても、どうして吉村さんが署名の集約具合を知っているわけ?」

「新川さんが署名の取りまとめをして、重複者名をチェックしているそうた。吉村が今日彼女に差し入れした時に、進行状況を聞いたらしい。それに加えて、署名漏れの社員名を入会希望者に横流しして、数少ないパイ狙いで未署名者に女性社員達が殺到しているらしいな」

 その光景を脳裏に思い描いた沙織は、はっきり分かる程度に顔を強張らせる。


「それ……、問題にならないの? 下手したら女性社員が寄ってたかって、署名の強要をする事態になっているんじゃ……」

「組合が主導しているわけでは無いし、本宮課長はこれに関しては静観しているみたいだ」

「まさか『現場から苦情が出ている』と経営側から抗議されたら、労働組合側は『組合主導ではなく、一部社員が暴走しているだけ』と弁明するつもりとか?」

「恐らくは」

「凄い詭弁……。裏でしっかり糸を引いているくせに」

 そこで二人は顔を見合わせ、どちらからともなく溜め息を吐いたが、いち早く気を取り直した沙織が話を元に戻した。


「状況は分かったわ。それなら一応、社内規定が成立してから日を選んで、入籍する事にする?」

「そうだな……、そうするか。俺は特に、入籍日に対してのこだわりは無い」

「それじゃあこっちの欄に記入して、署名捺印しておいてくれる?」

「分かった。今書いておくから、ペンを借りるぞ」

 すかさず立ち上がった友之は沙織と位置を交換し、机に向かって所定の位置に記入を済ませた。


「よし、これで良いな。判子は後から押すから。ところで証人欄はどうする?」

「お義父さんとお義母さんで良いと思うけど、誰か頼みたい人でもいる?」

「いや、特にそういう人はいない。近々、父さん達に頼むか」

「そうね」

 そこで話が纏まったところで、友之はベッドに座っている沙織と向かい合い、真顔で口を開いた。


「沙織。今回結婚している事を公にしたし、この機会に相談したいと言うか、意見を聞きたい事があるんだが」

「何? 改まって」

「それは」

「沙織さん! あら、友之ったら、沙織さんの部屋で何をしているの。もう十時過ぎてるのよ?」

 ノックも無しにいきなり乱入してきたと思ったら、盛大に顔をしかめながら非難してきた母親に、友之は不服そうに言い返した。


「何って、ちょっとした話を。それにまだ十時だろう?」

「沙織さんは病み上がりなの! 傷が完治するまで栄養と睡眠はしっかり取らないといけないのに、何を夜更かしさせているの!」

「あの……、怪我の場合も、病み上がりって言うんでしょうか?」

「夜更かしって……、だからまだ十時なんだが」

「四の五の言わずにさっさと出る! 沙織さん、ゆっくり休んでね。おやすみなさい」

「はぁ……、おやすみなさい」

 有無を言わせぬ迫力で断言した真由美に、沙織は呆気に取られながら頷き、強引に腕を引かれて立たされた友之は、続けてぐいぐいと背中を押されて撤収させられる。


「友之?」

「分かった。ちゃんと休ませるから」

(本当に、母さんには敵わないな。まあ、いつでも話はできるか)

 苦笑しながら沙織に挨拶をして部屋を出た友之は、母親に追い立てられるように自分の部屋に戻って行った。

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