(27)意外な交流

 松原工業では、まだ前日の騒動の余波が収まりきってはいなかったが、丸一日経つとだいぶ落ち付きを取り戻し、営業二課でも通常通りの業務を執り行っていた。そして夜も九時を回ったところで、残っていた吉村が腰を上げて総務部へ向かうと、広々とした室内で一人残っていた由良が、椅子に座ったまま盛大に呻きながら上半身を伸ばしていたところだった。


「っうぁあ~、肩凝ったぁ~、眼が死ぬぅ~」

 彼女の机に背後から近付いた吉村は、自然に目に入った署名用紙の束と、パソコンのディスプレイに表示されていた内容を見て、僅かに首を傾げながら声をかけた。


「……何をやってるんだ?」

 その声に、由良が不思議そうな顔で椅子ごと振り返る。

「あれ? 吉村さん。まだ残業してるんですか?」

「終わったところだ。最後に他課から集まったこれを、あんたに渡すのを頼まれてな」

 どうして二課が営業部での署名用紙集約所になっているのかと物申したい気分だった吉村だが、当事者二人には色々迷惑をかけたという負い目があり、素直に受け取って運び役を受け入れていた。それを由良は笑顔で受け取り、手早く片付けて帰り支度を始める。


「さっすが営業部。これまでにも二回届けて貰ったのに、集約具合が抜群だわ。よし、これは明日頑張ってチェックしよう。今日はここまでにして帰ろうっと」

 本当ならそのまますぐに帰っても良かった吉村だったが、つい気になった事を口に出した。


「本当に《愛でる会》で、署名の取り纏めをしているんだな……。それにしても、何をやってたんだ? 社員名簿を見ていたようだが」

「重複署名が無いかのチェックよ。『こんなに集まる筈がない。どうせ数を水増ししているんだろう』と、経営側に難癖をつけられたくはありませんからね」

 由良があっさり答えた内容に、吉村は驚きの表情になった。


「まさか、一つ一つ確認しているのか? 大変だろう」

「署名欄に加えて、所属部署を書く欄も作ってあるから、全社員名簿と照らし合わせているだけよ。数はあるけど、作業は単調な物だわ。個人情報だから、生憎とデータは社外持ち出し禁止でね。社内で個人的に残る許可を上司に貰って、チェックしてたわけ。ろくでもない成果も出たけど」

「ろくでもない成果って?」

「複数の女に良い顔をしようと思ったのか、女を誘う口実か、はたまた普段女に見向きもされないのに積極的に声をかけられて舞い上がったのか、複数回署名している節操無し理解力無しの馬鹿男が増殖中なの。バレる筈が無いと高を括って、人の手間を増やしやがって。重複している署名を二重線で消すと同時に、信用できない男のリストとして名簿を作成中だから、後で人事部所属の愛でる会会員に横流ししてやる」

「…………」

 若干怨嗟を含んだ由良の台詞に、吉村は思わず黙り込んだ。すると帰り支度を終えた由良がバッグを持ち上げつつ、そこに立ち尽くしたままの吉村に不思議そうに声をかける。


「よし、帰るか。吉村さんは帰らないんですか?」

「俺も帰る」

「それなら下まで一緒に行きません?」

「下までか?」

「家まで一緒に行って良いんですか?」

「駄目に決まっているだろう」

「ですよね~」

 一瞬顔を顰めた吉村だったが、あっさり笑い飛ばした由良を見て、小さく溜め息を吐いて歩き出した。もう残業で残っている社員も殆どおらず、廊下に人気が無いのを幸い、吉村が遠慮のない感想を口にする。


「本当に変な女だな」

「傷付きますね。どこがですか?」

「以前に言っていた通り、本当に俺より関本の方が好きだろう?」

「そうですね。でももし吉村さんが社内で謂れのない誹謗中傷を受けたら、手段を選ばず対抗措置を取る位は好きですけど?」

「…………」

 横に並んで歩いている由良が、軽く首を傾げながら言い返してきた内容を聞いて、吉村は思わず足を止めてしげしげと彼女を眺めた。


「何ですか?」

「いや、つくづく読めない女だなと思って」

「そうですか? 沙織と同様、好き嫌いは割とはっきりしている方ですが」

「そうか……」

 不思議そうに見上げてきた由良から視線を逸らすようにして吉村は再び歩き出し、由良もそれに従った。そして彼はエレベーターに乗り込むまでの間は無言だったが、エレベーターが下降し始めると同時に口を開いた。


「まあ、友人の為に奮闘するのは、素直に称賛するべきだよな……。分かった。明日、栄養ドリンクと眼精疲労用の目薬を差し入れる」

 別に、嬉しい事を言われた礼では無いが、周囲の頑張っている人間を応援するのは人として当然の事だろうと、吉村が自分自身に言い聞かせるように申し出ると、それに由良は嬉々として食い付いた。


「本当ですか!? うわ、嬉しい! 永久保存版として飾りますね!」

「飲んで使えよ! 本当にわけが分からん女だな!」

「えぇ~、だって記念すべき吉村さんからの初プレゼントじゃないですか。これを飾らずに何を飾れと?」

「駅の出入り口近くのドラックストア、今の時間でもまだ開いているよな? そこで買ってやるから、さっさと開封して使え!」

「それなら下までじゃなくて、駅まで一緒に行ってくれるんですか?」

 すかさず笑顔で確認を入れてきた由良に、吉村は一瞬言葉に詰まってから、些か乱暴に言い返した。


「出勤する時にたまに姿を見かけているから、同じ路線だろ! 駅までだぞ、駅まで!」

「嫌だ、気がついていたなら、声をかけてくれたら良いのに~。そんなに恥ずかしがらなくても~」

「誰が恥ずかしがってるんだ! 面倒だし、必要が無いだけだ!」

 くすくす笑いながらからかい交じりの声をかけてくる由良の数歩先を歩きながら、吉村は(本当に調子が狂う女だな)とは思いつつも迷惑だとは思ってはおらず、寧ろそんなやり取りをどこか心地良く感じていた。

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