(26)一夜明けて

 松原工業を震撼させた、襲撃事件の翌朝。友之はいつも通り出社したが、最寄り駅から社屋ビルに向かって歩き始めた途端、周囲からの視線を感じると同時に囁き声が伝わってきた。


「おい、松原課長だぞ」

「ああ、例の?」

「昨日、ストーカーが……」

(周囲からの視線が突き刺さるな。やはり今週一杯、沙織は出勤させないようにしよう)

 好奇心に満ちた視線に、友之が溜め息を吐きたいのを堪えながら社屋ビルに入ると、エントランスに入って大して歩かないうちに、クリップボードを抱えた女性社員から元気良く挨拶された。


「あ、松原課長! おはようございます!」

「おはよう。その……、君はもしかして、《愛でる会》の入会希望者なのかな?」

 沙織よりも若干若く見える彼女に全く見覚えは無かったが、予想しながら尋ねてみると、肯定の答えが返ってくる。


「はい! 松原課長と奥様の為に、身を粉にして頑張りますね! 見事会員になれた暁には、是非とも良縁をよろしくお願いします!」

「その……、別に俺が、《愛でる会》の会員に良縁を世話しているわけでは」

「すみません! 職場環境是正の為の署名に、ご協力お願いします! まだこちらに署名はされていませんよね?」

「え? 何だい? 署名?」

 友之の話の途中で、彼女は自分の至近距離を歩いている社員をターゲットにして熱弁を振るい始め、放置された格好の友之は今度こそ溜め息を吐いた。そして注意深く周りを観察してみると、エントランスホールのあちこちで複数の女性社員が、出勤してくる者達を捕まえて署名を依頼している光景が目に入る。


「こちらに署名をお願いします!」

「ご協力、ありがとうございました!」

(《愛でる会》会員の他にも、入会希望者が本当にフル活動しているらしな…。社内で益々、騒ぎが拡大している気が……)

 いつもよりざわめいているホール内で、全身に好奇心に満ちた視線を浴びていた友之は、頭痛を覚えながらエレベーターホールへと向かった。


「そういう訳だったんですね……。あの意味が、やっと分かりましたよ」

「只野、どうかしたのか?」

 営業二課の部屋に入ると出勤していた者達が一ヶ所に集まり、何やら只野が呆れと感心が入り交じった感想を述べている所だった。

友之が挨拶をしながら何事かと尋ねてみると、彼が振り返りながら事情を説明する。


「課長、おはようございます。エントランスホールに入ってからエレベーターに乗るまでの間に、三人の女性社員に『署名に協力して欲しい』と頼まれたのですが、所属先を尋ねられて営業二課だと言った途端、全員にあからさまに舌打ちされて『それなら良いです』と断られたので、何事かと思いまして」

 只野が告げると、他の者達も口々に言い出す。


「ちょうど今、昨日聞いた《愛でる会》の話を教えたところです」

「当事者の職場だし、既にこれに署名済みだと思われたんだな」

「しかし露骨過ぎるだろ」

「俺も出社早々絡まれたぞ」

「男性社員比率が高い部署は、暫く草狩り場になるだろうな」

 皆が一通りそんな事を言い合ってから、昨夜残っていなかった只野が、顔付きを改めて言い出す。


「関本の怪我の状況は、皆から聞きました。重症では無くて良かったですね」

「ああ、心配かけて悪かった。始業前に全員揃ったところで、改めて説明と謝罪をするつもりだ」

 その宣言通り、友之は始業前に部下達に向かって説明と謝罪を済ませてから、予め事実婚の事実を伝えていた部長と共に各方面、特に上層部に対して、仕事の合間に説明に回った。



「沙織さん。体調はどうかしら?」

 面会時間では無い筈の、朝食を食べ終えて食器が回収された直後の時間帯にひょっこり現れた真由美を見て、沙織は本気で面食らった。


「お義母さん!? 今は面会時間ではありませんよね? どうしたんですか?」

「二泊とは言っても、細々した物は必要でしょう? 友之が昨日のうちに揃えて置いていったとは思えなかったから、事情を話して看護師さんに案内して貰ったの。洗面台やドレッサーから、色々勝手に持ってきてしまってごめんなさいね」

 真由美がそう言いながら、持参した小ぶりのボストンバッグからタオルや下着に加え、歯ブラシや洗顔料、コスメ用品まで一揃い出してみせた為、沙織はすっかり恐縮してしまった。


「すみません。明日には退院する予定なのに、わざわざ来て貰うなんて。全然考えていなくて、助かりました」

「良いのよ。それから案内してくれた看護師さんから、搬送された時の沙織さんの服と私物を預かってきたの」

「あ、じゃあスマホもありますね。ぐっすり眠っていて、すっかり忘れていました」

「やっぱり身体は本調子では無いみたいね。ゆっくり休めたのなら良かったわ。持って来た物は、取り敢えず収納場所に入れておくわね」

「ありがとうございます」

 笑いながら真由美が差し出した紙袋を受け取った沙織は、早速中を確認し、スーツのポケットにいれておいたスマホを取り出した。しかし操作し始めてすぐに、小さな呻き声を漏らす。


「うわ……」

「沙織さん、どうかしたの?」

「メッセージの類が、凄いことになっていて……。でもさすがに、もう電池が切れそうなので」

「さすがに、充電ケーブルまでは思い付かなかったわね」

 自分同様難しい顔になった真由美を見て、沙織は即決した。


「病室ですし、返信は退院してから纏めてします。職場関係は友之さんが伝えてくれますし、愛でる会での交友関係は由良に頼んでおけば大丈夫ですから」

「それはそうね。入院中はきちんと休まないと」

 真由美が頷き、持参した物を棚に収納する作業を再開すると、また怪訝な声が上がった。


「え?」

「沙織さん、何かあったの?」

 思わず振り向いた真由美に、沙織が困惑顔で説明する。


「取り敢えず由良に連絡を取ろうと思って、まず彼女からの連絡を確認したんですが……、『万事私達に任せておいて』との意味不明な一文コメントだけなので」

「どういう事かしら?」

「さぁ……。何かの連絡と混ざったのかな」

 そうこうしているうちに片付け終わった真由美は、思い出したように怒りの表情で言い出した。


「それにしても……。よりにもよって、社内で沙織さんが事件に巻き込まれるなんて。しかも玄孫の嫁を守るどころか怪我をさせるなんて、本当に役に立たないご先祖様ね!」

「お義母さん。初代社長に全く非はありませんから。そんな事を言ったらバチが当たりますよ?」

「構わないわよ。今朝は腹が立って仕方が無かったから、仏壇に何もお供えしなかったわ」

(やっぱり言うと思った。予想通りだったわ)

 一人でプンプンと怒っている真由美を見て、沙織は思わず噴き出してしまったが、そんな彼女に真由美がきょとんとしながら尋ねた。 


「沙織さん、どうかしたの? 急に笑い出したりして」

「いえ……、大した事では無いのですが……」

(「予想していた通り」とか言ったら、単純だと言っているようなものだし、「面白い」と言ったら馬鹿にしているみたいだし……)

 少しだけ悩んだ沙織は、笑顔のまま言葉を継いだ。


「お義母さんと一緒にいると、色々楽しいなと思いまして」

「私も沙織さんと一緒に暮らしていると楽しいわ」

(でも……、ご先祖様か。そろそろ潮時と言えば潮時だよね)

 穏やかに微笑まれて沙織は自分も嬉しくなると同時に、ある事を考えた。するとそれが顔に出ていたのか、真由美が再び尋ねてくる。


「沙織さん、今度は急に黙り込んでどうしたの? どこか具合でも悪いの?」

「ちょっと考え事をしていただけですから、大丈夫です」

 真由美はそれから沙織が診察や検査に呼ばれて病室を出るまで居座り、満足げに帰って行った。



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