(11)絶好調と絶不調

 気は急いていたものの、仕事中に長電話をするわけにもいかず、退社してから沙織に連絡を取ろうとしても全くなしのつぶてだった友之は、家の玄関で出迎えた真由美に開口一番尋ねた。


「ただいま。沙織は上にいるかな?」

「部屋には居ないわよ。まずご飯にしなさい」

「分かった」

 母親がいつも通りに見えた為、会社での一幕を沙織が言っていないものと判断した友之は、幾分安堵しながら奥へと進んだ。そして友之が食堂に入ると、既に義則が夕飯を食べている最中だったが、てっきりここに居ると思った沙織の姿が見えない事で、彼は怪訝な顔になった。


「父さん。沙織は夕飯を食べ終わって、リビングに居るのか?」

 自分の席に座りながら友之が尋ねると、何故か義則は微妙に視線を逸らしながらそれに答える。


「その……、沙織さんは、リビングには居ない」

「え? だって母さんは、さっき上には居ないと言っていたが。風呂にでも入っているのか?」

「そうではなくてだな」

「はい、友之。おまたせ」

 そこで奥の台所から友之の夕飯を運んできた真由美が、それを笑顔で彼の前に並べた。しかし目の前の父親の分とは異なり、白米と味噌汁にめざしが三本という何ともシンプルな内容に、友之の顔から表情が抜け落ちる。


「母さん? これは何かな?」

「あなたの夕食よ」

「…………」

 相変わらずにこやかに言い切った母親を見て、沙織が昼間の事について詳細を報告済みである上、激怒させてしまっているのが分かった。


「本当に沙織さんは、良くできた優しいお嫁さんね。『お義父さんは日々重要な決断を下す、松原工業のトップです。万が一にも体調管理が疎かになった事で判断ミスが生じてはいけませんから、いつも通りの食事を準備してあげてください』と言ってくれたの」

「ああ……、ありがたくて涙が出るな」

「課長の俺は、粗食でも構わないわけか……。それで沙織は、今どこに居るんだ? 風呂に入ってるのか?」

 義則が申し訳なさそうに弁解するのを聞いた友之は、疲れたように溜め息を吐いた。しかし気を取り直して沙織の所在を尋ねると、真由美が相変わらず微笑みながら予想外の事を告げる。


「ちょっと実家に行っているわ」

「名古屋に!?」

「いえ、都内よ」

「は?」

「一之瀬さんの所にね」

「…………え?」

 事も無げに言われた内容に、最初友之は狼狽し、次いで困惑し、最後に絶句した。


「『沙織さんを何日も、一人でホテル暮らしをさせるのは不安なので、良ければそちらで預かっていただけませんか?』と事情を話してお願いしたら、二つ返事で快く了承していただいたわ」

 満足げに頷きながら真由美が報告を終えると、友之は項垂れながら恨みがましく呟いた。


「母さん。何て事をしてくれたんだ……。一之瀬さんは、沙織を返す気なんかサラサラ無いぞ」

「精々頑張りなさい。見合い写真なんかを隠匿していた、相応の報いというものよ。聞く耳持ちません」

 息子の泣き言など鼻も引っ掻けず、真由美は悠然と台所に引っ込んだ。それを確認してから、義則が声を潜めて謝罪してくる。


「すまん。私が帰って来た時には、既に沙織さんは当面必要な荷物を纏めて、出ていった後で」

「うん、分かった。これは俺達の問題だし、父さんが気に病む事では無いから」

 父親を宥めつつ手早く夕飯を食べ終えた友之は、自室に入るとすぐに沙織に電話をかけ始める。すると帰宅するまでは応答が無かった沙織のスマホに、あっさりと繋がった。


「もしもし、沙織?」

「友之さん、もう家に帰ったの?」

「ああ。その……、本当に一之瀬さんの所に居るのか?」

 挨拶もそこそこに話を切り出すと、沙織がうんざりした口調で返してくる。


「ものすごい歓迎っぷりよ。ここには初めて来たけど、私用の部屋まで有ったわ。服もクローゼットの中に、私のサイズで色々買い揃えてあってね。下着まで揃えてあったら、実の父親でも殴り倒すところだったけど。……それで? 一体何の用で、電話してきたのかしら?」

 僅かに怒りを内包した声音に友之は一瞬怯みそうになったが、覚悟を決めて謝罪の言葉を口にした。


「見合い話の事を黙っていた事と、写真や釣書を保管していた事は謝る。別に疚しい事は一つも無いが、気分を害するような事をわざわざ沙織の耳に入れる必要は無いと思ったから」

「それはそれは……。私なんかの心情をおもんばかっていただいて、誠にありがとうございます」

 その明らかに皮肉を含んだ口調に、友之の顔が強張る。


「……嘘だと思っているのか?」

「まさか。私との事を公にできないから、強く断れなかったのよね? だから半分は私のせいだと思うし、変な気を遣わせてしまって、本当に申し訳ないと思っているのよ?」

「あのな……」

「それとも……。実はちょっと気になる相手がいたから、ついうっかり手元に置いていたとか? まあそれはそれで、仕方がないかとも思うけど」

「沙織! 本気で怒るぞ!」

 思わず声を荒げた友之だったが、全く恐れ入らなかった沙織は冷静に話を続けた。


「別に友之さんを頭ごなしに叱りつけたり文句を言うつもりは無いけど、顔を見たら苛々してストレスが溜まりそうだと思ったの。職場でならともかく、帰宅してまでそれは勘弁したいから、暫くそこを出る事にしたから。会社ではこれまで通り、完全に割り切って仕事をするから安心して」

「そういう事を問題にしているんじゃない! 俺が言いたいのは」

「沙織ちゃん! 夜食のスイーツを準備したよ! 一緒に食べよう!」

(一之瀬さん!?)

 ここでいきなり割り込んできた声に友之は激しく動揺したが、沙織は構わずに和洋に向き直った。


「夜食のスイーツって……。あれだけしっかり夕食を食べたし、胃がもたれそうなんだけど……」

「あれ? 誰かと話し中だったのかい?」

「ええ、友之さんから電話がかかってきているの」

「……ほう? ちょっと代わってくれるかな?」

「どうぞ」

 友之が何か口を挟む間もなく、電話越しにあっさり相手が切り替わり、気味が悪い位上機嫌な和洋の声が伝わってくる。


「やあ、友之君。元気かい? 私は心身ともに絶好調だよ」

「それは何よりですね。私は少々不調ですが」

「それはいかんな。あらゆる意味で不摂生はまずいだろう。気を引き締めていかないとな」

「ごもっともです……」

 迂闊な事など一言も漏らせない友之は、冷や汗を流しながら言葉を返していたが、そんな彼に和洋が高らかに宣言した。


「何やら沙織が、そちらで少々不愉快な思いをしたそうでね。君のお母上から頼まれて、暫く私が預かる事にしたから安心したまえ! 一年でも二年でも、例え一生でも面倒を見るからな! うわはははは!」

(駄目だ……。今のこの人に下手な弁解をしようものなら火に油を注ぐだけだし、何を言っても無駄だ)

 高笑いしてする和洋に対して、とても釈明する気分にはなれなかった友之に、最後通牒が突き付けられる。


「それでは明日から沙織は、ここから職場に通わせるから、職場ではいつも通り上司と部下として接してくれたまえ! それでは失礼する!」

「あの! 一之瀬さん!?」

 そこで和洋の宣言と共に通話が切られ、友之は諦めて耳からスマホを離した。


(取り敢えず早急に、田宮さんにあの一式を返さないと。どう考えても、話はそれからだ)

 かなり切羽詰まった状況に陥った事を自覚した友之は、そこで盛大に顔をしかめたが、これからするべき事を冷静に考え始めた。



「はい、沙織ちゃん。ありがとう」

「どうも……。ところで和洋さん。さっき聞きそびれていた事を思い出したんだけど」

「何かな?」

 渡されたスマホをテーブルに置きながら、沙織はさり気ない口調で問いを発した。


「田宮専務が和洋さんに、私の縁談を任せて欲しいと申し出た時、自分の会社の社員を相手に考えていますのでと、丁重にお断りしたそうね」

「うん。そうだけど。それが何か?」

「……本当に、そんな事を考えていたんじゃないでしょうね?」

「嫌だなあ、沙織ちゃん。事実婚とは言え一応沙織ちゃんは結婚していのに、縁談を画策するなんてそんな非常識な事をするわけが無いだろう?」

 平然と笑いながら応じた和洋に、沙織は一瞬だけ疑惑の眼差しを向けてから何事も無かったように頷く。


「そうよね。一応聞いてみただけだから」

「じゃあケーキとお茶を準備して待ってるね!」

「ええ……、分かったわ」

(限りなく怪しい……。でも証拠は無いしね)

 沙織は何となく釈然としないものを感じながらも、翌日からの事を考えて若干憂鬱そうに溜め息を吐いた。

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