(10)夫婦喧嘩の鉄板台詞

「ただいま戻りました」

 まだ充分明るい時間帯に帰宅した沙織を見て、真由美は本気で驚いた。

「沙織さん? 今日は早く帰るなんて、言っていなかったわよね? どうしたの? まさか具合でも悪いの?」

「具合は悪くありません。入社以来、初めて仮病で早退してしまいました。生理痛が、仮病の範疇に入るのかどうかは分かりませんが」

「え? 生理痛?」

「だけどそんな事を公言して、退社するなんて……。今になって、自分自身に愛想が尽きました」

 沈鬱な表情で語ってから深い溜め息を吐いた沙織を見て、真由美が即座に指示を出す。


「今、お茶を淹れてくるから、沙織さんはソファーに座って待っていて。少し気持ちを落ち着かせてから、話を聞かせて頂戴」

「分かりました」

 それに反論する気力など全く無かった沙織はおとなしく従い、真由美は手早く二人分のお茶を淹れてリビングに戻った。


「それで? 一体どういう事なの?」

 自分達の前に湯飲みを置きながら真由美が促してみると、向かい合って座った沙織は湯飲みのお茶を一口飲んでから、徐に話し出した。


「事の起こりは、今日の午後の早い時間に、田宮専務が営業二課に出向いて来た事です」

「田宮さんが? また何か嫌がらせでもしにきたの?」

「ある意味、嫌がらせと言えなくもないですが、あの様子だと本人は善意のつもりですね。彼の話では先月友之さんに、大量の見合い話を持ちかけたそうです」

「なんですって!?」

 田宮の名前が出た途端、不愉快そうに眉間に皺を寄せた真由美だったが、沙織の口から詳細が語られるにつれ、怒りの表情を露にしていった。


「それで、相手はどう見ても善意からの行為だと思われますし、結婚している事実を隠しているこちらに非があるわけですから、何を言われても気にせずに流しておけば良いものを……。どうしてもイライラムカムカする気持ちを抑えられず、半ば友之さんに八つ当たりをして早退を」

「沙織さん!」

「はい。何でしょうか?」

 急に自分の話を遮りながら身を乗り出してきた姑に、沙織が怪訝な顔で尋ね返すと、真由美は憤慨した様子で断言した。


「それは妻として、八つ当たりして当然よ! 寧ろあっさり流されたりしたら、沙織さんが友之の事を大して愛していないのかと思ってショックだわ! 早退位、何だって言うのよ! 有給休暇は労働者の権利の筈よ!」

「はぁ……、それはそうですね」

「こうしてはいられないわ! 家捜ししないと! 証拠を押さえるわよ!」

「え? 家捜しって、お義母さん? あの、ちょっと待ってください!」

 そこで真由美は憤然としながら勢い良く立ち上がり、次いでリビングから駆け出して行った為、沙織は慌てて彼女を追いかけた。


「母親の勘を舐めないで! 五分で見つけてあげようじゃない!」

「お義母さん、ちょっと待ってください! 幾らなんでもそれはプライバシーの侵害ですよ!?」

「大丈夫よ、沙織さん。私一人で探すから、沙織さんは部屋に入らないで待っていて頂戴」

「いえ、妻は駄目で母親なら構わないとか、そういう問題では無いと思いますが!?」

 階段を駆け上がりながらの真由美の叫びに、沙織は狼狽しながら思い止まらせようとしたが、真由美はそのままの勢いで友之の部屋に突入した。


(うわ、本当にどうしよう。さすがにあちこち引っ掻き回したらまずいわよね?)

 友之とは部屋を分けている上に、互いの私物を漁るような真似はしていなかった沙織は、あちこちの引き出しや扉を開けまくる真由美をどうすれば良いか分からずひたすら狼狽していた。その間に真由美が先程の宣言通り、ものの五分とかからずにクローゼットの中から目的の物を引っ張り出す。


「あったわ! さあ沙織さん、一緒に見ましょう!」

「早過ぎます……。友之さんにあまり隠す気が無かったのか、お義母さんの嗅覚が鋭過ぎるのか……」

 真由美は早速床に座り込んで風呂敷包みを解き始め、沙織は半ば呆れながらも同様に床に座り、相手の手元を見守った。


「あらあら……。この束なら、一人や二人では無いとは思ったけど」

「田宮専務、それなりに頑張ったみたいですね。努力する方向はどうかと思いますが」

 上から順番に見合い写真や釣書の内容に目を通した真由美が、終わった物を沙織に手渡す。沙織が惰性的に受け取ったそれを眺めていると、一通り見終えた真由美が、幾分心配そうに声をかけてきた。

「沙織さん、怒っている?」

 それを聞いた沙織は、思わず失笑しそうになった。


「お義母さん。見合い写真を見せておいて、今更そんな事は聞かないでください。勿論、あまり良い気はしませんよ? 殆どの人は私より若くて美人ですし、なかなか良い家の方が揃っているみたいですし」

「あら、沙織さんだって顔立ちは整っているし、年の頃合いだってちょうど良いし、人並み以上に仕事ができるしっかりした人でないと友之を任せられないと思っているから、あなた以上のお嫁さんなんかいないわよ?」

「今のはお義母さんの贔屓目だと思いますが、ありがとうございます」

 本当にこの人には敵わないなと沙織が思っていると、渋面になった真由美が右手を組みながら、重々しく言い出す。


「でも、これは由々しき問題ね。義則さんも友之も、その場で拒絶してこないなんて。挙げ句にこんな物を隠し持っているなんて、沙織さんに対する重大な裏切り行為だわ」

 それを聞いた沙織は、さすがに少々義則達を気の毒に思い、彼らの立場で代弁した。


「それは確かに、その場できちんと断りを入れられなかったのは少々問題かと思いますが、何と言っても相手が我が社の役員ですし、お義父さんと友之さんにも色々と事情があるかと」

「だけど田宮さんが乗り込んで来た時に『色々言われて不愉快だった』と、さっき言っていたでしょう?」

「はあ……。少々、気分を害したのは確かですが……」

 控え目に沙織が肯定すると、真由美はそれで力を得たように語気強く断言した。


「だからここは夫婦喧嘩の鉄板台詞、『実家に帰らせていただきます』の出番だと思うの!」

「え?」

「沙織さん、男を甘やかしたら駄目よ。友之を猛省させるには、これしかないわ。経験者の私が言うんだから絶対よ!」

 大真面目に言われた内容が咄嗟に理解できなかった沙織は、怪訝な顔で真由美に問い返した。


「『経験者』って……。お義母さんは元々松原家の人間ですから、帰る実家とかはありませんよね?」

「そうね。私の場合は、ちょっとアレンジを加えたの。正確に言うと『あなたの実家に行かせていただきます』だったわ」

「はい?」

 益々わけが分からなくなった沙織だったが、頭の中で松原家の家系図を思い返してから、慎重に確認を入れた。


「あの……、それはまさか、柏木さんのお宅にお義母さんが出向いた、と言う事ですか?」

「ええ、そうよ。それで憤慨した内容を玲子お義姉さんに洗いざらいぶちまけたら、『それは義則さんが悪いわね。気がすむまでうちに逗留していらっしゃい』と快く受け入れてくださって、一ヶ月近くお邪魔させて貰ったの」

「ええと……。一応確認させて貰いますが、柏木さんのお宅はお義父さんのご実家で、ご当主はお義父さんの実のお兄さんですよね?」

「ええ、雄一郎お義兄さんよ」

「それで玲子さんは雄一郎さんの奥さんですから、お義母さんと血の繋がりは全くありませんよね?」

「その通りよ」

「それで、良く一ヶ月も滞在できましたね」

 半ば呆れ、半ば感心しながら沙織が本音を口にすると、真由美が全く悪びれずに笑顔を振り撒く。


「あの家は嫁の立場の玲子お義姉さんが、実権を握っているみたいなの。本当に、どうしてかしらね?」

「どちらもフリーダム過ぎて、凡人の私にはとても理解できない……」

 沙織は頭を抱えて項垂れたが、真由美の一般常識を超越した話は続いた。


「両親が、『他人様に迷惑をかけるな!』と血相を変えて私を連れ戻しに来たのだけど、『義則さんが私に土下座して謝るまで、絶対に帰らないから!』と宣言したら、お義姉さんがしっかり丁重に追い返してくれて。その後、義則さんが本当に土下座して謝ってきたから、矛を収める事にしたの。沙織さんもこれ位しなくちゃ駄目よ? 何事も、最初が肝心なんだから」

 自分の為を思って忠告してくれているのは理解できたが、さすがにその提案に乗る事はできないと、沙織は丁重に断りを入れようとした。


「いえ、でも……。私の場合、実家のある名古屋に帰ったりしたら、さすがに仕事に差し支えますから……」

 しかし真由美は、それを笑って否定する。


「あら、さすがに私も『名古屋から通勤しなさい』なんて無茶な事を言うつもりは無いわよ? 沙織さんには、ちゃんと都内に実家があるじゃない」

「以前住んでいたマンションの事ですか?」

「違うわ。あそこだと、友之が誰にも遠慮せずに押しかけてしまうじゃない。そうと決まれば不肖の息子の不始末だから、私がきちんとフォローしないとね。早速事情説明と、沙織さんの受け入れをお願いしましょう」

 そう言うや否や、風呂敷包みをそのままにして真由美はすっくと立ち上がり、再びリビングに向かった。それを見た沙織は余計に混乱しながら、慌てて彼女の後を追う。


「あのマンションじゃなくて『都内に実家』って……。まさか、豊の家の事を言っているんですか!? さすがに結婚して一年経たないところに、転がり込むような真似はできません!」

「大丈夫よ。お兄さんの所では無いから安心して」

「はい? それならどこの事を言っているんですか?」

「ちょっと待ってね」

 含み笑いで沙織を黙らせてから、真由美は固定電話の横に置いてある住所録から目的の番号を探し出し、早速受話器を上げて電話をかけ始めた。どこへかけているのかと沙織が不安に駆られる中、真由美が相手に向かって悠然と話し出す。


「ご無沙汰しております、一之瀬さん。松原真由美でございます。申し訳ありませんが沙織さんの事で、緊急で大事なお話がありまして……。今少々お時間を頂いても、宜しいでしょうか?」

「まさか『実家』って、和洋さんの所ですか!? お義母さん!!」

 思わず口をついて出た沙織の叫びを真由美は笑顔で黙らせ、そのまま和洋と穏やかな口調で会話を続けた。


(本当にちょっと待って! 和洋さんに知られたりしたら、余計に面倒になるのが確実じゃない! 確かに和洋さんなら、狂喜乱舞して受け入れてくれるのは確実だけど!)

 しかし既に電話してしまった以上、ここで中断しても和洋から追及されるのは必至であり、沙織は本気で頭を抱える羽目になった。

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