(12)緊張感漂う職場

 沙織が松原邸を出て、和洋のマンションで暮らし始めて数日。この間、職場では何事も無かったかのように業務をこなしていた沙織だったが、プリンターから吐き出された書類の内容を確認した後、課長席の様子を窺いながら軽く気合を入れた。

(さて、行きますか。平常心、平常心)

 そして何食わぬ顔で課長席に歩み寄り、仕事中の友之に声をかける。 


「課長、今よろしいですか?」

「……ああ、どうした?」

 傍目には容易に分からない程度に顔を強張らせながら友之が応じると、沙織はそんな彼に向かって、手にしている書類入りのクリアファイルを恭しく差し出す。


「こちらが樋渡産業の見積書と、カドマ技工の企業分析レポートです。ご確認ください」

「分かった。目を通しておく。ご苦労だった」

「失礼します」

(やっぱり緊張する。どういう顔をすれば良いか判断がつかないし、微妙に気まずいし)

 これまで同様のやり取りを何十回となく繰り返していた為、何も問題なくこなしたと思った沙織はまっすぐ自分の席に戻ろうとしたが、途中で予想外の声をかけられた。


「おい、関本。今日は昼飯を付き合え」

 朝永の席の後ろを通っていた時、いきなり声をかけられた沙織は少々驚きながら足を止め、椅子ごと軽く向き直っている相手に怪訝な声で問い返した。

「それは構いませんが……、休憩時間が合いますか?」

「俺は今日、一日社内だ」

「それなら十二時半では?」

「了解」

 予定を確認し合った二人は、すぐにそれぞれの業務に戻り、時間通りに仕事に一区切りをつけて席を立った。


「それで? 朝永さんは私に、何か込み入った話でもあるんですか?」

 店に入るまでは延々と当り障りのない世間話をしていた為、蕎麦屋に入って注文を済ませてから、沙織の方から話を振ってみた。すると向かい合って座った朝永が、少々不機嫌そうに詰問してくる。


「いや、全然込み入ってない。話はすこぶる簡単だ。関本。お前、課長と何があった?」

 半ば確認しているそんな物言いに、沙織の顔が僅かに引き攣った。


「…………どうしていきなり、私と課長の間に何かあった話になるんですか?」

「最近、お前達が顔を合わせて話をする度に、微妙な緊張感が漂っているが?」

「それは、朝永さんの気のせいでは?」

「見た目は普通だから、他のやつらは気が付いていないかも知れないがな。少なくとも杉田さんと川部は、首を傾げているぞ? それでちょっと探りを入れて来いと、俺にお鉢が回って来た」

「…………」

 どうにも言い逃れできない空気を感じた沙織は、軽く顔を歪めながら押し黙った。それを肯定と受け取った朝永が、溜め息を吐いてから沙織を若干宥めるように尋ねてくる。


「それで? 何について揉めたか喧嘩したんだ?」

 その問いに、沙織は舌打ちしたいのを堪えながら、比較的冷静に答えた。


「確かに現在進行形で、極めて個人的な事で課長と少々揉めている事は確かですが、業務に支障を来している自覚はありませんので、気が付かなかった事にして貰えるとありがたいのですが」

「どうして課長とお前が、個人的に揉めるんだよ?」

「ノーコメントです」

「それなら詳しくは聞かないが、客観的に見たらどちらに非があるんだ?」

「こちらの立場で言わせて貰えれば、向こうが7、こちらが3と言ったところでしょうか?」

 沙織が正直に述べると、朝永は少し意外そうな顔になった。


「ほう? 自分にも誉められない所があると、自覚しているわけだ。それならこれまでは問題なかったみたいだが、今後業務に支障を来す可能性は?」

「……無いように善処します」

 軽く睨まれながら、さっさと解決しておけと暗に針を刺された沙織は、弁解がましく頷いた。朝永はそれ以上余計な口を挟むつもりは無かったらしく、溜め息を吐いて言い聞かせる。


「そうしろ。全く、何をやってるんだか。杉田さんと川部には大した事では無いし、事を荒立てないように言っておくから」

「宜しくお願いします」

(分かる人には分かるって事か……。そうは言っても、どうすれば良いのやら……)

 どうにも引っ込みがつかなくなっている事態に困惑しながら、沙織はそれから少しの間、注文の天ぷらそばを食べる事に集中して現実逃避を図った。

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