(7)とんでもない勘違い
「それでは行ってきます」
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
土曜日の朝。朝食を済ませて少ししてから、身支度を整えた沙織を玄関で見送った真由美は、怪訝な顔の義則から声をかけられた。
「真由美、友之の姿が見えないが、知らないか?」
「沙織さんが出る少し前に、出て行ったわよ?」
「そうなのか?」
「家の近くで待ち伏せして、沙織さんを尾行するつもりかしらね?」
くすくす笑いながらそんな事を言われてしまった義則は、呆れ顔になって言葉を返した。
「そんな風に、楽しそうに言う事では無いだろう……。何が楽しくて、妻の尾行をする必要があるんだ」
「本当にね。友之ったら、浮気でもしているんじゃないでしょうね?」
「……どうしてそうなる?」
さり気なく言われた言葉に反応し、顔を強張らせながら問いかけた夫に、真由美は事も無げに尋ね返した。
「だって自分にやましい所があるから、相手の一挙一動が気になって、埒もない疑いを持ってしまうのじゃないの?」
「いや……、幾らなんでも、それは考えすぎだと思うぞ?」
「そうかしら?」
一瞬不思議そうな顔になったものの、大して気にしていなかったらしい真由美は、そこで会話を切り上げて何事も無かったかのようにその場を離れた。
(一瞬、肝が冷えたぞ……。例の見合い話が、バレているのかと思った。真由美は妙に鋭い時があるからな)
義則は妻の背中を見送りながら密かに胸を撫で下ろしたが、当の友之は真由美の予想通り家から出てきた沙織を待ち構え、少し離れて後をつけていた。
(診察日と受付時間はホームページで確認しておいたし、妊婦健診以外は診察予約も事前にしなくて大丈夫だと書いてあったし、そろそろ見えてくる筈……。あ、あれだわ)
一方、家を出た沙織は、スマホで表示されている地図と周囲の様子を見比べながら、普段通勤で歩いている方とは反対側の歩道を慎重に進んで行ったが、最寄り駅まであと二・三分という所で、曲がり角に建っている三階建てのビルの前で足を止めた。
(普段目の前を通っているのに、関心が無かったから素通りしていて、これまで全然記憶に無かったのよね……。思っていた以上に近い所にあって助かったわ。保険証は持っているし、よし、入りましょうか)
ビルに大きく表示されている看板の内容を再確認した沙織は、気合を入れて中に入って行ったが、その一部始終を少し離れていた所から観察していた友之は、沙織が建物の中に入ると同時にその玄関前に狼狽気味に駆け寄り、看板の《清野レディースクリニック》の表示を見上げた。そのまま少しの間茫然としていた彼は、そこに出入りする女性達から不審そうな目を向けられて我に返り、慌てて一旦その場から離れた。
その後、二時間以上経過してから沙織がクリニックから出てきたが、その表情は誰がどう見ても、いつもの彼女とは比較にならない位に沈鬱なものだった。
(何やってるんだろ、私……。間抜け過ぎるにも程があるわよ。やっぱり、誰にも言わずに来て正解だったわ。それにしても……)
軽い自己嫌悪に浸りつつ歩道を歩き出した沙織だったが、いきなり右腕を掴まれて本気で肝を潰した。
「沙織!」
「え、誰っ!? って、友之さん!? びっくりした。いきなりどうしたの?」
鋭く呼び掛けられて驚いたものの、すぐに相手が分かった沙織は安堵したが、友之は逆に怖いくらい真剣な顔で問い質してくる。
「どうしたもこうしたも、一体何の病気だ!?」
「はい? 病気?」
咄嗟に意味が分からなかった沙織が困惑しながら問い返すと、友之は声を荒げながら言い募った。
「手術に家族の同意が必要なら、俺が今すぐ説明を聞いてサインしてやる! 入院が必要なら、すぐに有給休暇申請をするから! それに診断内容に不安があるなら、他の医者にかかって再度意見を聞いてみるか? それならすぐに清人さんに、信頼できる医者を紹介して貰うから」
「ちょっと待って、医者を紹介って」
「大丈夫だ。清人さんは性格に激しく問題はあるが、人を見る目と人脈は確かだ。そこだけは安心してくれ」
「柏木さんに紹介を依頼するのは激しく不安だし、それ以前に、これ以上医者にかかる必要は無いから!」
「は? どうしてだ?」
自分を置き去りにして話がどんどん大きくなる為、沙織はたまらず悲鳴じみた声を上げて友之を制止した。そして戸惑う彼に対して、慎重に尋ねてみる。
「そもそも、どうして私がこのクリニックから出てきただけで、病気云々の話になるの?」
そんな事を大真面目に問われた友之は、どうやら自分が想像した内容とは異なるらしい事を察しつつ、困惑気味に事情を告げた。
「いや、その……。沙織が行き先を告げずに産婦人科のクリニックにこそこそ入っていったと思ったら、後から入った女性達がかなり出て来てもまだ出て来ないし。診断や検査が、よほど難しかったのかと思って……」
「確かに遅くなったけど、それは会計が終わってからも待合室の椅子が空いていたから、そこで少し考え事をしていただけよ。それにしても……、良く私の後に入って来た女性の顔を、何人も覚えていたわね」
「別に、女性の顔を覚えるのが得意とかいうわけじゃ無いからな!」
「……そんな邪推はしていません」
慌てて弁解した友之に沙織が溜め息で応じてから、友之は逸れかけた話を元に戻した。
「そもそも妊娠検査薬で妊娠の可能性が出て調べて貰ったのなら、診断にそれほど時間はかからないと思ったんだ。それなのにかなり時間がかかった上、いつになく暗い顔で出てくるから、診察時に何か難しい病気でも見付かったのかと思ったんだが……。本当に違うのか?」
困惑しきった顔でのそんな説明を聞いた沙織は、漸く以前に聞いていた話を思い出した。
(そう言えば、お義母さんは友之さんの妹に当たる子供を妊娠中に病気が見つかって、妹さんを諦める事になったんだわ。今の今まで、すっかり忘れていたけど)
相手に余計な心配をかけてしまったのだと理解できた沙織は、そこで素直に頭を下げた。
「ええと……、二重の意味でごめんなさい。確かに生理が予定より遅れていたから、ここを受診したの。世の中に妊娠検査薬という物が存在しているのを、すっかり失念していて」
「うん、それは構わないが、できれば受診前に、俺には一言言って欲しかったな」
「それで診断結果を先に言うと、妊娠はしていません。特に病気とかも見付からなかったから、ストレスとかでホルモンバランスが崩れて、遅れているんじゃないかと。来月まで様子を見て生理がこなかったら、改めて薬物治療を検討する事になったから」
「あ、ああ……。そうか。それはひとまず良かった。確かに結婚してから春先にかけて、色々あったからな……」
「そうね。自分ではあまり意識して無かったけど、結構ストレスが溜まっていたのかもね……」
極秘結婚してからのあれこれを思い返した二人は、揃って遠い目をしてしまったが、いつまでもそんな事をしていられないと、沙織は気を取り直して話を続けた。
「それで産婦人科を受診する事を事前に友之さんに言わなかったのと、間違ってもおめでたくは見えない様子でここから出てきた理由だけど、ちょっと一言では言いにくくて」
「それは分かった。取り敢えず、ここから移動しよう。場所が場所だけに、さっきから人目を引いているのが気になって仕方が無い」
「え? あ……、そうね。どうしよう。駅前のカフェにでも行く?」
第三者からすると、自分達が産婦人科の出入り口付近で揉めているようにしか見えず、どんな修羅場か醜聞かと道行く人達から興味津々な視線を向けられている事に漸く思い至った沙織は、戸惑いながら提案した。しかし友之は既に決めていたらしく、沙織の左手を握って問答無用で歩き出す。
「人目を気にせずに突っ込んだ話がしたいから、家まで戻るぞ。良いな?」
「分かったわ」
そのまま無言で自宅への道を歩き続ける友之に、沙織は少々戸惑いながら声をかけてみた。
「あの……、友之さん。手を」
「手がどうかしたか?」
「……何でもないから」
「そうか」
別に手を繋がなくても良いのではないかと言いかけた沙織だったが、前を向いたまま半歩先を歩く友之が淡々と問い返した事で、余計な事は言わずに口を噤んだ。
(怒っている感じでは無いけど、こっちが思っている以上に心配かけてしまったみたい。本当に悪かったわ)
自分の方に非があると感じた彼女は、神妙に手を引かれながら自宅へと戻った。
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