(8)改めて考える事
「頭を冷やしがてら茶を淹れてくるから、先に座っていてくれ」
「分かったわ」
(微妙に気まずい……。『頭を冷やす』だなんて、向こうもまだ多少動揺しているみたいだし)
リビングのソファーに落ち着いた沙織が、再度反省しながら溜め息を吐いていると、少ししてお盆を手にした友之がやって来た。
「母さんや沙織が淹れた時よりは、劣ると思うが」
「そんな事は無いから。いただきます」
「どうぞ」
「物音が全然しないけど、お義父さん達は出かけたのかしら?」
「そうみたいだな。ちょうど良かった」
目の前に置かれた湯飲みに手を伸ばし、早速沙織はお茶を飲み始めた。そして互いに無言のまま、半分ほど飲んで気持ちを落ち着けてから、沙織が話を切り出す。
「さっきの話だけど……」
「ああ」
「最初、妊娠したのかもしれないと思った時、多少は動揺したけど、全く予想外だとは思わなかったのよ? 避妊したつもりでいても妊娠する可能性があるのは理解しているし、もし妊娠していたら産むつもりだったし」
頭の中で順序立てて話し始めた沙織だったが、友之はそこで少々驚いたような表情になった。
「……そうなのか?」
「どうしてそんなに、意外そうな顔になるわけ?」
納得しかねた沙織が思わず問い返すと、友之は微妙に言いにくそうに理由を説明する。
「その……、クリニックから出てきた時、どう見ても嬉しそうでは無かったし。ひょっとしたら俺の子供は、産みたくないのかと思ったものだから」
そんな見当違いにも程がある推測を聞いた沙織は、半ば呆れながら至極当然の口調で答えた。
「他の男の人ならともかく、友之さんの子供は産みたいけど?」
「そうか……」
しかしそれを聞いた友之が軽く頷いただけで口を閉ざした上、自分から微妙に視線を逸らしながらお茶を飲んでいるのを見て、沙織は僅かに首を傾げながら声をかけてみた。
「友之さん?」
「……何だ?」
「何となく顔とか耳とかが赤い気がするけど、ひょっとして照れてるの? どうして?」
不審そうに尋ねてきた沙織を、ちょっと恨みがましい顔になりながら見返した友之は、溜め息を吐いてから彼女に言葉を返した。
「いきなり面と向かって、予想もしていない事を言われたら驚くし、普段言われないような事をいきなり言われたら、恥ずかしいに決まっている」
「そう? そんなに恥ずかしい事を言ったつもりではなかったんだけど……」
「それならどうして、あんな暗い顔をしてあそこから出て来たんだ?」
ここで何とか気を取り直した友之が話を戻すと、沙織が冷静に話を続けた。
「あのね、私これまで『自分が母親になる』想定を、全くしてこなかったの」
「そうだろうな……」
「あ、別に子供や赤ん坊が嫌いと言うわけではないのよ? 未知の存在である事は確かだけど」
「うん、それは分かっているつもりだ」
慌てて弁解気味に付け足してきた沙織に、友之が真顔で頷く。それを見た沙織は、安堵しながら話を続行した。
「それで、改めて子供を産む事について考えてみたけど、私がちゃんと母親らしい事をできるかどうかは勿論だけど、妊娠の事実を公表した時、職場の空気がどうなるのかなと思ったのよ」
「え? 職場?」
「営業二課は今時珍しい男所帯で、これまで産休取得者は皆無よね?」
予想外の言葉が出てきた事で友之は本気で困惑したものの、考え込みながら慎重に答える。
「ええと……、確かに過去に女性社員が在籍していた記録はあるが、産休を取る前に退職したり他部署に移籍している筈だな。元々、女性比率が極端に低い職場だし」
「そうよね。他の営業系の部署では例があっただろうけど、偶々二課では前例が無かったから。私が産休育休を取得予定だと言ったら、周囲がどんな反応を示すのかと少し心配になって」
沙織がそこまで口にすると、友之は僅かに顔色を変えながら彼女に言い聞かせた。
「沙織、ちょっと待て。二課(うち)の連中は沙織が産休や育休を取得すると言っても、あからさまに嫌な顔をしたり、迷惑がったりはしないと思うぞ?」
「うん、それはそうだろうとは思うけど……。それとは別に、今自分が担当している商談先を誰に任せる事になるのかとか、せっかく新規開拓した顧客を他人に任せるのは正直嫌だとか、そもそも産休明けにこれまで通りに仕事ができるのかとか、下手すれば現状復帰が難しいんじゃないかとか」
「だから沙織、ちょっと待て! 幾らなんでも、それは先走り過ぎだ!」
半ば呆れながら話を遮ってきた友之に、沙織は困り顔で溜め息を一つ吐いてから話を続けた。
「……そうなのよ。自分自身でも、結局妊娠していなかったのに、今の段階で何をゴチャゴチャと考えているんだろうと思ったわ。だけど診察後に考え始めたら堂々巡りが止まらなくなって、『ご気分が悪いですか?』と看護師さんに心配そうに声をかけられるまで、待合室の椅子に座ってたのよ」
そこまで話してから沙織が再び溜め息を吐くと、何とも言えない顔を見合わせた友之の、それが続いた。
「うん……、沙織が険しい表情でクリニックを出てきた事情は、今の話で良く分かった。俺の認識も甘かったのが、良く分かった」
「友之さんの認識?」
今度は沙織が意表を衝かれた顔になる中、友之は苦笑いしながら語り出した。
「事実婚にして職場に公表しなかったのは、今にして思えば良い選択だったなと思った」
「どうして?」
「暫くは公表しない事にしていたから、その間は子供は作らない事は暗黙の了解だったし。迂闊な事に、これまでそこら辺をきちんと話し合っていなかったなと、改めて思ったんだ。妊娠出産となると、圧倒的に負担になるのは沙織の方だから、せめて仕事に関してのフォローは俺の方がきちんと考えておくべきだろう」
「でもそれは、実際に妊娠が分かってからでも遅くは無いわよね?」
そんに気合いの入った表情で言う必要は無いのにと思いながら沙織が首を傾げると、友之が大真面目に応じる。
「実務上は確かにそうだろうが、心のどこかで『案ずるより産むが易しと言うし、どうにでもなるだろう』と楽観視していたと思う。妊娠していない段階で沙織がそこまで悩むとは、正直想定して無かった。結婚の事実を明らかにしていたら、あまり考えずにさっさと子供を作っていたかもしれない」
「そうね……。友之さんは一人っ子だし、基本的に子供が好きよね」
「確かに偶に顔を合わせると、従弟妹(いとこ)達を構い倒していたな」
これまで二人で出掛けた先で子供連れの夫婦に遭遇した場合、友之が小さな子供と目が合うと無意識に笑いかけ、例え子供が泣き叫んでいようが決して迷惑そうな顔をせず、寧ろ心配そうに見守っていたのを見ていた沙織は、納得しながら頷いた。そこで苦笑を深めた友之が、一気に緊張が解れたようにソファーの背もたれに背中を預けながら告げる。
「決めた。結婚の事実を明らかにするのはもう少し先にしても、産休時の業務引継ぎや復帰プログラムについて、社内規定をきちんと確認しておく。他の部署での運用規定も調べて、きちんと頭に入れておくからな」
「そんな、今からむきになって調べなくても……」
困ったように反論しかけた沙織に、友之が笑いながら問い返す。
「俺が察するに、沙織だって今から調べるつもりなんだろう? さっき『母親になる想定を、全くしてこなかった』と言及していたという事は、それについて反省をしているわけで、仕事の事に加えてそれらについての心構えをしておこうとか、きちんと産後や育児状況を把握しておこうとか思っているよな?」
「……何か、考えている事が全て見透かされているみたいで、ちょっと不愉快なんだけど」
「怒るな。だからお互い様だと言いたいだけだ」
「確かにお互い妊活の前に、やる事や考えなくちゃいけない事は色々あるでしょうね」
「そうだな」
難しい顔で溜め息を吐いた沙織だったが、友之は妙に清々しい顔で立ち上がった。
「よし、色々すっきりして気分が良いから、今日の昼飯は俺が作る。沙織はのんびりしていろ。さて、何か食材はあったかな……」
そう呟きながらリビングから出て行った友之を、沙織は呆気に取られて見送ってから我に返り、慌てて彼の後を追った。
「ちょっと待って。どうしていきなり? お義母さんがいない時は、私が作る事にしているし」
「それは母さんと沙織の間での取り決めであって、俺との取り決めじゃないよな? 安心しろ、これまでも母さんがいない時は、俺や父さんが自分達で作って食べていたから」
「料理を作れることは分かったけど、どうしていきなりお昼ご飯に話が飛ぶわけ?」
「これから家事育児も俺が分担する事になるだろうし、勘を鈍らせないように時々やっておかないといけないだろうが」
「だから絶対、話が飛び過ぎだと思う!」
沙織は多少食い下がったが友之はそれをあっさりいなし、結局二人で昼食を作って食べ終えてから、外出していた義則と真由美を、揃って笑顔で出迎えた。
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