(16)予想外の遭遇

「沙織、おはよう!」

 そろそろ職場に到着するというタイミングで、背後から駆け寄ってきた友人に声をかけられた沙織は、声で相手が分かった為驚かなかったものの、少々不思議そうに挨拶を返した。


「由良、おはよう。どうしたの? 随分機嫌が良いわね」

「だって念願の《愛でる会》会長の座を、漸く射止めたんだもの! これで私の恋愛運は、急上昇間違いなしよね!? 今年こそ、運命の出会いが待っている筈よ!」

 その気合いに満ちた表情と口調に、沙織は正直少し引いた。


「……凄く盛り上がっているわね」

「うん! お陰で仕事にもやる気が出ちゃって、毎日が楽しくて楽しくて仕方がないわ! それじゃあ、始業前に揃えておく書類があるからまたね!」

「そうね、今度またゆっくり……」

 目の前の社屋ビルに向かって突進していく由良を、沙織は引き攣った笑みで見送ってから、誰に言うともなく呟く。


「本当に、由良に出会いがあるのかしら? 本当にあったら、《愛でる会》会長の座が伝説になりそう……」

 そして溜め息を吐きながら、沙織はいつも通り社屋ビルのエントランスに足を踏み入れた。


 ※※※


「課長。今日は個人的に時間を割いて貰って、ありがとうございます」

 吉村に対しては色々と思うところがある友之だったが、間違っても業務中に私情を挟む事はせず、その日も彼の誘いを受け、仕事帰りに差し向かいで飲んでいた。そしてまず乾杯をしてから頭を下げた彼に、鷹揚に頷いてみせる。


「いや、入社して貰って三ヶ月が経過したから、そろそろ君と二人だけでじっくり話をしてみたいと思っていたんだ。今日は職場環境や業務内容について、君なりに気がついたところや改善点などあれば、遠慮なく言って欲しい」

「そうですか……。それでは改善点という程の事ではありませんが、幾つか提案があるのですが」

「ああ、言ってみてくれ」

 そこで吉村が真顔で語り出した内容に耳を傾けた友之は、話が一区切りついたところで納得して頷いた。


「なるほど……。やはりずっと松原工業にいると、却って気が付かない事もあるな。他に所属していたからこそ、気付く事もあるか。これからも何か気になる事があったら、遠慮なく指摘してくれ」

「はい、そうさせて貰います」

(確かに営業能力は申し分無いし、目の付け所も良いんだよな。これで田宮常務に繋がっていて、沙織に何やら含む所がなければ、手放しで良い部下ができたと喜ぶ所だが)

 どこか安堵した様子で吉村がグラスを傾け、友之も考え込みながら再び飲み始めると、少しして吉村が控え目に切り出してきた。


「ところで課長、関本の事ですが……」

 それを聞いた友之は、瞬時に気持ちを切り替えて警戒しながらも、傍目には何でもない様子で問い返す。


「うん? 関本がどうかしたのか?」

「何かの折りに誰かから聞いたと思いますが、確か彼女は子供の頃に父親を亡くしているとか」

「……そうらしいな。それが何か?」

「それで彼女はファザコンになって、同年輩の男には目もくれず、老け専なんですかね?」

「はぁあ?」

(こいつ、いきなり何を言ってるんだ? 冗談か?)

 思わず間抜けな声を上げ、まじまじと吉村を見返した友之だったが、相手がどう見ても真顔であった為、困惑しながら言葉を返した。


「ええと……、別に彼女は、これまで全く同年輩の男と付き合った事が無いというわけでは無いぞ? 以前に元カレがストーカー化して、勤務中に絡まれた事もあったし。課内の人間は全員知っている筈だが、その話は聞いていなかったか?」

「そう言う事があったんですか? それは驚きましたが、皆さんはそんなプライベートな事まで、ペラペラ喋る必要は無いと判断されたんですね。良識のある方々ばかりだと、再認識できました。本当にこちらに雇ってもらって幸運だったと思います」

「それなら良かった」

 にこやかに感想を述べた吉村に、友之も何とか笑顔で返したが、翔の事を思い出してしまった彼の機嫌は一気に下降した。


(不愉快な言動だけでなく、不愉快な事まで思い出させてくれるとは)

 しかしそれは八つ当たりだと自覚していた友之は、最後までひたすら平常心を保ち、吉村と笑顔で別れた。

一方で吉村は何となく沙織に関する話が引っかかり、友之と別れてからその足で、予め住所録で調べておいた沙織の住所として登録してあるマンションに向かった。


「さて……、課長と別れた後、話を出した勢いで何となくここまで来てしまったが。いきなりこんな遅くに訪問しても、上げて貰える筈も無いしな」

迷う事なく目的のマンションに到達し、吉村はエントランスまで入ってみたものの、時刻が時刻だけにインターオンで呼び出しなどせず、場所の確認だけ済ませる事にして集合ポストに目を向けた。


「確かに、関本の名前はあるな。しかしこのマンションの造りと部屋数から考えて、単身者向けの賃貸マンションでは無くて、ファミリー向けの分譲マンションだと思うが……。ここで聞いても、正直に答える筈もなし。今日は引き上げるか」

即座に判断して踵を返した吉村だったが、そのままマンションから出て行こうとしたところで、入れ違いに入口の自動ドアから入って来た男性を認めて驚愕した。


(え!? 今の男、例のホテルで関本と抱き合ってた奴だよな! どうしてこんな所に!?)

吉村は思わず足を止めたが、和洋は一瞬不審そうに彼を見やってから、何事も無かったようにその横をすり抜け、居住エリアに入る為の操作パネルの前に立った。そして吉村が唖然としていたのは一瞬だけで、すぐに頭の中で素早く考えを巡らせ、和洋に歩み寄って笑顔で声をかける。


「勝俣さん、こんな所でお会いできるとは奇遇ですね!! ご無沙汰しております!」

「はぁ?」

「お忘れですか? 去年便宜を図って頂いた、鹿取技工の白勢です! 勝俣さんには例の契約成立の折り、大変お世話になりました。改めてお礼申し上げます」

もし後で問題になっても、散々煮え湯を飲まされた上司の名前を出しておけば良いだろうとまで計算し、吉村は営業マンらしい愛想を振りまいて深々と頭を下げたが、当然面識など無い和洋は困惑しながら言葉を返した。


「いや、私は君を知らないし、勝俣という名前でも無いが。君の勘違いだろう」

「は? いえ、そんな筈は」

「くどい! 私の名前は一之瀬だし、我が社は鹿取技工などとは取引なども無い。失礼する」

「申し訳ありません。こちらの勘違いで、大変失礼致しました」

焦って頭を下げて謝罪する風を装いながら吉村が和洋の様子を窺うと、彼は当然のように誰かを呼び出して中から開けて貰うのではなく、持参した鍵と幾つかの番号を打ち込んで自ら自動ドアのロックを解除し、居住スペースに消えていった。


「へえぇ? 関本と同じマンションに、あのおっさんも住んでるのか? だが一之瀬なんて名前、郵便受けには無いよなぁ?」

念の為にもう一度全世帯の名前を確認してみたが、やはりそこに一之瀬の表記は無かった為、吉村は皮肉げに顔を歪めた。


「これは本当に、ひょっとするとひょっとするかも。今夜はついてたな」

そして吉村は、その日の収穫にすこぶる満足しながら自宅に帰って行った。


「全く。最近の若造は、取引先の人間の顔も覚えていないのか。そもそもこんな夜遅くに呼び止めるなど、礼儀を弁えん奴だ」

対する和洋は、吉村にとんでもない誤解をさせたなど夢にも思わず、無礼な若者に対する文句をひとしきり口にしながらマンションに入った。しかしその不機嫌な状態は、沙織に電話をかけるまでだった。


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