(12)二人の思案

(やっぱり今日は一日、微妙に緊張していたかな? 普通に仕事はしていたつもりだけど)

 終業時刻を少し過ぎてから席を立った沙織は軽い疲労感を覚え、本社ビルを出て少し歩いた所で足を止め、ゆっくり深呼吸をした。その間に追い付いた人物から、少々意外そうに声をかけられる。


「関本、お疲れ。こんな所で立ち止まってどうした?」

「汐見さん、お疲れ様です。ちょっと気分直しに深呼吸していただけですから。帰りが一緒になるのは珍しいですね」

「ああ、偶々見かけてな。いつもだったら声はかけないんだが、ちょっと意見を聞きたくなって。わざわざ電話する事でも無いんだが」

 そこまで話を聞いた沙織は、素早く両者が関わりがある業務内容を幾つか絞り出し、相手が言わんとする事を悟った。


「鎌田製作所への納期の件ですか?」

「ああ。大丈夫だとは思うが、若干の仕様変更があったから不安でな」

 そこで目線で、最寄り駅まで歩きながら話をしようと示された沙織は、彼と並んで歩き出しながら意見を述べた。


「やはりその件は、製品管理部ともう一度協議してから、先方に確約した方が良いと思います」

「そうなんだよなぁ……」

「私が聞いている以外に、何か面倒な事項でもあるんですか?」

 それから関連する他の検案事項にまで話を広げつつ、最寄り駅の改札を通り電車に乗り込んだ二人は、何駅か過ぎても議論を続けた。


「それは確かに、無視できませんね……。幾らかの値引き交渉には、応じる必要が」

「あ、引き止めて悪かった。後は明日以降、社で話そう」

「え? まだ良いですけど?」

 滑り込んだホームに書かれた駅名を見た汐見が、焦った様子で話を遮ってきた為、沙織は面食らいながら問い返した。すると彼が、彼女以上に怪訝な顔になりながら確認を入れる。


「あれ? 以前途中まで一緒に帰った時、お前、この駅で乗り換えてなかったか?」

 汐見が首を傾げると同時に発車ベルが鳴り響き、ドアが閉まって電車が動き出した。その車内で沙織は、僅かに狼狽しながら弁解する。


「っ! あ、あのですね! 今日は偶々、帰りに立ち寄る所があったもので! もう少し先まで行きますから!」

「ああ、そうだったのか。良かった。一瞬関本が、若年性痴呆症を発症したのかと思ったぞ」

「汐見さん?」

「悪い、冗談だ」

 カラカラと悪びれなく笑う彼を、沙織は軽く睨みつつも、密かに冷や汗を流した。


「それでは失礼します」

「ああ、それじゃあ、また明日」

 そして宣言通り、そこから三つ目の駅で降りて汐見と別れた沙織は、疲労感満載で反対方向の電車に乗った。


「どっと疲れた……。一応誤魔化す為に乗り越したから、戻らないと」

 万が一、友之が乗り換えの駅と同じだと察しが付いたら拙いかもとの判断から、一駅余計に乗り過ごした沙織は、本来の乗り換え駅まで戻り、別路線に乗り換えた。すると自宅最寄り駅に降り立ち、家に向かって歩き始めてからすぐに、走り寄る気配と共に訝しげな声がかけられる。

「沙織? どうしてここに? まさか同じ電車だったのか?」

 退社した時刻が十分以上は遅かった友之が不思議そうに尋ね、沙織は振り返りながら苦笑気味に応じた。


「ああ、友之さん。誰かと思いましたよ。後ろ姿だけで、良く分かりましたね?」

「当然だ。ところで、どこかで寄り道をしていたのか?」

「汐見さんと鎌田製作所の話をしながら電車に乗ったら、以前の乗り換え駅で降りなかったのを不審がられたので、ちょっと関係無い駅まで乗って、引き返して乗り換えたんです。友之さんと同じ乗り換え駅で乗り換えるのを見られたら、不審がられるかと思いまして」

 そんな事情説明をされた友之は、並んで歩きなが呆れ顔になった。


「そこまで気にする事は無いと思うが? 普段、どこに住んでいるかなんて、職場で殆ど話題に出ないだろう?」

「それはそうですけど、念の為です」

 そこで友之は、何やら物言いたげな表情で、沙織を見下ろした。


「ふぅん?」

「……何ですか?」

 軽く片眉を上げながら見上げた沙織に、友之が真顔で言い出す。

「せっかく結婚したのに、新婚ほやほやなのを周囲にアピールできないのは、結構ストレスが溜まる」

 それを聞いた沙織が、意外そうに問い返した。


「アピールしたいんですか?」

「大いに」

「結婚して出社一日目なんですけど……。その理由を聞かせて貰いたいですね」

 全く思い当たる節が無かった沙織だったが、友之の口から出た台詞は、意外過ぎる内容だった。


「佐々木が『関本先輩の為に、頑張って合コンの企画をする』と陰で活動中だ。サプライズだから、沙織には秘密にしているらしい」

「佐々木君……、まさか課内で公言してるんですか?」

 思わず項垂れた沙織だったが、友之は更に容赦の無い事を付け加えてくる。


「それで、人妻に合コンを設定しようとはいい度胸だとちょっと苛ついたので、合コンをセッティングできない位、あいつに仕事を詰め込んでやろうかと」

「ちょっと、友之さん! それ、公私混同のパワハラだから!」

「思ったが、公私混同の極みだと踏みとどまったので、沙織から彼に、重々道理を言い聞かせてやって欲しい」

 慌てて台詞を遮りながら翻意を促した沙織に、友之は大真面目に要請し、沙織も真顔で頷く。


「確かに承りました。責任を持って、彼を説得します」

「宜しく」

 そしてお互いにクスッと笑いを零してからは、苦笑いでいつもの調子で話し出した。


「だけど周囲に関係を秘密にしていると、そういう事もありますね。じゃあ友之さんも、誘われる可能性はありますよね?」

「……怒るぞ?」

「可能性はあると言っただけで、ほいほい出るとは言ってませんよ? そこら辺は信用してますから」

「そうか」

 一瞬怒りかけたものの、事も無げに沙織に返されて、友之はすぐに怒りを静めた。しかし沙織が続けて、容赦の無い事を口にする。


「女性関係ではちゃんと一回、手痛い目に合ってますからね。あれで学習していなかったら、単なるお馬鹿さんです」

「本当に沙織は、俺を浮上させて落とすのが得意だよな……」

「え? 今のは一般論のつもりだったんですけど?」

「……もういい」

 キョトンとした顔で自分を見上げてきた沙織に、悪意は無かったのを見て取った友之は、深い溜め息を吐いた。そして無言になった彼を見て、今度は沙織が小さく溜め息を吐いてから、右手に持っていた鞄を左手に持ち替えた。そして空いている彼の左腕に自分の右腕を絡めつつ、手を繋いで歩き出す。


「私より年上なんだから、拗ねないでくださいよ。もう、しょうがないですね」

 そんな事を言いながら、いきなり手を繋いできた沙織に、友之が少々驚きながら尋ねる。


「……構わないのか?」

「もう家の近くですし、私達の顔を知っている社員は歩いていませんよ」

「確かにそうだな」

 それから、傍目には機嫌良く沙織の話に相槌を打ちながら歩いていた友之は、苦笑しながら密かに考え込んだ。


(本当に、沙織には振り回されっ放しだな。逆に言えば、沙織以上に俺を振り回した女はいなかったって事だが)

 そこで必然的に、振り回された他の女の事まで思い出してしまった彼は、無意識に眉根を寄せる。


(不愉快な事まで思い出した。あの女、野垂れ死ぬまではいかなくても、二度と視界に入らない程度には遠ざかってくれれば良いが……。念の為、清人さんが定期的に調べさせている筈だから、必要なら追い討ちをかけておくか)

 そんな物騒な事を考えていると、沙織が足を止めた為、彼も必然的に足を止めた。


「友之さん、着きましたよ? 急に黙って、どうしたんですか?」

「あ、ああ。いや、何でもない。ちょっと考え事をしていただけだ」

「それなら入りますよ?」

 困惑気味に見上げてきた沙織に慌てて笑いかけると、彼女は一瞬不思議そうな顔になったものの、すぐに手を離して門を開けて敷地内に入った。


(もう俺は独り身じゃないしな。万が一、沙織の迷惑になったり、負担をかけるわけにはいかない)

 温もりが消えた事を残念に思いながら、その左手を握り締めた友之は、密かにそんな事を決意しつつ、自宅の門を抜けて中に入った。

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