(11)極秘結婚の弊害

「おはようございます」

 月曜の朝。エプロン片手にスーツ姿で、颯爽とダイニングキッチンに姿を現した沙織を見て、真由美は苦笑気味に挨拶を返した。


「おはよう、沙織さん。もっとゆっくりしていても良いのに」

「一応こっちは平社員ですし、友之さんより早く出社するつもりですから」

「沙織さんは真面目ね」

「いえ、これ位当然です。それで取り敢えず、何をすれば良いですか?」

 このやり取りの間に、脱いだ上着を椅子の背もたれにかけ、手早くエプロンを身に着けた彼女に、真由美は遠慮無く手伝いを頼んだ。


「テーブルに、このお皿とお箸を並べてね。箸置きはもう置いてあるから」

「分かりました」

「ぐずぐずしている男どもなんか放っておいて、沙織さんは食べてしまいなさい。一人分だけ先に、ご飯とお味噌汁をよそってあげるから」

「ありがとうございます。そうさせて貰います」

 沙織も遠慮無く、必要な物を揃えた後は出された物を食べ始め、真由美が彼女の食べる速度を見計らって食後のお茶を淹れ始めた段階で、友之がその場に現れた。


「おはよう」

「おはようございます。先に頂いてますね」

「何もそんなに急いで食べる事は無いだろう?」

 少々憮然としながら友之が口にすると、お茶を淹れ終わった真由美が沙織に湯飲みを運んで来ながら、笑顔で告げる。


「沙織さんは真面目だから、課長のあなたより早く出社するのですって。社員の鏡よね?」

「…………」

 それに何も言い返せなかった友之は黙り込み、沙織は出して貰ったぬるめのお茶を飲み干して立ち上がった。


「ごちそうさまでした。朝から一件、外に出る用件があるので、それの準備の為にもう行きますね」

「あら、沙織さん。片付けるのは私がするわよ?」

「いえ、作って貰ったのに、これ位は当然ですから」

 さくさくと片付けるのは沙織の性分らしく、食べ終えた食器を流しに運び、エプロンを脱いでから歯磨きを済ませた彼女は、元通り上着を着て鞄片手に玄関に向かった。


「社長、行ってきます」

「ああ、行ってらっしゃい」

 下りてきた義則と廊下で遭遇した彼女は、軽く一礼して玄関から出て行き、彼は彼女のきびきびした動作を感心しながら見送った。


「沙織さんは早いな。それに『お義父さん』ではなく『社長』と言われたし、早くも仕事モードなのか?」

 ダイニングキッチンに足を踏み入れるなり義則が息子に尋ねると、友之が答える前に真由美が笑いながら教える。


「そうかもね。それで置いてけぼりを食らった友之が、ちょっと拗ねているのよ」

「ほう?」

 父親に笑いを含んだ視線を向けられた友之は、それから微妙に視線を逸らしつつ、朝食を食べ進めた。


「別に、拗ねているわけじゃない」

「ほら、拗ねているわよね?」

「確かに拗ねているな」

「……ごちそうさま」

 そこで食べ終えて立ち上がった友之は、両親のくすくす笑いを背に受けながら出かける事になった。

 そんな友之より一足先に出社した沙織は、これまでと変わらない態度で、周囲と朝の挨拶を交わした。


「おはようございます」

「おう、おはよう、関本」

(良し。平常心、平常心。これまで通り課長とも、普通に受け答えするからね)

 自分の席で仕事の準備をしながら密かに気合いを入れていると、主だった面々が揃った頃、友之が出社してくる。


「おはよう」

「あ、課長。おはようございます」

 傍目にはいつも通りの挨拶をしてくる友之に、沙織も周囲の同僚達と同様に何食わぬ顔で挨拶を返し、その日の業務は何の異常もなく開始された。


「竹本、このスケジュール案で良いと思う。このまま進めてくれ」

 提出された書類に目を通した友之が相手に返すと、竹本はそれを受け取りながらついでのように話題に出した。


「分かりました。それと、今年の忘年会の幹事は俺になりましたので場所や日程を調整中ですが、来月二十日前後に考えています。課長のご都合は大丈夫ですか?」

「その辺りは出張も無いし、休みを入れる予定も無い。他の皆も、覚えている限りでは、休みの人間はいないと思うが」

「ええ。あからさまに困った顔をされたのは、佐々木位ですね」

「佐々木は何か用事があったのか? 忘年会への参加を、無理強いしなくても良いと思うが」

 部下の大まかなスケジュールを頭の中に思い浮かべた友之は、竹本の台詞に引っかかりを覚えて軽く釘を刺してみた。するとそれに、苦笑いでの答えが返ってくる。


「いえ、それが……、その頃に関本の為に合コンを開催する腹積もりだったそうで。本当にあいつ、最近シスコンのベクトルを、益々変な方向に暴走させていますよね?」

「……そうだな」

 笑いをかみ殺しながら同意を求めてきた竹本に、友之は顔が引き攣りそうになりながらも、何とか相槌を打った。


「この前なんか、『もう先輩が、赤の他人に思えなくて。先輩が縁付けば、姉ちゃんにも春がくるような気がするんです!』と真顔で主張していましたよ」

「仕事に支障を来すようなら、上司として指導するべきだろうが……」

「課長がわざわざ注意しなくとも、その前に俺達がきちんと窘めますから。幸い、佐々木は多少困った奴ですが基本的には真面目ですから、仕事を疎かにはしてませんし。……あ、この話は関本には内密に。合コンの話は本人には内緒にして、驚かせたいとか言っているので」

「分かった。それでは他に話が無ければ戻って良いぞ?」

「はい、失礼します」

 軽く会釈して竹本は自分の席に戻り、友之も中断していた仕事を再開したが、内心では少々腹を立てていた。


(佐々木に、悪気は無いのは分かっている。分かってはいるんだがな……)

 周囲の席の誰もが気が付かなかった事だが、その時偶々友之が手にしていたボールペンが、不吉な軋む音を立てた。

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