(19)最後の一押し

 友之から告げられた、プロポーズへの回答期限を明後日に控えた日。

 沙織は職場近くのレストランでランチを食べていたが、フォークで巻き取ったパスタを険しい表情で凝視しているのを見て、一緒に食べに来ていた由良が呆れ顔で声をかけた。


「ねえ、沙織。最近ちょっと変じゃない? 食事の最中に、何を難しい顔で考え込んでるのよ。『幾ら嫌な事があっても、気分良く食べないと胃もたれする』とか言ったのは、誰だったっけ?」

 それで我に返った沙織は、顔を上げて素直に謝った。


「ああ……、うん、ごめん。でも、不愉快な事を考えていたわけじゃないから。ちょっと期限が迫っている事があってね」

「大変ね。納期とか締切が迫っている仕事でもあるの?」

「えっと……、明後日? でも向こうはそれを過ぎても、延長戦に持ち込む気満々だけど」

「延長戦? 何それ?」

 まさか友之からプロポーズされたなどとは言えず、曖昧に笑って誤魔化そうとした沙織だったが、彼女がうっかり漏らした言葉に由良が怪訝な顔をする。


「えっと……、今のは言葉のあやだから、気にしないで」

「そう? あ、仕事と言えば、最近営業二課が大きな仕事を取ったって聞いたんだけど」

 そこで由良が別な話題を持ち出した為、安堵した沙織はそれに便乗した。


「それ、手越マテリアルの話よね? 取引額から言えばもっと高額な取引相手は存在しているけど、あそことは今まで全く取引が無かったから、ライバル社の一つ片桐精機の牙城の一角を崩したって、上層部が喜んでいるらしいわ」

「そうなんだ。本当に松原課長って凄いよね」

 惚れ惚れとした口調と表情でコメントしてから、上機嫌に食べ進める由良を見て、沙織は思わず尋ねてみた。


「由良、ちょっと聞いて良い?」

「うん、何?」

「松原課長が結婚したら、どう思う?」

 その途端、由良は勢い良く皿にナイフとフォークを置き、顔を強張らせながら問い質してくる。


「ちょっと沙織! いきなり藪から棒に、何を言い出すの! 最近付き合ってる女の話を聞かないと思ったら、実は陰で付き合ってた女と結婚間近とか言わないわよね!?」

 サクッと真実を言い当てられた沙織は、盛大に顔を引き攣らせながらも、しらを切り通した。


「例えばの話よ、例えば。そんな事は無いって」

「もう……。いきなり変な事を言って、脅かさないでよ」

「悪かったわ」

(うん、二重の意味でごめん、由良)

 渋面になって文句を言ってくる友人に対して、沙織が良心の呵責を覚えていると、冷静さを取り戻した由良が、真顔で考え込みながら再び口を開いた。


「そうねぇ……、この場合、結婚相手にもよるかな? 松原課長に相応しい相手だったら祝福するけど、そうでなかったら文句をつけるかも。でも松原課長が選ぶ相手が、そんなに変な人なわけ無いと思うし」

 そこで沙織は、思わず小声で突っ込みを入れた。


「……若い頃は、変な女に入れあげたけどね」

「沙織。今、何か言った?」

「独り言だから気にしないで。それより課長に相応しい人って、どんな人だと思う?」

 さり気なく誤魔化しながら質問を続けると、由良は困惑しながら考えを述べた。


「改めて聞かれると、難しいわね。そうね……、沙織とかだと、結構お似合いだと思うけど?」

 唐突に言われたその台詞に、沙織が何とか強張った笑顔で応じる。

「……ありがとう。でも私って、あまり可愛げとか無いけど」

「可愛げ? 可愛げねぇ……。そんな物無くたって生きていけるし、人間関係は築けるものじゃないの?」

「それはそうかもしれないけど……」

 由良がそこで疑わしげに言い出し、沙織が口ごもった。すると由良が、うんざりした口調で話し始める。


「職場に、来月寿退社する後輩がいるんだけど、口を開けば『今、最高に幸せです』とか『お互いを全部丸ごと愛してます』とか世迷い言をほざいて、毎日ウザくてね」

「『世迷い言』って、由良。ちょっと言い過ぎじゃない?」

「あんな風に幸せ一杯感をアピールしたり、自分達は愛し合ってるんです感を醸し出すのが可愛げだとしたら、私、可愛げが無いって言われても構わないわ」

「そう?」

「うん、だって私のキャラじゃないし、疲れるし。第一、今が最高に幸せだって言うなら、後は落ちるだけよ」

 端的に切り捨てた由良を、沙織は溜め息を吐いてから宥める。


「それも極端な気がするけど。その幸せを維持するように、努力すれば良いんじゃないの?」

「お互い全く不満も欠点も無しに、一生ずっと過ごせるとか、私に言わせれば幻想よ。彼女は幸せに目がくらんで、足下が見えなくなっているとしか思えないわ。ある程度目に見える欠点や不安を許容しつつ、それでも前向きに考えるなら話は分かるけど、幸せ気分が抜けて現実に直面したら、彼女、どうするのかしらね」

「……辛辣ね」

「まあ、こういう事を口にすると、『僻んでいる』とか言われるに決まっているから、沙織の前位でしか言わないけど。……あれ? そう言えば、何の話をしていたんだっけ?」

 大幅に話が逸れた事に気が付いた由良に問われた沙織は、恐る恐るそれに答えた。


「その……、私に可愛げが無いと思うと言った事から、今の話に繋がったと思うけど……」

「そうだったわね。だから別に、幸せ一杯アピールしなくとも、沙織だったら冷え切った仮面夫婦とは違う、クールで何事にも動じない夫婦になれると思うのよ。これまではそういう相手に巡り会っていなかっただけで、これから出会う可能性はあるんじゃない?」

「そうかもね……」

 それからはこれまで喋っていた分、二人とも食べる事に専念したが、そろそろ食べ終わる頃になって、この間密かに考え込んでいた沙織が声をかけた。


「ねえ、由良」

「何?」

「私、由良とは、一生友達でいたいと思ってる」

 さり気なく願望を口にしてみた沙織だったが、対する由良は手を止めて、如何にも不思議そうに問い返した。


「え? 何でそういう事を言うの?」

「何でって……」

「だって一生、友達でいるんじゃないの? 私達の間に、何か仲違いする要素ってあったっけ?」

 さも当然と言わんばかりの口調で告げた後は、軽く首を傾げた由良を見て、沙織は軽く目を見開いてから、照れ臭そうに彼女から視線を逸らした。


「……ちょっと照れる」

「はぁ? 今の台詞のどこが?」

「そこまで好かれているとは、正直思って無かったから」

「そんなに感動する事なの? 沙織の感性って、時々良く分からないわね」

 肩を竦められた沙織は苦笑いし、休憩時間が残り少なくなってきた事もあって、急いで食事を食べ終えた。


(どういう形になるか分からないし、いつ、どういう状況下で説明する事になるかもわからないけど……。由良にはいつか、きちんと友之さんとの事を説明しよう)

 そんな事を考えながら、妙にすっきりした気分で社屋ビルに戻った沙織は、エレベーターで上がる途中で由良と別れ、営業部が入るフロアに降り立った。そして廊下を歩き始めると、向こうから外出する友之が、鞄を手に歩いて来るのに遭遇する。


「課長、ご苦労様です」

「ああ、行ってくる」

 そこまではいつもの上司と部下の関係でのやり取りだったが、すれ違いざま沙織が小声で呼びかけた。


「そう言えば、友之さん」

「関本、今は勤務時間内で」

「結婚しても良いですよ?」

「……え?」

「目指せ、クールでストイックで最先端な夫婦、って事です」

 反射的に振り返り、素早く周囲に目を配りながら声を潜めて窘めようとした友之だったが、沙織から予想外の事を言われて咄嗟に反応できずに固まった。そんな彼を真顔で見上げた沙織は、軽く会釈しただけで再び職場に向かって歩き出す。


「商談、頑張ってきてください」

「あ……、おい、沙、関本!?」

 うっかり「沙織」と呼びかけて、人目がある事に気が付いて踏みとどまった友之は、この場で詳細を問い質す事が時間的にも無理だと素早く判断した。

 そんな彼は、背中を向けたまま軽く右手を振りつつ遠ざかって行く沙織を見送って溜め息を吐き、気持ちを切り替えてから当初の予定通り、エレベーターに向かって歩き出した。


「沙織、今日の“あれ”は一体何だ?」

 その日の夜、帰宅して夕飯を食べ終わった時間帯にかかってきた電話に出た沙織は、挨拶抜きで問い詰められて、多少気分を害した。


「勿論、例の申し出についての、返事に決まっています。一応、返答の期限には二日早いですけど、遅れた訳ではないから構いませんよね?」

 しかし友之はそれで納得せず、慎重に言葉を継いだ。


「一応尋ねるが……。『冗談だ』とか、『気の迷いだ』とか、『やっぱり嫌だ』とか言い出さないよな?」

 さすがにそこまで言われて、沙織は憮然としながら言い返す。


「女に、二言はありません。どうしてそんなに、疑い深くなっているんですか?」

「沙織が素直に一度で了承するとは、正直、思っていなかった」

 それを聞いた沙織のこめかみに、青筋が浮かんだ。


「……本気で怒りますよ? この間、色々考えた結果なのに」

「あ、いや……、それは本当に悪かった。謝る」

「もう良いですけど」

 そのまま電話越しに微妙に気まずい沈黙が漂い、沙織は怒りを鎮めるために、何回か深呼吸をした。するとそこで、友之が口を開く。


「ある意味、予想外ではあったが嬉しいな。沙織、宜しく頼む」

 落ち着いた口調ながら、その声にははっきりと分かる程度に嬉しさが滲み出ており、それを耳にした沙織は自然に顔を緩めた。


「こちらこそ、宜しくお願いします。これから色々面倒くさいし、大変でしょうけど」

「それはそうだろうが、沙織とだったらどうにでもなると思う。年を取ってもお前に振り回されながら、笑って過ごしている自信があるしな」

「何ですか、その根拠の無い自信は?」

 最初、照れくささを誤魔化す為に笑っていた沙織は、友之の台詞に本気で笑い出し、これから発生するであろう面倒な事柄など全く考えずに、暫くの間純粋に彼との会話を楽しんでいた。

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