(16)予想外の接触

「普通『返事は1ヶ月待つ』とか言ったら、その間はアプローチしてこないものじゃないの? それなのに堂々と『軽く夕飯を食べてから、ビリヤードをしに行かないか』とか、誘って来るって……」

 日曜日の午後。沙織は自宅マンションで出かける支度をしながら、不満げに独り言を呟いていた。


「それは確かに拙くはないかもしれないけど、こっちは色々と考えてるって言うのに向こうは平然としてるのって、何だか釈然としないわ。それはまあ……、催促されるよりは良いけど」

 そんな中でスマホの着信音が鳴り響き、それを取り上げた彼女は、そのディスプレイに浮かび上がった意外な名前に軽く目を見張った。


「……お母さん?」

 普段は滅多に向こうから連絡を寄越さない、佳代子からの電話に、沙織は一体何事かと軽く動揺しながら応答する。


「もしもし? 沙織だけど、お母さん、どうかしたの?」

「今、ちょっと良いかしら? 都合が悪いなら、かけ直すけど」

「ううん、大丈夫よ。何か急用?」

「急用ではないけど、何日か前に柚希さんがメールしてきたのよ。『近々沙織さんから、報告か相談があると思いますから、取り敢えず最後まで話を聞いてあげて貰えますか』って。それで日曜の午後だったら、比較的余裕を持って話せるかと思ったものだから」

「ああ……、そういう事。良く分かったわ」

(お母さんの気遣いは微妙だけど、柚希さんの気遣いも微妙かも……)

 経過は納得したものの、如何にも何かあると言う状況を知らせてしまうのはどうなのかと、沙織は溜め息を吐きたくなった。すると佳代子が、全く予想外の事を口にしてくる。


「それで? まさかとは思うけど、あなた、豊に借金を申し込んだとか、借金の連帯保証人を頼みに行ったとか、そういう話じゃないわよね?」

「するわけ無いでしょ!? どうして借金云々の話になるのよ!」

「それなら、結婚でもするの?」

「…………」

 思わず声を荒げた沙織だったが、続けて鋭く切り込まれて口ごもった。


「沙織? どうかしたの?」

「……どうして一足飛びに、結婚云々の話になるわけ?」

 質問の答えとは微妙にずれた内容を口にした沙織だったが、佳代子は平然と話を続けた。


「あなたが自分の仕事や人間関係に関して私に相談するとは思えないし、現に今までに一度もされた事が無いもの」

「それは確かにそうだけど。いきなり的確に突いてくるって……」

「本当に結婚話みたいね。さっきのは半分、冗談だったんだけど」

「…………」

 淡々と告げられた言葉に、沙織は無言のまま肩を落として項垂れた。しかし相手もそのまま黙っている為、気合いを振り絞って話を再開する。


「お母さんの冗談は殆ど分からないし、殆どの人が笑えないから止めて欲しい」

「随分な言われようね。でもまあ、好きになさい」

「え? 好きにしなさいって、何が?」

「結婚。したければするし、したくなければしなければ良いだけの話よね」

 突き放すようにも聞こえるその台詞に、沙織は憮然としながら応えた。


「何か、あっさりし過ぎていない? 普通はもう少し、話を聞いてからコメントするものじゃないの?」

「豊はともかく沙織の事は、真っ当な判断力を保持している人間に育てたつもりよ。三十にもなって、自分の人生に対して責任を持てないとか、判断を下す事ができないとか、ふざけた事は言わないわよね?」

 相変わらず冷静に言い聞かされた沙織は、精神的な疲労を覚えながら、思わず突っ込みを入れた。


「お母さん……。自分の子育てに自信を持っているのと、私を信頼してくれているのは理解できたけど……。私、まだ二十八なんだけど?」

「大の大人が、細かい事を気にするのは止めなさい」

「因みに、私の誕生日って覚えてる?」

「……ところで、結婚が持ち上がっている相手は、豊の披露宴会場のホテルで遭遇した、松原とかいう人の息子なの?」

 僅かな沈黙の後、さり気なく話題を変えてきた母に、沙織は完全に抵抗する気を失った。


(露骨に誤魔化された……。良いけどね、口でお母さんに勝てる筈はないし。家を出てからは、特に祝って貰ってないし。それにしても……)

 佳代子が唐突に名前を出してきた為、沙織は少々驚きながら話を進めた。


「実はそうだけど、どうして分かったの? あの時は単に挨拶だけで、特に踏み込んだ話はしなかったわよね?」

「単なる母親の勘よ」

「……そうですか」

「相手にとって、不足は無さそうね。世間知らずの奥様然としていて、あれで結構、信念と根性はあると見たわ」

「ちょっと!? 今、何だかもの凄く、不穏な台詞が聞こえたんだけど!?」

 やっぱり母親には敵わないかもと思っていた矢先、とても聞き流せない台詞が耳に飛び込んできた為、沙織は慌てて問いただした。しかし佳代子は、それまでとは全く変わらない調子で話を続ける。


「気のせいよ。本決まりになったら、詳細について教えて頂戴。それから薫が五月蠅いだろうから、あの子に話すのは、その連絡がきてからにするわね」

「……私としても、そうしてくれると助かるわ」

「やっぱりしないって事になったら、別に連絡は要らないから」

「…………そうね」

 母の台詞に一応頷いたものの、沙織は微妙な顔になった。すると電話越しに娘の様子を察したのか、佳代子が意味ありげな呟きを漏らす。


「ふぅん? 珍しいこと……」

「何?」

「何でもないわ」

 素っ気なく言われて何なんだと不満に思いながらも、ここで沙織はある事を思い出した。


「あ、そうだ。話が決まったら、和洋さんと豊にも」

「あのろくでなしどもには、微塵も関係が無いわよ!!」

「はい……、すみません」

「それじゃあ、話は終わったから切るわよ」

「うん、分かった。それじゃあね」

 怒声で声を遮られ、憤然とした口調で会話の終了を告げられた沙織は、おとなしくそれに従った。そして無音になったスマホを耳から離しながら、溜め息を吐く。


「柚希さんが言った通り、あれでも本当に、今でも好きな事は好きなのかしら?」

 その疑問に答えてくれる者などその場に存在せず、沙織は気を取り直して再び外出の支度を始めた。


「でもねぇ……。結婚するとなったら同居が前提みたいだし、そうなるとここを出なくちゃいけないから、ジョニーにも会えなくなるのよね」

 友之との待ち合わせ場所に向かう為、自宅に鍵をかけて出かけた沙織だったが、ふと引っ越す事に関するリスクが頭の中に浮かんで、悶々と悩み始めた。


「友之さんに面と向かって、こんな事は言えないけどね。猫と天秤にかけられて、気分がいい人はいないと思うし」

 そんな事を呟きながらマンションのエントランスを抜けた沙織は、歩道を歩き出しながら不思議そうに近辺を見回す。


「でも本当にジョニーって、どこで暮らしているのかしら。うちには偶にしか来ないし、ちゃんと誰かから餌を貰っていると思うんだけど……」

「なぅ、にゃ~ん!」

 そこで突然前方から響いて来た鳴き声に、沙織が慌てて視線を向けると、横道から出て来たと思われるジョニーが、立ち止まって自分を見ている事が分かった。


「……ジョニー!? 何てタイムリーな!」

「アレク、どうしたの? お友達の猫でもいたの?」

「うなぁ~ん!」

「え?」

 そこで不思議そうに呼びかける声と共に、曲がり角の向こうから一人の老婦人が現れ、ジョニーと沙織を交互に見て首を傾げる。対する沙織は意外過ぎる展開に、思わず目を見開いて固まっていた。

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