(6)ちょっとした罪悪感
沙織が友之と共に、伊豆に泊まりに行った翌週。
孝男は宣言通り静江を連れて、都内の松原邸にやって来た。そしてその影響は、松原工業内で無視できないレベルの物だった。
「おい、知ってるか? 何だか一昨日から、前社長が社内に顔を出しているみたいだが」
仕事の合間に近くの席で囁かれた噂話に、沙織は一瞬手を止めて反応したが、すぐに素知らぬ顔で仕事を続行した。
「知っていると言うか、実際に廊下ですれ違った。何かもの凄く、機嫌が良さそうだったぞ?」
「そうなのか?」
「だけどどうして、この時期に前社長が顔を見せるんだ?」
「そうだよな。決算でも、株主総会の時期でも無いのに……」
同僚達が不思議そうに囁き合う中、一番最初に話を切り出した只野が、一層声を潜めながら告げる。
「それが噂では、前社長は上層部の面々と立て続けに面談して、社の経営方針に付いて色々と意見交換しているそうなんだ」
「意見交換って……、何についてだよ。現社長に社長の椅子を譲り渡してから今まで、前社長が口を挟んできた事は、特に無いよな?」
「それがどうやら、“あれ”についてらしいんだ。小型工作機械の後継機開発を、継続するか否かって奴」
それを聞いた周囲は、本気で驚いた顔になった。
「え? それって確か、課長が朝永さん達に指示して、資料を纏めさせておいたやつですよね?」
「前社長は、課長のお祖父さんですよね? 形勢不利な課長が、頼んだんでしょうか?」
ここで思わず口を挟んだ佐々木だったが、忽ち先輩達から小声で叱責される羽目になった。
「佐々木、あまり馬鹿な事を言うな!」
「課長が、そんなセコい真似をするわけ無いだろ!」
「偶々タイミング良く前社長が出向いて、偶々話題に上った事柄を、集中的に議論しているだけじゃないのか?」
「すみません。ですが絶対他の部署の連中は、そう思いませんよね?」
素直に頭を下げつつも、そんな懸念を口にした佐々木を、朝永はそれ以上叱りつけたりはしなかった。
「確かにそうだろうな。だからお前達、この事に関してよその奴らに絡まれても、ムキになって反論するなよ? 適当に聞き流しておけ」
「分かりました」
「暫くゴタゴタしそうですね」
そこで話に区切りが付き、各自再び自分の仕事に没頭し始めたが、一部始終を聞くともなしに聞いてしまった沙織は、頭を抱えたくなった。
(本当に“たかちゃん”は、現役時代を彷彿とさせる行動力を発揮してくれているみたいね。何、その裏工作っぷり。私に逐一、予定を知らせてくれているけど、この三日間で社内の主だった反対派と日和見派の上層部殆どと、個別に面談しているし)
事が大きくなり過ぎた為、沙織は盛大に溜め息を吐きながら、今夜の予定を思い返した。
(今日は静江さんのリクエストに応えて、定時で上がってホテルで待ち合わせて、ナイトプールか……。午後からの管理部会議が相当紛糾しそうなのに、こんなお気楽な事で良いのかしら?)
そんな事をぼんやりと考えていると、ちょうど時間になったらしく、友之が席から立ち上がりながら周囲に声をかけた。
「それじゃあ、これから会議に行ってくる」
「お疲れ様です」
必要な物を手にして歩き出した彼を、課内全員が同情の眼差しで見送る。
「なんだか課長の背中、微妙に哀愁が漂ってたな……」
「仕方ないだろう。出席者全員から、前社長を引っ張り出した黒幕だと、疑惑の眼差しを向けられるのが確実だし」
「そりゃあ誰だって、気が重くなるさ」
「俺だったらパス」
「本当に、勘弁して欲しいですよね。先輩」
「……え? な、何?」
唐突に話を振られた沙織が面食らうと、佐々木が不思議そうに再度問いかけた。
「ですから、いわれのない疑惑の目で見られて、課長は気の毒だと思いませんか?」
「あ、ああ……、そうね。言われてみれば気の毒ね」
動揺して、取って付けたような物言いになってしまった沙織だったが、それを聞いた佐々木が悲しげな表情になる。
「……先輩が冷たい。課長が、益々気の毒に思えてきた」
「ちょっと佐々木君? 人を、冷血人間みたいな言い方は止めてくれる?」
「おい、お前達。何を騒いでる。ちゃんと仕事をしろ」
「はい!」
「すみません!」
そこで朝永から注意されてしまった二人は、慌てて仕事を再開した。
結局、殆どの者の予想通り管理部会議はかなり紛糾しているらしく、沙織は定時になっても戻って来ない友之を気にしつつ、予定通り仕事を終わらせて待ち合わせ場所へと向かった。
「静江さん、真由美さん、お待たせしました」
ホテルのロビーに入って、ソファーに座って話し込んでいた二人に声をかけると、彼女達は笑顔で立ち上がりながら答える。
「良いのよ。お仕事帰りに、同行をお願いしたのだし」
「寧ろ、待ち合わせ時間をもう少し遅めにするべきだったかと、話していたところなの」
「それは大丈夫です。それでは早速、行きましょうか」
「ええ、凄く楽しみにしていたのよ」
そして傍目には女三代の組み合わせで、沙織達はホテル内を歩き始めた。
「うわぁ、綺麗ねぇ……。ネットで見た写真以上だわ!」
「お昼だと暑過ぎて、外に出る気も失せるもの。やっぱりこれ位がちょうど良いわよ」
「本当にそうね。だけど見事に若い人ばかりだわ」
「さすがにおばあさんだけだと、入るのを躊躇うわね。沙織さんの都合がついて良かったわ」
更衣室で水着に着替えた三人が屋外のプールに移動し、周囲を見回した静江が沙織を振り返りながら嬉しそうに口にしたところで、真由美がそれに噛み付いた。
「ちょっと待って、お母さん。まさか私まで『おばあさん』で括られてはいないわよね?」
「あら、十分おばあさんじゃない」
「冗談じゃないわよ! お母さんなら、十分おばあさんだけど!」
そこで突然論争が勃発したのを回避するべく、沙織は慌てて幻想的なイルミネーションやライトアップが施されているプールを指さしながら提案した。
「あのっ、静江さん真由美さん! あの光るボールとか持って、写真を撮りませんか? 大きめのフロートもありますので、のんびり浮かぶのも良いですよね? 夜景も綺麗ですし!」
それを聞いた二人が、忽ち笑顔になって機嫌よく応じる。
「そうね、せっかくだから撮って貰おうかしら」
「男連中は仕事中だから、後から見せてあげましょうね」
(本当に、こんなにのんびりしちゃってて良いのかしら……)
それから沙織はどこか遠い目をしつつ、二人に付き合ってプールでのひと時を過ごした。
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