(32)驚愕の撃退方法

 出勤は友之に伴われ、退社は義則の車に同乗させて貰うようになってから、沙織は翔に遭遇する事は皆無だったが、営業の仕事で社外に出る事も多い為、今現在彼女と組んで仕事を覚えている最中の佐々木は、友之から密かにある策を伝授されていた。そんな彼が沙織と共に外回りから戻り、社屋ビルが見えてきた所で、機嫌良く話し出す。


「関本先輩。最近出社時にも退社時にも、例のヒモ野郎には絡まれていないんですよね? 課長が一緒に出社してますし」

「そうね。課長が一度脅かしたから、怖じ気づいて近寄れないんじゃないかしら。だけど『ヒモ野郎』って……。何か違うと思うし、私怨が入っていない?」

「それより先輩、そろそろ会社です。出て来る時は遭遇しませんでしたから、今回は来るかもしれませんね。さあ、来るなら来い、ヒモ野郎!」

 何やら妙にやる気満々で力強く叫んだ佐々木を見て、沙織は頭痛を覚えた。


「だからちょっと待って、佐々木君」

「先輩、任せて下さい。ちゃんと課長からヒモ野郎の撃退策も、しっかり伝授されています。やっぱりできる男は違いますね!」

「佐々木君、本当に性格変わっちゃったわね! 人の話を全然聞かないし!」

 半ば愚痴っぽい叫びを上げた沙織だったが、ここでいきなり背後から右腕を掴まれた。


「やっと捕まえたぞ、沙織。お前、いつどうやって会社を出てんだよ? 朝はあの暴力男が引っ付いてるし、一体どうなってんだ?」

「……あんたも本当に懲りないわね」

 心底うんざりしながら沙織が振り返ったが、翔も苛立ちながら横柄に言い放った。


「おい、さっさと連絡先を教えろよ。俺に何度無駄足を」

「この世から消え失せろ、ヒモ野郎! 俺が天に代わって成敗してくれる!」

「あ? 何ほざい、はぁあ?」

「ちょっ、佐々木君!? 何やってるの! 早まらないで!」

 しかしここで佐々木が鞄を歩道に投げ捨て、十分な長さの刃渡りのナイフをどこからか取り出し、それをまっすぐ翔に向けながら、鬼気迫る形相で叫んだ。それを見た翔は勿論、沙織も顔色を変えて制止したが、佐々木は両手で握っているナイフを突き出しながら、翔目掛けて突進してくる。


「天誅!!」

「うわあぁぁっ! 何しやがる!」

「このっ! ヒモ野郎のくせに、生意気なぁぁっ!」

「ヒモ野郎って、何だよ!?」

 慌てて沙織の腕から手を離し、逃げようとした翔だったが、突っ込んで来た佐々木の腕を咄嗟に掴んで揉み合いになった。しかし何故かすぐに佐々木が悲鳴を上げ、歩道に崩れ落ちて仰向けに倒れる。


「ぐわあぁぁっ!! やられたぁぁっ!!」

「え? えぇえっ!! 佐々木君!?」

「おっ、おいっ!! 俺は何もしてねぇぞ!?」

 仰向けに倒れた彼の胸には、佐々木が手にしていたナイフが深々と刺さっており、それを防ごうとしたのか、彼は片手でその柄の根元を握っていた。その刺さっている周囲には瞬く間に赤い染みが広がっていき、動転しきった沙織が周囲に響き渡る声で絶叫した。


「きゃあぁぁーっ!! 人殺しーっ!! あんた、私の後輩に何てことするのよっ!?」

「し、知らねえっ!! 俺は知らねえぞっ!! 知らねえからなっ!!」

 同様に真っ青になった翔が無関係を主張しながら、泡を食って駆け去って行くのにも気が付かないまま、沙織は震える手でスマホを取り出して通報しようとした。


「けっ、警察! じゃなくて救急車! あ、勿論、警察もだけど! ああっ! 番号は111じゃなくて、999でも無くて!!」

「どうした!」

「大丈夫ですか!?」

 倒れている佐々木と、パニクっている沙織の周囲に、顔色を変えて通行人が集まって来たが、今までピクリともしなかった佐々木がここでいきなり上半身を起こし、周囲に笑顔を振り撒いた。


「はい、カーット! お疲れ様でした!」

「へ? さ、佐々木君!?」

「はい?」

「何?」

 その手に先程胸に刺さったと思われていたナイフを持ち、唖然とする周囲に向かって、佐々木は社屋ビルとは反対側を手で指し示しながら声を張り上げた。


「皆様、大変お騒がせしました! 向こうにカメラが設置してありますので、宜しければ笑顔で手を振って下さい!」

「何だ、撮影かよ……。人騒がせな」

「え? カメラ? どこどこ?」

 周囲の者達が呆れて立ち去ったり、興味津々で該当する方向に目を向けている隙に、佐々木は素早く放置していた鞄を手にし、沙織の手を引いて勢い良く社屋ビル目指して駆け出す。


「さあ、関本先輩。今のうちに行きますよ!」

「行きますよって、佐々木君!? その血は何なの!?」

 そしてすれ違う全ての者達から驚愕の眼差しを受けつつ、二人は無事、職場へと戻った。 


 その日、夕食を食べながら、真由美が不埒者と遭遇していないかを何気なく尋ねてきた為、沙織は帰社した時の騒動を正直に語って聞かせた。

「まあぁ……」

「……それで?」

 真由美は目を丸くし、義則は口元を押さえて肩を震わせながら話の続きを促すと、沙織は一見冷静に話を続けた。


「上着の胸元に盛大に血糊を付けたまま、佐々木君は私を引っ張って社屋ビルに飛びこんでくれました……。おかげですれ違う社員全員に、悉くドン引きされて……。松原さん! 社でも言いましたけど、佐々木君に何て事を吹き込んでるんですか!? スーツのクリーニング代を出すとか言っても、やって良い事と悪い事がありますよね!?」

 説明しているうちに、色々我慢できなくなったのか、沙織が怒りの形相で友之に向き直って責め立てると、彼は神妙に自分の非を認めた。


「ああ……、方法を指示したのも許可したのも俺だから、全面的に俺が悪いが……。まさか佐々木が、あそこまでノリノリでやるとは……」

「一見血塗れのスーツで、本当に良い笑顔で意気揚々と帰って行きましたよね!? 帰り道でどれだけの人間を驚愕させたのかと考えると、本当に居たたまれないんですが?」

「そっ、それは相当、周囲に驚かれただろうな! うちの社内では死体が歩いていると、噂が立つかもしれん! 是非直に見たかったな、この次は呼んでくれ! うわははははっ!」

「…………」

 義則が堪え切れずに爆笑し、沙織が友之に白い目を向ける中、真由美が息子に問いかけた。


「友之、それってあなたが考えたの?」

「いや、準備の進行状況を尋ねる為に、清人さんに電話したら、『準備が整うまでにろくでなしと遭遇する可能性があるから、言う通り準備しておけ』と……」

 誰とも視線を合わせないようにしながら、友之がぼそぼそと弁解まじりに口にすると、真由美からは感嘆の、沙織からは疑念に満ちた呟きが漏れる。


「やっぱりね。さすがは清人君だわ」

「その方に、奴への対応をお任せして、本当に大丈夫なんでしょうか? 今日以上の騒ぎになったりしませんよね?」

「……多分な」

 相変わらず微妙に沙織から視線を逸らしながら応じた友之を見て、真由美が突っ込みを入れる。


「友之、自分でも信じていないような顔で言うのは、止めた方が良いわよ?」

「…………」

 それを聞いた友之は押し黙り、沙織は(全く同感だわ)と思いながら溜め息を吐いて食べ進めた。

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