(31)動揺

「松原さん、お風呂空きましたのでどうぞ」

「ああ、分かった。今入るから」

 夕食時に入浴の順番を確認しておいた沙織は、入浴後に客間に戻る途中で、友之の部屋に寄って声をかけた。すると何やら机に向かっていた彼が、その声に応じながら立ち上がったのを確認した沙織は、元通りドアを閉めて客間へと向かった。そして戻る早々、翌日の準備を始めたが、ここである事に気が付く。


「あ、しまった……。時計、置き忘れて来ちゃった」

 思い返した沙織は、入浴する前に外したそれを洗面台の棚に置いた事を思い出し、ちょっと考え込んだ。


(さっき声をかけた時から少し時間が経ってるし、松原さんはもうお風呂に入ってるよね? 後にしたら忘れそうだし、明日の朝慌てないように、今のうちに持って来ておこう)

 そう即決した沙織は、すぐさま浴室に向かった。そして全く疑いもせずに脱衣所のドアを開けると、とっくに浴室に入っていると思い込んでいた友之が、勢い良くVネックのTシャツを脱いでいる場面に遭遇する。


「……は?」

 物音と人の気配を感じた彼が、完全にシャツを頭から脱いでから視線を向けると、まともに沙織と目が合った。対する彼女はすこぶる冷静に、出入り口の所で頭を下げて謝罪してくる。


「あ……、失礼しました。もう浴室に入った後かと思い込んでいまして、今のうちに忘れ物を回収しておこうかと」

 それを聞いてピンときた彼は、先程視界の隅に入れていた腕時計を指さした。

「ひょっとして、あれか?」

「はい」

「ちょっと待ってろ」

 素直に彼女が頷いた為、友之は手を伸ばしてそれを取り、何歩か歩いて彼女の前まで移動した。


「ほら、持って行け」

「すみません。ありがとうございます。それにしても松原さん、キックボクシングをされていただけあって、いい身体をしてますね」

 腕時計を受け取りながら、大真面目に言い出した沙織に、それまで無表情だった友之の顔が微妙に引き攣った。


「……いきなり何を言い出す」

「予想外に着替えを覗いてしまいましたので、謝罪に加えて誉め言葉を言っておこうかと思いまして」

 全く動揺を見せずにそんな事を言い出した彼女を見て、思わず友之は脱力しながら言葉を返した。


「別に世辞は言わなくて良いぞ?」

「いえいえ、お世辞抜きで、本当に程良く筋肉が付いて、引き締まった良い身体だと思いますよ? 思わず抱き付いて、撫で回したくなる身体です」

 そこまで言われた友之は、つい悪戯心が疼いた。


「そうか、それは光栄だ。そこまで言うなら、一つ抱き付いてみるか?」

「そうですか? それなら遠慮無く、失礼します」

「え?」

 てっきり沙織が慌てて固辞するか、笑って誤魔化すかと思っていた友之は、当然の如くしっかり背中に両手を回しながら抱き付かれて固まった。しかし友之の動揺などなんのその。沙織は密着した体勢のまま、彼の背中や胸に手を回して冷静に評していく。


「あ、やっぱりぶにぶにしてなくて、程良く硬くて良いですね。マッチョまでいくと、硬すぎて弾かれそうですし」

 ついでに軽く鎖骨周りに頬擦りしてみながら口にすると、斜め上から呻くような声が降ってきた。


「関本……」

「はい、何でしょうか?」

 思わず顔を上げると、友之は片手で口元を押さえながら、あらぬ方に視線を投げていた。


「確かに、からかった俺が悪いんだがな? どうしてくれるんだ……」

「はい、どうしてって」

「友之。ひょっとしたらボディーソープが切れかけていたかも……」

 そこでいきなり開け放ったままのドアの向こうから、真由美が詰め替え容器を手にして現れ、二人の姿を見て固まった。その事態に沙織がまだ抱き付いたまま、反射的に報告する。


「あ、さっき使った時は、まだ結構あった感じでしたが」

「そうなの? そこの棚が他の物で一杯で、詰め替えを他の所にしまっておいたから、一応持って来たのよ。友之、必要なら詰め替えてね」

「ああ」

 同じく反射的に友之は空いていた手を伸ばし、差し出されたそれを受け取る。それと同時に真由美は姿を消したが、バタバタと廊下を走って行く音に続いて、彼女の興奮した声が響いてきた。


「あなた、あなた! 沙織さんって、草食系かと思ったら、肉食系だったみたいよ! 凄いわ、入浴時に襲うなんて私には無理! やっぱり、今時の人は違うわね!?」

 それを耳にした沙織は、微妙に友之から視線を逸らしながら身体を離し、深々と頭を下げた。


「……すみません。なにやら真由美さんに、あらぬ誤解をさせてしまったみたいです」

「どちらかと言うと、困るのはお前の方だと思うがな。どうして本当に抱き付く?」

「抱き付かなかったら、『抱きつきたい位』云々の台詞が、心にも無いお世辞という事になりそうでしたので」

 真顔で見上げながらそう主張してきた沙織に、友之は色々言いたい言葉を飲み込んだ。


「うん……、分かった。関本には変な所で冗談が通じないし、偶に予想の斜め上の反応をするのを、すっかり忘れていた俺が悪い。取り敢えず風呂に入りたいから、出て行って貰っていいか?」

「重ね重ね失礼しました。どうぞごゆっくり」

 再度恭しく頭を下げてから、沙織は廊下に出て静かにドアを閉めた。


「本当に、勘弁してくれ……」

 それを確認した友之は、ドアの横の壁に手を付きながら、愚痴めいた呟きを漏らした。

 一方の沙織は、傍目には平然と客間に向かって歩いて行ったが、戻ったドアを閉めるなり一人で発狂した。


「うっ、うわあぁぁぁっ! 何やってんの、何やってんの、私!? 着替えの真っ最中に乗り込んで、抱き付いて撫で回すなんて、どっからどう見ても痴女だよね!? 課長が紳士じゃなかったら、どつかれてるよね!? 通報ものだよね!? 由良に知られたら、マジ殺される!!」

 頭を両手で抱えながら、支離滅裂な事を叫んだ沙織は、勢い良くベッドにうつ伏せに倒れ込みながら悶えた。


「今、絶対、顔が真っ赤! 耳まで赤くなってる! 鏡見なくても分かるぅぅっ! どうしてくれるの! いや、どうにかするのはあんたでしょ!?」

 そこまで叫んでから、幾らか自制心を取り戻した沙織は、真面目な顔で考え込んだ。


「やっぱり、あれかしら? あの馬鹿は論外として、この一年位男とはご無沙汰だったし、知らず知らずのうちに溜まっていた欲求不満が、一気に噴出したとか? 拙い……、万が一にも酔った勢いで、社長宅で社長令息を押し倒すような暴挙に及んだら、即、解雇一直線じゃない。このご時世、再就職なんかままならないし、路頭に迷いかねないわよ……」

 真っ赤な顔から一転、真っ青になった沙織だったが、ふと傍らの時計で時刻を確認した彼女は、素早く気持ちを切り替えた。


「沙織、平常心よ、平常心。取り敢えず、もうすぐ時間だから寝よう」

 つい先程まで狼狽しまくっていたとは思えない様子で、沙織は十分な睡眠を取るべく、淡々と寝る支度を始めた。



「松原さん、おはようございます」

 翌朝、着替えた友之がダイニングキッチンに足を踏み入れると、沙織が真由美を手伝いながら爽やかに声をかけてきた。それに微妙に顔を引き攣らせながら、友之が答える。


「……ああ、おはよう。今日も早いな」

「はい、いつも通り、自然に六時に目が覚めましたので」

「そうか……。爽やかな目覚めで、何よりだな」

 その微妙に恨みがましい声音に、沙織が首を傾げた。


「松原さんは寝不足ですか?」

「……ちょっとな。仕事に支障は無いが」

「体調管理も仕事のうちですから。気を付けて下さいね」

「ああ」

 さらりと言われた内容に、友之は疲れたように頷きながら、大人しく椅子に座った。


「それでは行ってきます」

「はい、行ってらっしゃい」

 出かける二人を見送ってダイニングキッチンに戻って来た真由美は、未だ食事中の夫に向かい、唐突に話しかけた。


「ねえ、あなた。私、沙織さんの事、気に入っちゃったわ」

「ほう? 随分入れ込んだな。何かあったのか?」

 確かに来た時から好感度は高かったが、どういう理由だと義則が尋ねてみると、彼女は笑顔のまま話を続けた。


「昨日と今日、彼女に朝食の支度を手伝って貰ったんだけど、真澄ちゃんと清香ちゃんが泊まりに来た場合と、全然違うのよ」

「どんな風に?」

「真澄ちゃんはね、何もしないで、おとなしく椅子に座って待っているの。自分が何か下手に手を出すと、台所が惨状になると理解しているから」

 それを聞いた義則は、実家の状況を思い返し、遠い目をしながら頷く。


「ああ……、俺の実家では住み込みの使用人も居るし、義姉さんは真澄ちゃんに家事なんかさせてなかったからな」

「それで清香ちゃんは、くるくると良く動いてくれるんだけど、他人の台所だから勝手が違うから、一つ何かする毎に『次はどうしますか?』ってお伺いを立ててくるの」

「それが普通じゃないのか? それなら、関本さんはどうしているんだ?」

 疑問に思いながら義則が問い返し、それに彼女が満足そうに答える。


「出ている食材や調理中の物を見て、『こちらを切っても良いですか?』とか『こちらはこの小鉢に取り分けても良いですか?』と、具体的に尋ねてくるの。そして、その一つ一つが的確でね。次に私がしようと考ていた事をしてくれたり、使う器具や食器を、口にする前に出したり揃えてたりしてくれるのよ」

 それを聞いた彼は、真顔になって感想を述べた。


「……ほう? それはそれは。やはり彼女の観察力は素晴らしいな。頭の働きも悪くないらしい」

「昨日脱衣場で友之に抱き付いていたのは、ちょっとした行き違いだって、朝に顔を合わせるなり弁解していたけど、この際酔った勢いでも何でも良いから、沙織さんが友之を押し倒してくれないかしらね? そうしたら責任を取って貰う意味で、懲戒解雇の上で友之と結婚して貰うのに」

 いきなり笑顔で、そんな支離滅裂な事を言い出した妻を、義則は慌てて窘めた。


「ちょっと待て。今の台詞、色々とおかしいだろう? 友之が押し倒される筈がないし、懲戒解雇の上結婚って、罰なのかご褒美なのか訳が分からんぞ」

「そこは社長権限でなんとか」

「全然意味が分からん! どんな得体が知れないブラック企業だ!!」

 そこで悲鳴を上げた義則を見て真由美は堪え切れずに笑い出し、朝から妻にからかわれたと悟った彼は、それからは苦笑いで朝食を食べ終え、出社の準備を始めた。

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