(30)沙織の交友関係
「それでは行って来ます」
「行ってらっしゃい。それから友之。不埒なストーカー男なんか、徹底的に痛めつけて撃退しなきゃ駄目よ?」
「正当防衛が認められる程度にするさ」
まだのんびりと食事中の義則を残し、二人は真由美に見送られて松原家の玄関を出たが、門から道に出て駅に向かって歩き出しながら、友之が申し訳なさそうに言い出した。
「朝から騒々しくてすまないな。それに早く起きて、母さんを手伝っていたみたいだが、無理はしなくて良いぞ?」
それを聞いた沙織が、歩みを止めないまま冷静に答える。
「いえ、大丈夫です。長年の習慣で、アラーム無しでも自然に六時に覚めますので」
「習慣? どんな?」
「二十三時就寝、六時起床です」
それを聞いた彼は、一瞬何かを言いかけて口を噤んでから、穏当な表現でコメントした。
「……健康的だな」
「何だか微妙に、馬鹿にされた気がするんですが。『子供みたいだな』とか、正直に言っても良いですよ?」
「そんな事は思っていないが」
「人間の三大欲求に、睡眠欲はばっちり入っていますし。セックスはしなくても日常生活に支障はありませんし、最低限の栄養と水でも人間は暫く生きられますが、全く睡眠を取らない状況下だと、忽ち精神や身体機能に影響が出ると言う学説も」
「分かった、分かったから」
このままだと睡眠の重要性を懇々と説教されかねないと感じた友之は、慌てて彼女の話を遮った。すると沙織が、思い出したように微妙に話題を変えて言い出す。
「そういえば、客間のベッドがセミダブルで助かりました。私、寝ている間に盛大に寝返りを打つので」
「それは寝相が悪いと言うことか?」
「ある意味、健康的ですよ?」
思わず口を挟んでしまった友之に、沙織が大真面目に返す。そこで何気なく考え込んだ友之は、恐る恐る問いを発した。
「プライベートな上、かなり無粋な事を聞いてしまうが……、男と一緒に寝た時に、文句を言われなかったのか?」
「一緒になんか寝ませんよ。同じベッドに寝られたら、変に生暖かくて落ち着きませんから。二十三時までに帰宅できるように帰ったり、ホテルを出てました」
「…………」
真顔でそんな事を語った沙織の顔を、友之はしげしげと眺めていたが、そんな彼に沙織が些か気分を害した様に問いかけた。
「何ですか? 変な顔をして」
それを聞いた之が、以前耳にした内容を思い返しながら問い返す。
「この前、男との交際期間の最長記録が、三ヶ月と言っていなかったか?」
「そうですが。それが何か?」
「俺は今……、その三ヶ月保った男に、心からの尊敬の念と憐憫の情を覚えた」
「どうしてそんな残念な物を見るような目で、見られなくちゃならないんですか!」
盛大に溜め息を吐いた友之が、彼女の顔をどこか憐れむような表情で見下ろしながら告げると、当然納得できなかった沙織が盛大に噛みついた。
そこで沙織の男性遍歴に関しての話題は終了し、それからは仕事に関する話や世間話をしながら職場へと向かった二人だったが、社屋ビル近くの最寄り駅に降り立ち、地上に出て歩き出してすぐ、背後から近寄って来た人物に声をかけられた。
「おはよう、沙織。今日も清々しい朝だよね?」
「あ、おはよう、由良」
「と、爽やかに挨拶するとでも思ってんの? どうしてあんたが、松原課長と一緒に通勤してんのよっ!?」
声のした方を振り返るなり、肩を掴まれて憤怒の形相で由良に恫喝された沙織だったが、その問いに平然と答えた。
「一昨日から以前の男にストーカーされて、そいつを回避する為に、昨日から課長の家に居候しているから」
「はぁ!? ストーカーに同居って、何よそれ!!」
さすがに驚いた由良を促して再び歩き出した沙織は、彼女に二日前からの一部始終を語って聞かせた。その間、友之は彼女達のすぐ背後を歩きながら周囲に目を配っていたが、さすがに昨日の今日で連続で押しかける気は無かったのか、はたまた友之が付き添っている為に警戒しているのか、翔の姿は認められなかった。
「あんたって……。一見隙が無さそうに見えて、意外にボカスカ抜けてるのね……。本当に大丈夫なの?」
一通り聞き終えた由良が心配そうに尋ねると、沙織がチラッと背後に目を向けながら彼女を落ち着かせる様に言い聞かせる。
「近いうちに何とかなる筈だから。取り敢えず課長が、手を打ってくれているし」
「そうか、それなら大丈夫だとは思うけど……。でも、油断しちゃ駄目だからね! あんた営業だから外に出る機会も多いんだし、必ず誰かと一緒にいなきゃ駄目よ?」
「分かったから、そう興奮しないで」
沙織は血相を変えて訴える友人を閉口しながら宥めたが、由良はどんどん話を進めた。
「よし、業務開始前に《愛でる会》のLINEに書き込もう。松原課長、そんなろくでなし野郎、会社の付近で見かけた瞬間に通報してやりますので、顔写真とかありませんか?」
真剣な顔付きでそう申し出た由良に、沙織は本気で呆れたが、友之は冷静に返した。
「ちょっと由良、即通報だなんて大袈裟な」
「画像はあるから、君のアドレスを教えてくれるかな? 後からデータを送る」
「ですから課長も」
「アドレス……」
「どうかしたのか?」
しかし自分の申し出を聞いた由良が、瞬きをして固まったのを見て、友之は不思議そうに問い返した。すると彼女が握った拳を震わせつつ、無念極まりない声で言い出す。
「松原課長のメルアド……。正直、それは喉から手が出るほど知りたいですが、知ったら最後、他の人間に拡散させずにいられる自信がありません! ですので課長からのメールを直に受信するのは、涙を飲んで諦めます! 意志薄弱な人間で、大変申し訳ございません!!」
「……そうか」
涙目でそう訴えてきた、ある意味変人に見える由良に、(やっぱり関本の交友関係は一味違う)と友之が妙に納得していると、彼女は勢い良く沙織に向き直り、語気強く迫った。
「だから沙織! 後であんたから、私に画像データを寄越して頂戴!」
「うん……、分かった」
「それじゃあ、仕事を始める前に色々やる事ができたから、先に行くわね!」
そう断りを入れると同時に、由良は職場に向かって勢い良く走り出し、二人は呆然とそれを見送った。
「……仲が良いな」
他に何とも言いようがなく、友之がそんな感想を述べると、沙織も微妙な表情になりながら説明した。
「これまでに、色々ありまして……。なんだか私の然自若とした所が安心できるらしく、愛でる会の面々からは、度々悩み事や愚痴を聞かされています。不動の安定感で、話しているうちに落ち着くそうです」
「お前はカウンセラーか?」
「名誉アドバイザーの称号を貰っています」
「……そうか」
からかい半分だったのに大真面目に返された友之は、それ以上何も言えずにそのまま職場へと向かった。
その日の夜、義則の車に同乗させて貰って三人で松原家に戻り、夕食を食べ始めてすぐに、沙織は彼から不思議そうに尋ねられた。
「そう言えば、関本さん。今日の午後、秘書課の新見さんと廊下ですれ違った時に、君の事をよろしく頼むと言われたよ。詳しく聞かなかったが、彼女と接点があるのかい? その時は素直に頷いたものの、所属課も年齢も違うだろうから、後から疑問に思ってね」
それを聞いた沙織は、神妙に答えた。
「はぁ……。その、新見さんは最近代替わりした《松原課長を密かに愛でる会》の三代目会長ですから。私はそこの、純粋な意味での会員ではありませんが、名誉アドバイザーの名称を頂いてます。
「は? それはどんな会なのかな?」
「不必要に騒ぎ立てず、自らと周囲の統制を取りつつ、松原さんの活躍を陰から見守りエールを送るという、文字通りの、松原工業内での松原さん非公認のファンクラブです」
怪訝な顔になった義則に、沙織が懇切丁寧に説明すると、彼は話の途中から顔を歪めて、口元を手で覆った。
「非公認……、ファンクラッ……」
「父さん……。笑いたければ笑って良いぞ」
「ぶわははははっ!! 社内にそんな物が存在していたのか、今の今まで知らなかったぞ! モテまくってるな、友之!!」
「五月蠅いから」
くぐもった笑いを漏らした父親に、友之が嫌そうに声をかけると、義則は盛大に笑い出した。それを見た沙織が(社長ってやっぱり笑い上戸なのね)と再認識していると、真由美が不思議そうに尋ねてくる。
「沙織さんは、どうしてそのファンクラブの会員じゃないの? 友之って、そんなに魅力が無い?」
そう問われた沙織は、真顔で考え込んでから正直に述べた。
「魅力が無いわけではありませんが、何と言っても同じ職場の上司ですので。日々、松原さんの優秀さと魅力を、目の当たりにしていますから。『密かに愛でる』という会の主旨とは、相容れないかと思います」
「たっ、確かに、密かには無理だよなぁぁっ!!」
それを聞いた義則は更に爆笑したが、真由美は大真面目に頷いた。
「ああ……、なるほど。身近過ぎると、逆に食指が動かないというわけね。残念だわ」
「あの真由美さん……。『食指』ってなんですか?」
「あ、何でもないの。気にしないでね?」
「はぁ……」
満面の笑顔の真由美に対し、沙織が曖昧に頷く。そして未だに笑い続けている父親を憮然として眺めながら、友之は夕食を食べ進めた。
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