第七話 本音
どこを見ても、顔、顔、顔で埋め尽くされている。大勢の観客というものが、こんなに圧倒的な光景だとは知らなかった。
俺はここに、あたりまえのように立っている。
進行役である司会の男が、なにか早口で喋りながら手を挙げた。瞬間、急に会場が暗くなり、強烈なスポットライトを浴びせられて目がくらんだ。
よく見ると、光の中にはパーカーのフードを深く被った、背の高い男が立っている。
すぐに誰だか分かった。
フードの男はだぼだぼのジーンズの裾を引きずりながら、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
俺の目の前で立ち止まりフードを取り払うと、観客たちから激しいブーイングの嵐が巻き起こった。中から現れたのは下川くんだ。飛んでくる罵声を気に
じりじりと距離を詰めて睨み合う、俺と下川くん。司会が俺たちの間をうろうろと歩き回るが、いっさい目を離すことなく互いを睨み続けた。
この光景は映画で見たことがある。おそらくこれは、ラップの上手さを競い合う、即興のラップバトルだろう。観客たちは、今か今かと待ちわびているに違いない。
開始の合図が出されると同時に
リズミカルにアクセントをつけて、身振り手振りを交えながら、俺たちはあたりまえのように言葉をぶつけていく。交互に止まることなく攻撃し合っていたが、しばらくしてふと、下川くんの滑舌が乱れた。
「どうした<
俺はすかさず挑発した。彼は一瞬動揺した表情を見せながらも、ひたむきに言葉を並べていく。
すると制限時間がきたのか、鳴っていた音楽がぴたりと止んだ。
だが俺は観客たちの気を引くために、ここぞとばかりに一歩前へ出る。そして、再び言葉を吐き出し始めた。
「なっ……ここで、アカペラ!?」
度肝を抜かれたような口調で、下川くんはうわずった声をあげた。
そんな俺の突然の行動に、最初は少し戸惑った様子が観客たちから伝わってきたが、一人、また一人と徐々に
そう、この感覚だ。脳と身体を繋ぐケーブルが誤作動を起こして、それぞれ独立して動いているような。頭の中がふわっと真っ白になり、言葉が無意識に口から出てくるのだ。俺の声で、観客たちが楽しそうに笑っている。リズムに乗りながら踊っている。なんて気持ちがいいんだろう。
それからほどなくして、司会が止めに入るように俺と観客たちに手のひらを向けた。終了の合図である。
しんと静まり返った会場内に、俺たちの荒い呼吸音だけが響く。司会が俺の名前を口にした瞬間、わーっと一斉に歓声が沸き起こった。俺の勝ちだ。
「はぁ、はぁ……さすがです、
下川くんは大きく息を切らしながら、ふらふらとした足取りで手を差し出してくる。そのままがくっと膝を折りそうになる彼の手を、俺はがっちり掴んで引っ張り上げた。
「下川くんも、やるねー。正直、今回はちょっと危なかったわ」
「はは、またそんなこと言って」
互いの手のひらは汗でじっとりと濡れているが、それすらも俺は心地よく思えた。
「いやいやマジだって。後半とか、すげぇひやひやしたもん」
「……今回も完敗ですよ、僕」
そう言って彼は、真っ赤な顔で苦しそうに笑う。
「まぁ、なんつーかさ、最後までよく俺に食らいついてこれたなって。一気に成長したな、下川くん」
「
「その若さですげぇ早さだよ、マジで」
俺たちは互いに目を離さなかった。それは試合前の険しいものではなく、とても穏やかなものだ。
「ありがとう、ございます」
下川くんはようやく、その端正な顔を満足そうにほころばせた。
「……なぁ、下川くん」
「はい?」
「せっかくイケメンの部類なんだからさ、もっとそういう風に笑えよ、いつも」
「え、いや、そういうのはちょっと……」
「モテるぞー、俺みたいに。まぁ見てな」
俺は観客たちに目配せすると、ステージに置いてあるスピーカーの上に立った。
「今日は、たくさん集まってくれてありがとな。お前ら、マジで最高だぜ!」
そう言ってにこっと笑って見せた。すると再び大きな歓声が上がり、俺は手を振ってそれに応えていく。
「ほら、な?」
振り返ると、下川くんは尊敬のまなざしで俺を見つめていた。
「すごい……あぁ、
観客たちも、みんな俺に見とれている。その中には
後ろのほうでは数年前のバンドメンバーと、いつかのさえないバンドマンたちが、揃いもそろって悔しそうに
「うっし。じゃあ今日はパーっと、
「え、あの、僕ああいうお店はちょっと――」
「バカ、最近すっげー可愛い子入ったんだよ!」
気の進まなそうな下川くんの肩に、自分の肩を勢いよく押し付けた。
まだ鳴り止まない歓声に包まれたステージをあとにして、俺たちは控え室の楽屋へと向かう。
「ついでに、ナンバーワンツーも席に呼ぼうぜ。ボトルはたくさんあるから、まぁ好きなの飲めよ」
「あの、
「ん?」
「僕のラップで、何かアドバイスはありますか?」
不意に足を止め、真剣な表情で下川くんが言う。
「あー、そうだな……まだ棒読み感がちょっと気になるから、もっと緩急をつけられるようにしていこう。な?」
「はい! ありがとうございます」
彼はいつもこうして、あれこれと色んなアドバイスを求めてくる。そして心底嬉しそうに礼を言うと、いつも俺のあとをついてくるのだ。
楽屋に着くとドアの前で、
「
そして飛びつくように俺に抱きついてくると、人目もはばからず頬をすり寄せてくる。これもいつものことだ。
「おいおいよせって、こんなとこで」
「もうね、超超ちょーっ、カッコよかった!」
「……あの、僕、邪魔ですよね。すみません」
そんな俺たちの様子を横で見ていた下川くんが、居たたまれなさそうに頭をぺこぺこと下げている。
「そーそー。ちゃんと空気読んでよね、シモカワくん」
「こらこら、
むくれている
「お前ら、今度はもっとでっけぇ会場に連れてってやるからさ。楽しみにしてろよ、な?」
「きゃー! んもー、だから
「どこまでもついていきます、
そんな話で盛り上がりながら、楽屋のドアを開けて半分中に入りかけたところで、突然、場面転換する。
暗くてはっきりとは見えないが、なんとなく見たことのある場所に俺は立っていた。
どこからか車のクラクションがけたたましく鳴り響き、その音の出どころを探すようにあたりを見回す。ひしめきあうようにして街を埋める人々の気配。遠くから聞こえるサイレンの音。
バイトに向かう途中の道ではないだろうか。ここからもう少し先に進むと駅、スーパーがあって、すぐにバイト先のコンビニが見えてくるはずだ。
それより、いままでとんでもなく場違いな世界にいたように思う。単なる喧嘩ではなく、それこそ格闘技のような正式な会場で、俺は誰かとひたすら殴り合っていた。さらには、その相手が下川だったような気がする。
そこからどうやってここへ来たのかが思い出せない。夢でも見ているのだろうとも思ったが、酒を飲んだことだけはなんとなく覚えているのだ。つかめそうでつかめない、頭の片隅に引っかかっている記憶。その中で見た光景が現実だったのだろうか。そもそも現実とはなんだ。なぜいつまでも、俺はここに立っているんだ。
ふと視線を落とした先に、ぎょっとして見
これは人で、それもおぞましい何かだと、本能がとっさに警報を出した。おそるおそる近づこうとするが、どういうわけか身体が思うように動かない。
〝おい誰か――誰かいねぇのか〟
感じていた身体の違和感が、今度は強烈なものになる。
〝おい、おい! こいつ死んじまうぞ、誰か!〟
声が出ない。出ているのかもしれないが、喉から絞り出すような音しか聞こえないのだ。
〝おいってば!! 誰もいねぇのかよ。誰か、誰か……誰か助けてくれよ〟
大声で叫んでみても、もつれてしまったような舌が空気をかすめていくだけだ。もはや違和感どころではなく、恐怖で気が動転してわけがわからなかった。
〝――
せめて、名前だけでもいいから呼ばせてほしい。
〝
それだけを願いながら何度も喉を絞り出したが、ついには一言も喋ることができなかった。
何か見えない重力で引っ張られているみたいに、自分の身体がここからどんどん離れていく。本当の景色から遠ざかっていくような気がした。もう、どうすることもできない。
〝
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