episode2

 目を覚ますと、そこは見慣れたベッドの上だった。

「夢だったのか」

 身体中に急速に安堵が広がり、思わず仰向けになったまま、「うーん」と声に出して伸びをした。

 寝間着代わりのTシャツが汗でぐっしょりと濡れている。不思議なことに心臓の鼓動は平常だったが、通信機のボタンが思い通りに押せないイヤな感触は妙にリアルに残っている。

 そういえば、小学校ぐらいの頃、オレは宇宙飛行士になりたかったんだったな。地球から一番近い銀河のアンドロメダでさえ、光の速度で230万年もかかる距離にある。そんな宇宙の気が遠くなるようなスケールに圧倒され、憧れたっけ。

 だが、ほとんどの少年がそうであるように、やがてオレも音楽や女の子に夢中になって、いつしか宇宙飛行士のことは忘れていった。

 そしてオレは今、証券会社で働くトレーダーだ。10万、20万を儲けた損したと騒ぐケチな個人のオンライン投資家とは違う。大口の法人顧客から預かった大金や会社の自己資金をぶん回して、一日に何十億というカネを動かし、莫大な利益を叩き出す。

 自分で言うのもなんだが、オレは今の会社で間違いなくトップトレーダーだ。周りの連中が怖気付いて手を出せない局面でも、オレは冷静に売買して利益を上げることができた。だからオレの年俸は、普通のサラリーマンが聞いたらビックリして飛び上がり、天井に頭をぶつけてしまうほど高い。公務員と近い給料であろう宇宙飛行士と比べると、ざっと十倍はもらっているんじゃないかと思う。まあ、こんなことが何年も続くわけがないことは自分でも十分かっているが。

「もう朝ですよ! 起きてください。もう朝ですよ! 起きてください。今日は大事な仕事がある日です。全ての交通機関は、今現在、平常通り運転しています」

 お気に入りのアイドルの声をサンプリングした合成音声の目覚まし時計がしゃべりだし、今ようやく普段の起床時間になったことに気づいた。あのイヤな悪夢のせいで、随分と早起きになってしまったようだ。ウェアラブル端末のスケジューラとワイヤレスでリンクしたお節介な目覚まし時計が指摘したように、今日は仕事の山場だった。だが仕事が引けた後には、医者の友人がセッティングしてくれた大病院のナースたちとの合コンが待っている。

「よし! 今日もガッチリ決めてやる」

 オレはベッドから跳ね起きると、胸の前でグッと拳を握りしめ、頭と身体を完全に仕事モードに切り替えた。

 新卒で学校の教師になったような純粋な人間なら、罪悪感で自殺してしまうんじゃないかと思えるほどの悪どいことを、長年重ねて建てた本社ビルの最上階。そこがオレの仕事場だ。高速エレベーターでテレポート気分で移動すると、オレは自分の個室に入って専用端末の電源をオンにした。

 ここ数ヶ月の間上げ続けて来た株式相場が、今日の前場の引け際でピークを迎える。ギリギリまでつり上げられた株価は、外資の大口の売りを合図に一気に崩れ始めるだろう。後場はそのままダラダラと下げ続け、今夜のニューヨーク市場の暴落、明日の東京市場のさらなる下げへと続く。

 俺はこの情報を独自のルートから仕入れたが、おそらく株式関係者なら全員が入手済みの情報だろう。それでも御用ライターが、素知らぬふりで「今日の相場も堅調。下げたら押し目買いのチャンス」などというデタラメ記事を発信して間抜けな個人投資家を煽るだろう。そして十分に株価がつり上がったところで一気に売りだ。そうなる直前に、今日まで買い上がって来た現物を全て売り切る。それが今日の俺のミッションだった。

 場が寄り付くと、一瞬下げた後、すぐにリバウンドして、予想通りじわじわと上げ始めた。前場はまだまだ上がる。オレはゆったりと構えて、これから売り抜ける予定の銘柄を頭の中にリストアップした。このご時世、 IT化が進んで株取引はほとんどの部分が自動化されたが、それでも最後は人間だ。なぜならパーフェクトに自動化することが可能なら、全員が儲かることになる。相場というものは、損するやつが必ずいるからこそ、儲けることができる世界なのだ。

 オレは一進一退しながら着実に上に向かっている株価ボードを眺めながら、ふと今夜の合コンのことを思い浮かべた。

「今日のナースたちは、どんな服装でくるのかな…」

 ナースは医者に憧れているから、証券マンなんか相手にされない、というヤツもいるが、それは間違いだ。なぜなら、医者よりもナースの数は圧倒的に多いから、誰もが医者と付き合えるわけじゃない。それにオレには財力があるのだ。

 そんなことを考えているうちに、株価が妙にぎこちない動きをする局面が増えてきた。ちょっとした変化だったが、オレは見逃さない。さあ、動かすぞ。

 まずは値動きは鈍いが大量に保有しているメガバンク株から処分するか。売り注文を出すために、そのメガバンク株の証券コードを検索窓にぶち込もうとしたが、数字4ケタのコードがなぜか思い出せない。恋人の誕生日は忘れても、忘れるはずのない主要な銘柄なのにだ。同時に何かイヤな感触が蘇ってきて、身体から頭にかけてカッと熱くなり、心臓の鼓動が速くなりだした。

「あわてるな。度忘れは誰にだってある」

 オレは自分を落ち着かせるために、わざわざ口に出して言いながら、証券コードではなく直接銘柄名を入力して呼び出すことにした。すると今度は上手くキーボードに文字が打ち込めない。そんなはずはない。カンタンなひらがな三文字を、何度も何度も、ゆっくりと落ち着いて一文字ずつ入力しようとするが、なぜか最後の文字で必ずつまずいてしまう。またイヤな感触が蘇ってくる。汗がポタポタと流れ落ちる。そうだ、思い出したぞ。この感じ。昨夜の夢の中で、月面バギーの無線機のボタンが押せなかったあの感じだ。つまりこれは夢なのか? ああ、株価がどんどん下落して行く。ここで売り抜けられなかったら、顧客も会社も大損害。オレは間違いなくクビだな……。

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