episode3

「やはり夢だったのか」

 何か前にも味わったことのある、あのイヤな感触。身体が思い通りに動かないもどかしさ。オレは思わず跳ね起きたベッドの上で、さっきの夢のことを考えた。

 株のトレーダー。オレが十代の頃になりたかった職業だ。貧しい若者が機知に富んだ株取引で、みるみる大金持ちになっていく。そんな映画を何本か見て、トレーダーに憧れるようになった。どこかの証券会社に所属してそこそこ稼いだら、独立してもっともっと儲けて、あとは好きなことをして暮らす。そんな人生のシナリオを描いて、一生懸命株取引の情報をネットで読み漁ったっけ。

 ところがオレは、トレーダーにはなれなかった。なぜなら現実の自分は、リスクを避けて安心を選ぶタイプの人間だったからだ。大学時代の後半、就職活動を通じて実社会の厳しさを目の当たりにしてからは、さらに安定志向が高まり、結局俺が選んだ職業は区役所の職員だった。

「わるくない。わるくない仕事さ」

 オレは明るくなりつつあるカーテンの外を想像しながら、自分を納得させるようにつぶやいた。

 区役所の出張所は、一人暮らしをしているマンションから歩いて十分ぐらいのところにあった。自宅でゆっくり朝食をとってからのんびりと散歩気分で出勤するのが日課だ。

 出張所に着いたら、カードキーと指紋認証でロックを解除する。ここに勤めているのはオレひとりだけ。出張所のあらゆる業務をひとりで任されている。とはいっても、仕事なんかほとんどない。出張所の担うべき業務はほとんど全てがオンライン端末で処理可能になっていて、しかもほとんどの住民はそれに自宅の端末やモバイルでアクセスする。

 それでもこんな出張所が残されているのは、自分用の端末を持つ経済的余裕のない住民や、自分ひとりで端末を操作できない住民が、ごくわずかでも存在するからだった。一般企業と違い、効率が悪いというだけで少数者を切り捨てない。それが行政というものだし、そのおかげでオレが給料をもらえているのだ。

 備え付けの給湯器でインスタントのコーヒーをいれ、業務用の端末からアクセスが許可されたニュースサイトを眺めていると、お馴染みの老人が自動ドアを開けてヒョコヒョコと中に入ってきた。

「おはようございます!」

 明るく挨拶すると、「ああ、おはよう」と返しながら、そのままサービス端末の前まで行き、しばらく眺めていたが、やがてこっちを見てニコニコと微笑む。

「何かお困りですか?」

「ああ、住民票を出したいんだが、やり方を忘れてしまってね」

「画面の真ん中の、受付開始って書いてある大きなボタンにタッチしたら、住民票って出てくるから、それを押して、画面の指示に従ってください」

「ああ、そうだった、そうだった。いつもありがとうね」

「どういたしまして」

 気にしてないから、といったニュアンスを込めた笑みを返して、オレはニュースサイトに戻る。

 いつも通りの日常。それにしてもこの老人は、週に一度はこのようにして住民票を取りに来るのだが、一体何に使うというのだろう。まあ、オレにとってはどうでもいいことだが。

 低層の住宅街にある出張所の窓から、高く澄み切った青空が見える。気持ちのいい午前中。もしかして、これもまた夢なのだろうか。オレはふとそんなことを考えてみたりした。

 けれども、オレは夢から覚めなかった。しばらくしてオレは、友人の紹介で知り合った女性と平凡な恋愛をして結婚し、やがて女の子が生まれた。ゆるゆるの行政とはいえ合理化の波は避けられず、オレの給料は下がる一方だったが、贅沢しなければ親子三人、なんとか暮らして行くことができた。

 上層部から、何度か本庁勤務の打診があったが、出張所暮らしが気に入っていたオレは、その度にていねいに断りを入れた。そのうちに誰もオレに声を掛けるものはいなくなり、オレはそのまま年をとっていった。

 娘が成人して結婚し、孫が生まれた年に、オレは定年となり区役所を退職した。最後の日は出張所ではなく本庁に出勤し、三十歳年下の上司から感謝状を受け取った。

 歳月はさらに流れ、オレはある日、ふと意識が遠くなって、気が付くと見知らぬベッドの上に横たわっていた。仰向けになったオレを、妻、娘夫婦、そして孫の顔がぐるりと円形に取り囲んで見下ろしていた。

「おじいちゃん、死なないで!」

 孫が泣きじゃくりながら叫んだのを聞いて、オレは自分が臨終の床にいることを悟った。

「ああ、オレはこれから死ぬんだな」

 幼いころからの自分の姿が映像となって順繰りに意識に甦ってくる。そういえば小学生の頃のオレは、宇宙飛行士を夢見てたんだっけ。なのに理科が全然できなかったな。その後は株のトレーダーだったかな……。臆病なオレには向いてないよな。つまり、まあ、わるくない人生だったということだ。うん、わるくない。そんなことを思った瞬間、舞台の幕が下りるように目の前がスーッと暗くなり、俺の意識は完全に途絶えた。

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