苦労しなくては池から魚を釣りあげられない Ⅱ

「つきましては、最終決定は公の御意向にお任せしたく――」

 私は結局は何の役にも立てませんでしたな、と頭を下げる男に二人の娘が詰め寄る。

「一体どういうことなのです、イルペリックさま!」

 よどみなく流れる清水と、緑の香気入り混じる春の微風。二つの響きは清澄さにおいては互いに引けを取らずただただ可憐であるのに、今ばかりは烏も顔負けの騒々しさを醸し出していた。

「どっからどう見ても私の方がツェリサより断然美人でしょう!?」

「この、色気と品性においては猿にすら負ける女と私が同列だなんて、冗談にしても笑えませんわ!」

 緩やかに波打つ淡い金色の髪を振り乱した娘は、煌めく湖面から荒れ狂う海原となった絶叫を搾りだす。すると銀褐色の髪の娘は暴風となった罵声を細く滑らかな喉から迸らせた。

「誰が猿以下ですって!? 豚の分際でよくもまあ御大層な口が利けたものね! 豚なら豚らしく、豚小屋で団栗でも食べながらブヒブヒ喚いていなさいよ!」

 挑発に返されたのは、固く握りしめられた小さな拳に他ならない。

「そっちこそ平原胸の癖に、よくも!」

 至近距離からの、回避しがたい衝撃がすらと締まった腹部を抉る。たちまち下腹部は不快な熱を帯び、逆流する嘔吐感は胃の腑をも苛め、饐えた酸味でもって乾いた口内をひりつかせた。

 危なかった。もしもこの一撃がまともに鳩尾に入っていたら。ゼリスリーザはきっとたらふく平らげた昼食のほとんどを、家内奴隷が磨きぬいた床にぶちまけてしまっていたかもしれない。

 他公国との争いで獲得した捕虜である彼ら隷属民の職務は、主人の一日が快適なものとなるよう支えることにある。けれども他者が額に汗しながら築き上げた成果を踏みにじると考えるだけでも、胸の奥が軋まずにはいられない。ゼリスリーザも、五年前に自身の努力の後が蹴散らされ泡沫となる悲哀を、嫌と言うほど味わわされたのだから。第一、公衆の面前で嘔吐する不作法を犯してしまえば、流石に今度こそ取り返しがつかないだろう。

 渦巻き、ともすれば白く整った真珠の列をこじ開けんとする濁流をどうにか嚥下し、あるべき場所へと押し戻す。

「煩い! 乳も出せない乳牛のくせして、平原を馬鹿にするんじゃないわよ!」

 野獣の咆哮めいた呻りに入り混じる「お前の従妹は豚と牛、一体どっちなんだ」との呆れ果てた青年の囁きは、激高した二人の娘には届かなかった。

「お昼にあんたが飢えた犬みたいにばくばく食べてた、」

「食事の量についてもあなたにはとやかく言われたくないわね。あなた、私たちの中で一番がっついてたじゃない」

 ふふん、と従妹が腕を組んで豊満な胸部を強調すれば、続く言葉など容易に想像できる。

 ――なのに、どうしてあなたの胸はそんなに貧相なんでしょうね。

 過去幾度も浴びせかけられた屈辱は、舌先に乗せられ外界に飛び出すばかりであった言葉の勢いを鎮める。

 黒麦を育むのは平原なのだ。平原が気に入らないのなら麺麭を食べるなと主張しても、だったらあなたが大好きな牛酪はどこから採れるの、と返されていたに決まっている。そうして導き出されるのは、ゼリスリーザの敗北に他ならなかった。


 頼みもしないのにふくよかな胸元を強調した服を着てきたツェリサを雌牛と罵り、牛が嫌いなら二度と乳から作られる食物を買うなと返された時。

「私の家には金がなくて、そもそもあまり買えないからそんなことでは困らないのよ!」

 誇らしげに滑らかで形良い顎を上げた娘は、たちまち敗北を悟ったのであった。自ら進んで我が家の困窮具合を暴露してどうする。

「ああ、そう。それはよかったわねえ。それは羨ましいことねえ」

 案の定、従妹は侮蔑を隠そうともしない嘲笑をぶつけてきた。

「私の家には農民たちが作った上質な牛酪や乾酪がたくさんあって、色々な料理に使っているから、無いと生活が成り立たなくなるぐらいなのにねえ」

 どんなに食べたくとも、金銭的な理由により一日一切れに限定されている魅惑の脂肪の塊を、憎たらしい従妹は飽きるほど堪能できているなんて。思えばこれが、燻り続けていた熾火が劫火となった瞬間かもしれなかった。


 自身の心に微かながら罅が入った四年前の、憎たらしい笑みはそっくりそのまま現在のゼリスリーザの目前に広がっている。

「……あのねえ、こんな時は黙って私の話が終わるのを待つのが決まりってもんなんだから、いちいち中断させないでちょうだい」

「そんな聖典にも法典にも載ってない決まり知らないわよ」

 どんな手段を使っても、この乳だけ女をこてんぱんにしてやらなければ。

 垂れ込める暗雲か火事場から立ち昇る黒煙のごとく、むくむくと沸き起こる苛立ちに焼き尽くされてしまったのか。長い睫毛に囲まれた双眸から侵入し、奇妙に静まり返った脳裏にまで届く光は、二人の男の像を結ぶ。

「あー、もう! あんたは昔からほんと減らず口ばっかりなんだから! いいわよ、もう! これ以上あんたを相手にしていても時間の無駄だわ!」

「それはこっちの言い分よ!」 

 未だ闘志をむき出しにする従妹に背を向け、従妹同士の闘争を猫か何かの争いのごとく、投げやりな目で見守っていた男たちに満面の笑みを手向けにじり寄る。すると彼らは、ゼリスリーザの口を閉ざしていれば神秘的な儚さ漂う美貌に魅入られ頬を赤らめ――はせずに、一体何事を始めるつもりなのかと言わんばかりに眉を寄せた。

「よく見てください! この大きな巴旦杏型の目。すっきりと、高く通った鼻筋、花弁のような繊細な唇を。これぞまさにイヴォルカ美女の極みでしょう!?」

「それはまあ、お前が非常に美しいことは俺も否定はしないが……」

「確かに、ゼリスリーザさんは顔立ちにおいてはツェリサさんに勝りますが……」

 知性において同等ならば、それ以外の武器を駆使して己を売り込めばよい。

「なによ……」

 胸ならばともかく容貌においてはゼリスリーザに二段ほど劣るツェリサが、口惜しさのあまり唇を噛みしめる様が、目前に在るかのごとくまざまざと浮かびあがる。

 平原だの陥没地だの散々に侮辱されようが、私の美の価値は損なわれはしない。と、得意になって無い胸を誇らしげに張っていると、不意に聞き捨てならない呟きが鼓膜どころか全身を揺さぶった。

「だけどあいつは……エルゼイアルは……」

 その苦渋に満ちた様子をあえて例えるならば、未だ嵐の海から戻らぬ夫の帰りを待つ子沢山の妻に、夫の訃報を伝える漁師仲間。はたまた、夜通し神に祈って病床に伏す我が子の快癒を願った両親に、残酷な現実を突きつけねばならぬ祈祷師。とにかく「非常に残念ながら……」と前置きしなければ切りだせない類の話が始められる、濃密な不穏の予感は現実となる前に、呆気なく蹴散らされた。

「如何なさったのです、イルペリック殿?」

「いや、良いのです。だって流石に、こんなくだらないことを公のお耳にお入れするわけには……」

 一面の大海原さながらに茫洋として掴みどころがない独白を嚥下し、異国の使者はにこやかに口角を持ち上げる。輝かしい儀礼上の笑顔に落ちる、一種の怖れを湖水の双眸は見逃さなかったのだが、今は言及すべき時節ではない。

「イルペリック殿が良いとおっしゃるのならば、私はその決断に従うまで。要らぬ詮索で貴方を煩わせる無礼は控えるべきと弁えているつもりですが、」

 青金の髪をくしゃりとかき上げ、粗削りの彫像めいた風貌に、自らが仕掛けた落とし穴の獲物を見下ろす少年を連想させる趣を添えた公は、しっかりとした顎を一撫でする。

「貴方も随分と厄介な荷物を託してくれたものだ」

「と、申されますと?」

「ゼリスリーザ・マルトポルカナもツェリサ・スヴャトマルカナも南部の土豪貴族ウィタリー・レザロフの息子の娘。これで異なる家の娘ならば、家柄や財力や権勢で劣る方を・・・・選べもしたのですが、同家の娘ならば如何ともしがたい」

 密やかに交わされる会話は、ゼリスリーザ以外の娘には届かなかっただろう。逞しい四肢で大地を駆り獲物を追う豹めいた目から放たれる、爛々とした光は、熱を帯びてなお冷え冷えとした野心もまた。

「……あの最初の選別の際、貴公は上流の貴族の娘は全て除外なさいましたね」

「ただでさえ御しがたい大貴族に、大国の王との断ち切りがたい縁故などを与えると、ますます増長しかねませんからな」

 不敵に唇の端を吊り上げた若き公がもはや飢えた野の獣としか映らない。しかも、この獣を満たすのは血肉ではなく権力ときた。

 ぶるりと身震いしながらも、短い間ながらも共に勉学に励んだ娘たちを横目で眺める。すると成る程、彼女らが纏うのは仕立ては好いが華美や豪奢には程遠い衣服ばかりであった。あの、最初につまみ出された娘の、目が潰れそうなまでに派手な衣装とはまるで異なる。

 自分はもしかして、その場の勢いに駆られて大変な所に足を踏み入れてしまったのではないか。弱小貧乏貴族の娘として、これまで無縁でいられた政治の世界は折り機だ。民会の構成員に大主教。そして公。様々な者の思惑を縦糸に、欲望を横糸にして、公国の未来は織りなされる。世に二つとない織物は、目も綾なきらきらしいものとなるのか。はたまたほつれや文様の歪みばかりが目に付く悲惨なものとなるのか。

 初めて感じ取った、押しつぶされんばかりの重みは振り払いたくとも振り払えない。ある者にとっては羽さながらに軽く、また別の者にとってはどんな甲冑にも匹敵する圧は、責任とも言い換えられる。気が付けば蛇となって足元に忍び寄り、いばらとなって両の脚に絡みついているのだから。鋭利に肉を裂く棘を備えた枷の痛みに耐えぬくには、一体どれ程の忍耐を要するのだろうか。――何一つ分からない。けれども、これだけは分かっている。ゼリスリーザは既に引き返すには遅い隘路に辿りついていたのだ。とすれば、後は覚悟を固めるのみ。

「……ご心配には及びませんわ、スリャトマール様。イルペリック様」

 堅く強張っていてもなお凛とした魅力を放つ貌に、とっておきの淑やかな微笑を張りつける。

「公。我がサリュヴィスクには、伝統がございましょう? 民会においてどんなに互いに譲り合っても地区ごとの意見が纏まらない時。数百年前の我らが祖は、どのような手段をもって争いを終わらせたのか、公はもちろん存じ上げておりますよね?」

「……まさかお前……」

「ええ、そのまさかです」

 流石にそれはないだろう、との躊躇いは青年の貌から一瞬で消え失せ、代わりに様々な色彩が浮かび上がる。

「わたくしゼリスリーザ・マルトポルカナはツェリサ・スヴャトマルカナに殴り合いを申し込みますわ。そうして勝利を我が手に掴んだ者が、王の女となる名誉をも得る。これでようございましょう?」

 真っ直ぐに覗き込んだ氷青の瞳は、血塗れの犬歯が覗いていないことが不思議でならないぐらいに吊り上がった口元などよりも雄弁に告げていた。面白い。やってみろ、と。

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