苦労しなくては池から魚を釣りあげられない Ⅰ

 採光と通気のために穿たれた隙間から入り込むのは、盛りを迎えた夏の清しい光だけではなかった。

 黒麺麭と燻製肉の薄切り、そして腸詰め入りの野菜の汁物に付け合わせの牛酪や数種の乾酪チーズ。その薄い腹によくもと呆れられながらも、常よりも豪勢な昼食を詰め込めるだけ詰め込んだ後の座学は、退屈を通り越して拷問にすら等しい。この燦燦と降り注ぐ陽気に抗うなど、神ですら不可能だろう。

 だから、自分がこうしてうたた寝をしてしまったのもごく自然なことなのだ。屁理屈を捏ねくりまわしながら重い目蓋を擦ると、ぼやけた視界と意識は幾分か明瞭になる。愛妾候補の娘にそれぞれ割り当てられた小卓の上には、透明な海が広がっていた。

「やっば、」

 数枚の白樺樹皮ペリョースタの端を侵食する粘りに顔色を蒼ざめさせた娘は、慌てて精緻な刺繍が施された裾で唾液を拭う。

 サリュヴィスクの民の多くは、時に馬三頭分にも匹敵する高値が付く羊皮紙を頻繁に贖うに足る余裕とは縁遠い。そこで民は白樺の樹皮を煮沸し加工した樹皮に自らの想いを刻む・・のだ。

 先端が尖った筆記具でもって、樹皮を押しつぶして思うがままに文字を記せるようになるまでには、ちょっとした練習や研鑽が必要である。無論ゼリスリーザも幼少期に既に訓練・・を済ませていた。飽きっぽい気質の下のきょうだいたちに文字を覚えさせるには、長女であるゼリスリーザが読み書きを習得し、特訓を監督する必要があったのだ。

 森の精レーシーやお伽噺の竜、はたまた伝説の琥珀の宮殿までをも巧みに乾いた皮の上に描き出すゼリスリーザの画才は、近所の子供らから魔法使いのようだと讃えられていたものだった。

 凍てついた白と死の季節を迎えれば厚い氷に閉ざされる北の海には、黄金の屋根と水晶の窓を持ち、真珠で飾られた琥珀の宮殿が聳えている。そしてそこには麗しの乙女たちを従えた、彼女らの誰よりも美しい「乙女たちの女王」が君臨しているのだ。

 深い深い海の底をも眩く照らす美貌の女王は、海難により命を落とした人間の魂を収めた壺を所持している。彼女の収集品たちは天国にも地獄にも行けずに不遇を託つばかり。だが女王は、死者の身内が彼女の供物をささげた際には、特別に死者を解放してくれるという。また、浜辺に打ち上げられた蜜色の石は、彼女の宮殿を建てる際に使われた建材の欠片であるとか、あるいは女王が最愛の恋人の死を悼んで流した涙が凝ったものであるとも伝えられていた。

 女王と恋人の悲恋を、女王から友の魂を取り戻すために荒れ狂う海に身を投げた勇敢な猟師の冒険を情感たっぷりに語れば、格好のカモ――もとい、少しばかり暇と金を持て余した裕福なお子様たちは代金を置いていく。そのほとんどは飴や菓子などの腹に納めるに他ない、可愛らしいものであった。だが、彼らが夕食時に興行・・を話題とすればどうだろう。

 ゼリスリーザの芸術的才能を聞きつけた良家の夫人たちに手ずから刺繍した品々を見せつければ、それなりに売れてゆく。一番人気があったのはイヴォルカ北部伝統の、意匠化された火の鳥の意匠であった。南方より伝来した神――天主に民の崇拝こそは奪われたものの、この世界の大元となった卵を産んだ鳥と、生命の樹の文様の組み合わせは、魔除けとして幸運の護符として根強い信仰を集めている。それらの売り上げを記録するためにも、文字は必須であったのだが、ペン洋墨インクなどという品が完全に手に馴染むには、あとどれ程の時を要するのだろうか。

 汚れが付着していたら、と掌で頬を擦れば、湖水の瞳は前方からこちらを見やるイルペリックの思慮深い眼差しとかち合った。

 ――聖典から公文書に至るまで王侯の間では手広く羊皮紙が使用されているルオーゼに赴いて、文字すら満足に認められぬのでは。あるいは、最低限の学識を身に付けぬままでは、宮中に侍る女官たちの嘲りの的となるだろう。

 イルペリックの一言により始められた座学は、楽しいか否かと訊ねられれば迷いなく前者だと答えられる。この先の人生で役に立つかどうかは定かではないが、異国の言語を幼児との会話ならば事足りる程度に習得できたのは、ひとえに師のおかげであろう。

 現ルオーゼ国王エルゼイアルとその学友の神学の師でもあったと自己紹介したイルペリックは、人にものを教えるという、容易なようでいてその実酷く困難な事業に精通しているのだろう。その点彼は、生徒たちの長短合わせた様々な特性を僅か半月の間に掌握した、非常に理想的な教師であった。こうして彼の教えに耳を傾けていられるのも残りわずかだと思えば、一抹の侘しさが胸をくすぐる。

 せめて残りの時間は身を入れて聴かねば、と身構えた娘の耳に飛び込んだのは、朗報ともとれる宣言であった。

「今日は良い天気だから、もうお開きにしましょう」

 木霊する歓声に苦笑する彼の視線がゼリスリーザに向けられていたのは、単なる勘違いだったのだろうか。

「イルペリックさま」

 居眠りをしてしまった罪悪感に胸を疼かせながら、せめてもの償いとして、そして自らの熱意を売り込むベく、恒例となった講義後の質問に赴く。

「ゼリスリーザさんはいつも勉強熱心ですね」

 すると教師は、格別に整ってはいないが穏やかな口元を緩ませた。

「ええ。よく言われますわ」

 弟や妹たちに目撃されれば「似合いもしないのに上品ぶっている」と揶揄されること間違いなしの擬態であるが、本当の自分の全容を出して辿るであろう道の先ぐらいはゼリスリーザにも見えている。行き着く場所は断崖絶壁の更に下。とどのつまりは落選間違いなしだ。

「よく、と言うと?」

 ――しまった。口と淑やかな女の仮面が滑って、つい本音が。

 一抹の好奇心を宿した目で自分を見据える男の興味をいかに他方に散らそうかと思案していると、柔らかな弾力の先端が華奢な背を掠めた。

「ああ、あなた昔、“これは大陸中部南方の今はもう滅亡した国の卓布テーブルクロスです”なんて言って自分が刺繍した布を売ろうとして、叔父さまにこっぴどく叱られたものね。しかも、古く見せるために、わざわざ玉葱や木の皮を煮出した汁に付け込んでまで」

 すっかり癒えていた傷跡をほじくり返す腹立たしい声の源を振り返れば、そこに聳えていたのは憎たらしい脂肪を強調するかのごとく腕を組んだ従妹であった。

「あれはもう五年も前のことだし、未遂だったし、何よりきちんと反省したんだからいいじゃない!」

「こっそり百枚も拵えて、売る気満々だったくせに、売れなかったから良かったなんてよく開き直れるわね」

 確かにあなたは勉強熱心ではあるけれどね、と片方の唇の端を吊り上げた従妹に掴みかかれば、始まるのはもはや名物となった二匹の猛牛の激突である。 

「煩いわね! そもそも私は、ちゃんと“これは大陸中部南方の今はもう滅亡した国風の・・”と説明していたのよ! ただ“風の”を小声で、早口で、言っていただけで!」

「それが既に詐欺なのよ! 現場を叔父さまに見つかって、あれだけ怒られたのにまだ懲りてないなんて呆れたわ」

 実体のない角と角をぶつけ合う娘たちの力量は、今のところ拮抗していた。勝敗を密かに賭けの対象とする者が現れるぐらいには。

「私は貶すんじゃなくて褒めてあげたんだから、こんな風にされる筋合いはないのよ!」

 貴族の娘としての品と慎みの無さと忍耐力においても、微妙にして絶妙な均衡を保つがゆえに、従妹同士のいがみ合いは果てしない。ゼリスリーザとツェリサの間の大差など、胸と尻の大きさぐらいのものである。

「だいたい、見たこともないくせに、大陸中部南方風の小物だなんて、よくもまあしゃあしゃあと……」

「あれは母さんの遺品の中に紛れてた、母さんのひい爺さんが仕入れた商品の売れ残りの模様を参考にして縫ったの! ひいひい爺さんは大陸中部南方の国の都にも買い入れに行ったことがある商人だったんだから、あながち嘘じゃあないわ!」

「それはどうだか。どうせ帰路途中の適当な町で掴まされた襤褸に決まってるわ。だって、あなたのひいひいお爺様、商売はからきしだったって――」

 お互いだけならともかく、ゼリスリーザの身内までをも貶るのはあんまりだろう。

 頭に全身の血を登らせたゼリスリーザの怒りを宥めたのは、ゆったりと落ち着いた一言であった。

「まあ二人とも、今日はここらで良しとしてください」

 自分たちの父と同じ年頃の男の双眸には、親が手のかかる子に向けるにも似た慈愛が灯っている。

「ゼリスリーザさんもツェリサさんも、共に熱心で覚えもいい。ついでに活きもいい。僕は正直、愛妾候補の中の誰よりも君たちに期待しているんです。君たちなら宮廷に跋扈する女怪……もとい、不必要に着飾った豚ども……ではなくて、貴い身分のご婦人たちにも対抗できそうだと」

「イルペリックさま……」

 最後の方、本音を全く隠しきれていません。などとは到底零せないが、漂うしんみりとした空気に釣られて囁けば、師はその面をくしゃりと崩す。

「あなた方とこうして触れ合える刻はあと残り半月もないのだと思えば寂しくなるけれど……」

 どうか、これからも励んでください。

 齢と地位にそぐわぬ親しみが籠った激励を糧に励んだ日々は、瞬く間に過ぎてゆく。

 ゼリスリーザとツェリサのルオーゼ語が、難解な議論は不可能でも日常会話ならば問題なしと師に認められるまでになった頃。一切の知らせもなく教室に足を踏み入れたのは、左右と後ろに従士を従え、隙なく武装した青年であった。

「よお、久しぶりだな」

 愛妾候補の身辺警護に勤しむ、という名目で自分たちを放置していたに違いないスリャトマールの顔を見るのは、ほとんど一月振りである。

「息災でござったようで何よりです、イルペリック殿」

「なに。それもこれも、公の手厚い支えがあってこそ。おかげで私は、つつがなく職務に専念することができました」

「ならば、既に決まっているのですね?」

 ほんの少しぐらい勿体ぶってもよいだろうに、スリャトマールは率直に、躊躇いなしに核心に踏み込む。ばくばくと、張り裂けんばかりに脈打つ左胸に手を置けば、僅かながらのまろみ越しのあばらの硬さが掌に焼き付いた。ちらと横目で仇敵の様子を窺えば、けぶった紫に滲む感情が真っ直ぐに伝わってきて。

 ――あんたにだけは絶対に負けないわ。

 ゼリスリーザもまた眼差しでもって意志を飛ばすと、桃色の唇には不敵な微笑みが刷かれる。だが対峙する二人の娘が浮かべたそれぞれの勝利の予感は、儚く消え去る泡沫に過ぎなかった。

「我が国に迎える娘は、ゼリスリーザさんかツェリサさんのどちらかに」

 異国の使者はさも面目ないと頭を垂れる。彼が吐き出した驚愕は、張り裂けんばかりに眦を見開いた娘たちから、しばし呼吸を忘れさせた。

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