動かぬ石の下に水は流れない Ⅲ

「――さて、」

 希少で高価な黒貂クロテンの毛皮を縁に縫い付けた外套を翻し、設えられた椅子の一つに坐した青年は、形良い口元を吊り上げる。長い脚を無造作に投げ出す様も、坐した石造りの玉座・・もどこか粗野で野放図だが、野生の獣めいた力強さを醸し出してもいた。

 真紅に染め抜かれた帽子を乗せた頭をやや傾げ、居並ぶ娘たちを睥睨する公は若者ながら歴戦の戦士に匹敵する威厳を漂わせている。土豪貴族や大主教によって飼いならされてはいるものの、彼の本質はやはり支配者なのだ。

 この人は、何かが違えば、あるいは今後の研鑽次第では、このイヴォルカの地の名目上の頂点である大公位すらも掌中に治められる辣腕の持ち主なのだ。

 長兄と然程齢の変わらぬ青年に覚えた畏敬の念に、娘は溢れ出た生唾を嚥下せずにはいられなかった。傍らの従妹もまた、華奢な背筋を慄かせながらも、公の次なる挙措を固唾を呑んで見守っている。

 公の氷青の双眸はまさしく氷柱のごとしで、真っ直ぐに向けられれば畏れによって高鳴る胸を貫かれてしまいそうだった。

「お前らは俺が誰で、どんな地位にいるかなんて、とっくの昔に知っているだろう。だが一応の礼儀として名を名乗りたいところだが、まず初めに言うべきことがある。非常に言いにくいことだが、遠慮なく言わせてもらうからな」

 一体何事を告げられるのか、と親鳥不在の巣で泣き喚く雛鳥さながらにどよめく娘たちに、寸毫の迷いもなく突き付けられた現実は実に冷酷だった。

「勘違いブスは即刻この場から退散しろ」

 陽光さえ刺さぬ深い森の奥深くに佇む、清らかだが冷ややかな泉。その凪いだ湖面を思わせる静まり返った場に漣を立てたのは、婉曲とは対照に位置する、むき出しの屈辱に他ならない。

「ここは豚小屋ではなくエルゼイアル王への贈り物の選定場なんだ。王との友好の証とするには、極上でなけりゃならん。でなきゃ全てが御破算になりかねん」

 公が吐き捨てる勢いで紡いだのは確かな現実の側面ではあるが、それにしても剥きだしすぎる。もう少し優しさや配慮や憐れみで包んでも良かったのではないか。その方がまだしも深手を負わずにいられただろうに、とゼリスリーザは自分以外の娘たちの心を案じずにはいられなかった。

 辛辣な物言いに思い当たる節があるのか、ゼリスリーザとツェリサの近くで立ち尽くす娘は、握り締めた拳をわなわなと震わせる。

「そんなっ! あんまりですわ、公!」

 勇敢と讃えるべきか、無謀だと諌めるべきか。猪をも蹴散らす勢いで傲岸に全てを見据える青年に鼻息荒く詰め寄る娘は、纏う衣服や頭飾りこそは豪奢であるが、ちらと垣間見えた顔は……。

 ゼリスリーザとて温かな血潮を身に通わせる人間だ。ツェリサとの格闘の際に「このブス!」と叫ぶこともあるが、それは従妹が平均以上の容貌を備えているからである。ツェリサが本当に不器量だったら決してブスとは呼ばない。それが人間としての最低限の配慮というものだ。だが、しかるにこの娘は――明言は避けておこう。しかしあえてやんわりと表現すれば、恵まれているとは評しがたい。何に、などとの言及も控えるべきだろう。そんな非道を行えるのは、血管に氷水が流れている冷血漢か悪魔ぐらいのものだ。

「あの人も、この人も、」

 異変を察知してか剣の柄に手を伸ばした従士たちの眼前で、名も知らぬ娘はどこか大仰な素振りで、呆然と立ち尽くす娘たちを指し示す。

「あとこの人たちも……」

 その中にはゼリスリーザとツェリサも含まれていて、眉を顰めずにはいられなかった。

「確かにサリュヴィスク有数の大貴族の娘であり、爺さまたちや村人たちに、お父さまの領地一の美女と讃えられてきたわたしには何もかもで劣りましょう。美貌のみならず、気品や女らしさでも。特に最後の方たちなんか、猿の方がまだましという品の無さ。土豪貴族の名折れそのものでした。ですが皆さん、公の布告を頼りにここまでやって来たのでしょうに……」

 着飾った娘は、わたし以外の娘さんたちが哀れでならないと泣き崩れた。

 ――これは、本物だ。

 彼女を前にしてその場の皆が内心で呟いたであろう心情を独り言ちながら、ゼリスリーザは湖水の淡青の目を伏せる。色々と遠慮がない公が、この娘の自尊心にどのような言葉の刃を突きたてるのかと想像すると、痛々しくて直視していられなくなったのだ。

「お前、一回ぐらい“同情”とか“思いやり”に類する単語を耳にした憶えはあるだろう?」

 案の定、公の次なる発言は投げやりそのもの。面倒くささを如実に表してしまっていて、取り繕う気配はなかった。

「ええ、もちろんですとも。そしてそれこそ、公に不足しておられるものですわ」

「俺が意図したのはそういうことじゃないんだが、もういい。――だったらお前、鏡を見たことはあるか?」

 本当にない。欠片もない。恐ろしいぐらいにない。

「――もちろんですとも! 毎日、朝起きたらすぐ、午後の散歩の前に、そして就寝前に、ゆうに四半刻は眺めておりますわ! 美しい我が身を相応しい品で飾って下々の称賛を浴びるのは何にも増した喜びですし、そのための努力は惜しむつもりはありませんから」

「そうか。それは手の施しようがないな」

 語気荒く、熊さえ吹き飛ばさんばかりの勢いで叫んだ娘と向かい合う公の面に僅かながらとはいえ翳りが射したのは、憐憫ゆえなのだろうか。

「わたしに今の今まで一つの縁談も舞い込まなかったのは、周囲の殿方が遠慮をしたためなのでしょう。それか、お父さまが私には釣り合わない縁談は、私に断りもせずに跳ね除けていたか。ですが、大国の支配者ともなれば、これぞまさにわたしに相応しい御方だとお父さまも認めてくださるはず……!」

 うっとりと指を組む娘を直視できないのは、彼女がつい先ほどまでの自分の逆さ映りの像に他ならないから。

「確かに、公のおっしゃることにも一理あります。分不相応な自信は早めに手折って差し上げるのもまた優しさなのでしょうが……」

 得意げに髪をかき上げた彼女と自分の差異はただ一つ。ゼリスリーザがこの場で最も優れていると自負している容姿を神と亡母から授けられたということだけ。

「それならば、こうおっしゃるべきではありませんか? 公国一の女は既に決定してしまった。それ以外には用はない、と」

 耳から流れ込む羞恥の源に詰め寄って、猛毒に等しい音を喚き散らす空洞を塞いでしまいたかった。父やきょうだいたちに抱き付いて、深手を負った心を癒してほしかった。なのに、大好きな家族は側にいない。王の愛妾候補は、選出が終わるまでは公邸に滞在する決まりだから。

 ここにはいない者たちのぬくもりを求めて伸ばした指は虚しく空を切るばかり。であったはずなのに、温かく柔らかな人肌に包まれた。

「――大丈夫よ」

 蒼ざめた面を歪めながらもぎこちなく微笑んだ従妹の存在が、今ばかりは溢れるほどに愛おしい。

「あなたはあれほどではないわ。……多分」

「ツェリサ……!」

 くすんだ紫を痛ましげに細める従妹は年下のはずなのに、七年前に喪った母の面影を重ねてしまった。顔立ちや胸部の豊かさは似ても似つかないのに。

「――いつまでもこんなおふざけに付き合ってられねえな」

 公がぱんと手を叩けば、彫像と化していた従士団たちは人間に還り、

「断りなく淑女の身体に触れるなんて、無礼ではありませんこと!?」

「それは悪いが、民会の構成員のジジイどもに押し付けられた面倒事とはいえ、責務はきちんと果たさなきゃならん。でないとこちとら即刻罷免されて失職しかねない立場なんでな」

 渦中の娘のみならず、その他の娘までをも扉の向こうまで牽いてゆく。もしや自分もかと身構えずにはいられなかったが、ゼリスリーザの焦燥は幾ばくかの後には徒花であったのだと判明した。

 残された娘は元の半分どころか三分の一にも満たなかった。公の審美眼は中々に厳しいらしい。急に侘しさを増した室内で、そこはかとない心細さを持て余していると、腹を満たした豹の舌なめずりを連想させる笑みが空気を揺らした。

「お前らも、家に帰りたくなったらいつでも申し出ろよ。帰りの馬車ぐらいは世話してやるから」

 ――サリュヴィスクを背負って立つ覚悟がない腑抜けなぞ、勘違いブス以上にいらん。

 凍てついた色彩が嵌めこまれた双眸に熱い焔を宿した青年は、紛れもない為政者の顔をしている。先祖代々この地で暮らしている己などよりも、本来は他公国の公子でしかないスリャトマールの方が余程、サリュヴィスクの未来と真摯に向かい合っている。その事実に、目が覚めた。

 父やきょうだいたち。隣家の老婆や、弟の遊び相手の悪餓鬼ども。加えて行きつけの青物店や肉屋や仕立屋に、近所の聖堂の司祭。またその他にも……。とにかく大勢の人間に「その品のなさをどうにかすべき」と忠告されてきた自分は、どんなに美しくとも王の愛妾には選ばれないかもしれない。その時はすっぱりと諦めて、今度こそ地に足付けて結婚相手を探そう。だが、栄光の座を勝ち取れたならば、父祖の地の発展のために異国で奮闘しよう。自分の類まれな美貌はきっと、そのために与えられたものなのだ。

 志を新たに前を見据え微笑むと、世界もまたゼリスリーザに温かな笑みを向けてくれた。牛酪祭りマースレニッツァと春送りの祭りと収穫祭が一度に訪れたかのような、晴れやかな気持ちで貧相な胸は一杯になる。

「流石に、残ったのには見れる顔が揃ってるな。多少薹が立っているのは御愛嬌ということにしておくが、」

 お前らの戦いはこれからだぞ。

 不敵に口元を歪めた公は、先ほどの騒動の最中ひたすらに黙していた僧服を手招きする。

「これからはこのイルペリック殿が説明してくださるから、心して聞け」

 いかにも修道士らしい清廉さと、少年めいた無邪気さを同居させた眼差しが、ひたとこちらに向けられた。

「僕の王のために遠路はるばる赴いてくださった令嬢方に、なんとお礼申し上げればいいのかわかりませんが、これからよろしくお願いいたします」

 柔和な弧を描いた唇から漏れ出たのは、多少たどたどしくはあるが日常会話に用いるには十分に滑らかなイヴォルカ語である。この使節を乗せた船がサリュヴィスクの港に停泊してから、半年も経っていないはずなのに。 

 きっとものすっごく練習したのね、と異国の僧の人知れぬ努力を称え頷かせた首は、おもむろに飛び出した衝撃に持ち上げられる。

「異国で暮らすにはその国の言語や文化を習得しなければ、長くはやっていけないでしょう。だから、」

 僕が貴女方に我が国の言葉と文化を教えます。そして最も我が国について習熟した令嬢を、愛妾として連れて行きます。

 求められていたのは、美でも気品でもなく、知性だったとは。この平等ではあるが難解な基準をどう飛び越えればいいのだろう、などと慎ましい薄紅の花弁をほころばせた娘は思い悩みはしなかった。ここまで来たら挑戦あるのみ。退くという選択肢など、既に頭から蹴り飛ばしてしまっている。

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