動かぬ石の下に水は流れない Ⅱ

 鮮やかな青の釣り鐘型のスカート。その上の、豊満な上半身を覆うまっさらな白の上着ルバシカで咲き誇る、意匠化された薔薇や麝香撫子カーネーションには有り過ぎるぐらいに見覚えがあった。まろい肩にかかる銀褐色にも。

「ちょっと!」

 立ち止まった彼女の背に近寄って癖のない毛先をぐいと引けば、指先を掠めたのはこれまた指先に馴染んだ柔らかさとしなやかさだった。幼時から現在に至るまで。つい先日の妹の結婚式の後も、顔を合わせるごとに互いの髪を引き、頬を張り合っていたのだから、この髪の主が誰であるかなど目を瞑っていても当てられる。

「ツェリサ!」

「……ゼリスリーザ!」

 髪を引かれる痛みが滲んだ声や、振り向きざまに露わになった面立ちは紛れもなく従妹のもの。しかし、この広い会場で顔見知りと出会った親しみなど欠片どころか砂粒ほども湧き起こらないのがゼリスリーザとツェリサなのだった。

「あんた、どうしてここにいるの? ここは豚の屠殺場でも乳牛の放牧地でもないんだから、さっさと家に戻りなさいよ」

 向かい合って睨み合うと、いつもある明白な差異を突き付けられる。ゼリスリーザとツェリサは、齢の頃も背丈もほぼ変わらない。けれどもツェリサは組んだ腕にたわわなふくらみを乗せているのに対して、ゼリスリーザは……。

「あなたこそ。ここは王の女として選ばれるに相応しい令嬢・・のための場なんだから、野蛮人は公の従士に摘まみ出されて赤恥をかく前に、せめて自分から思い上がりを正すのが道理じゃなくて?」

 従妹は、九つの天を繋ぐ世界樹と火の鳥の文様が施された、娘らしい隆起に乏しい若草色の襟元を見下している。そして得意げに、幽かな憐れみさえ滲ませた灰紫の瞳を細めたのだった。

「あのねえ、ゼリスリーザ、」

「ゼリスリーザ・マルトポルカナとお呼びなさいって昔から言ってるでしょ。そんな単純なことも憶えられないなんて、あんたって救いようがない馬鹿なのね。頭に回る分の栄養も乳にいっちゃったのね。かわいそうにねえ」

 しかしゼリスリーザがこれ見よがしに溜息を吐けば、似合いもしないのに張りつけられた淑女の仮面はあっけなく剥がれ落ちた。

「あなただって私のこと父称なしで呼んでるじゃない!」

 裾の乱れやはしたなさにも構わず、青衣の娘は脚を持ち上げ緑衣の娘の薄い足の甲に振り下ろす。

「私はあんたより年上だからいいのよ! だけど年下のあんたは私に敬意を払うのが筋ってもんでしょうが!」

「――冗談じゃないわ! あなたを尊敬するぐらいなら溝鼠どぶねずみを父と呼んだ方がまだましってものよ!」

 跟に集約された体重に我が身を抉られる痛みに握った拳を振り上げれば、柔らかで温かな物体に包まれた。喪った母への慕情をくすぐる――もっとも、母アロミナはこういったところもゼリスリーザによく似て、胸が非常に薄い女性だったが――ふくらみ憎さに鷲掴めば、甲高い怒号が漏れ出る。

「ちょっと、何するのよ!」

 何故だか顔を赤らめ目を潤ませた従妹は、美貌こそ自分には及ばないが、世の男が好むらしい曲線美で構成された、魅惑的な体つきをしているのだから腹が立って仕方がなかった。胸が大きい女が存在するから胸が小さい女が貶められる。光が眩ければ眩いほど落ちる影もまた濃いのと同じだ。

 神はなぜ、この世に胸の大きさという要らぬ区分であり差別を設けたのか。神はなぜ、ツェリサに与えた胸部の脂肪を、ほんの少しでもいいからゼリスリーザに恵んでくれなかったのか。

 敬虔な正教徒の一員として、礼拝に赴くたびにいつしか陥っている思索。その深みに飲まれた娘は、さながら岸壁に口を開けた洞窟に迷い込んだ小魚であった。あまりにも深すぎる謎は光射さぬ海そのものであり、進むべき道は暗黒に呑まれてしまっている。

 しかし猛進する小魚は幾たびかの試みの果てに、ついに大いなる外界に舞い戻った。そして形ばかりは慎ましく優美な口元をほころばせた娘は、公の居館に相応しい広がりを見せる広間中に響き渡る絶叫を轟かせる。

「――この世の不平等を是正するためよ!」

「はあっ!?」

 口と目で呆れ果てたと主張する従妹をよそに、ついに真理に至ったと確信する娘は恍惚と指を組んで天上の主に祈りを捧げた。

 ついに妹に胸の大きさを越されたと密かに涙した十五の夜も、涙さえ出なかった妹の婚礼前夜の悲哀も、全てはこのためにあったのだ。そうだ。大きな胸がなんだ。齢を取ったら垂れるだけの脂肪に拘る人間など、全て滅んでしまえばいい。

 ともすれば己の兄や弟も巻き込まれかねない呪詛を紡ぎながらも、娘は麗しく微笑む。彼女の淡い金色の髪は射し込んだ光を浴びて輝き、笑顔は苦難の果てに神と預言者が坐す楽園へと旅立った殉教者の聖性すら漂わせていた。

「私と勝負なさい、ツェリサ・スヴャトマルカナ」

 ――私は必ず王の愛妾として選ばれて、あんたたち胸が大きい女の優位を覆してやる。

 澄み切った湖水の蒼を湛えた瞳を燃え立たせる闘志を除けば、溌剌とした面に広がるのはまさしく聖女の慈愛の笑み。

「今度こそ完膚なきまであんたを叩きのめしてやるわ」

「意味は分からないけれど、望むところよ」

 長年の家事によって荒れ果てていても嫋やかな手を取る娘と並んだ様は、まさしく聖人伝の一幕であった。だが、目前で繰り広げられる馬鹿馬鹿しい事この上ない喜劇に、居並ぶ者たちは呆気に取られるばかり。

「さあ、かかってきなさ、」

 終わりを待たずして肩に叩きこまれた一撃は重く鋭かったが、ここで引き下がっては女が廃る。次なる攻撃を空舞う蝶のごとく――と例えれば蝶に抗議されかねないが、とにかく無意味なまでに優雅に回避し、熟練の舞人にも通ずる軽やかな挙措で肘を無防備な腹部に埋め込めば、勝敗は決する。はずだったのだが……。

「貴国の女性は皆このように落ち着きに欠……快活で魅力的な女性たちばかりなのですか?」

「いいえ、それは違います。神に誓って、断じてありえません」

 背後で失礼極まりない暴言が響き渡ったために攻撃の矛を収め、馬乗りになった従妹に目配せして一時休戦の意志を示す。こくり、と頷いた娘の目元もまた誇りを損なわれた怒りに吊り上がっていた。つまり停戦は受け入れられたのだ。

「では、この女性たちは? この方たちは貴族の令嬢だと伺いましたが、これでは……」

「野猿か猪の方がまだ品があるとお思いでしょう? かく言う私も全くの同意見です」

 息を殺し、耳を澄ませて拾い上げた侮辱は激高の炎の糧となる油であり、炎を煽って勢いをより凄まじくする猛風であった。わなわなと震える手に爪を食い込ませれば、小さな拳をそっと包むものがある。じんわりと染み入る体温の主を確信しつつも面を上げれば、やはり堅い決意を宿した瞳とかち合った。

 ――私はやる・・わ。あなたはどう?

 ――ここで引き下がる私じゃないってあんたが一番よく知ってるんじゃないの?

 舌が紡いだ音ではなく、眼差しと顔面の筋肉の動きを介して互いの想いを分かち合えば、仇敵との間とはいえ多少の繋がりが生じるもの。

 絶対に、この無礼な男達に謝罪させてやる。そのためならば、いがみ合う従妹と手を取り合うことすら厭わない。

「ちょっとあんた――お、あ、えっ!?」

 巴旦杏型の目と口角が持ち上がったつんと尖った唇のために、何もしていなくともどうして怒っているのかと尋ねられる造作は、目元を吊り上げると迫力がいや増す。美人だからなおさら怖い、と市場でぶつかって来ただけの子供に怯えられた顔で怒りの根源を威嚇せんと振り向けば、心臓が止まりかねない事実が飛び込んできた。

「あなたたち、さっきから黙って聞いていれ……な、ど、あ……」

 ゼリスリーザに一拍遅れて衝撃に直面した娘は、膝から崩れ落ちて平伏する。慌ててゼリスリーザも従妹に倣えば、押し殺されてはいるが豪胆で伸びやかな笑い声が降ってきて。

「土豪貴族の娘が俺に対してそんなに畏まらんでもいいだろう」

 武装した従士団を背後に従えこちらを見守るのは、濃紺の夜空から冷ややかに地上を見下ろす月と通ずる金色の頭部が目を引く、身なりの良い青年だった。

 代を重ねるごとに支配する民との混血が進み、すっかり同化してしまったとはいえ元来は征服者である大公一族の父祖の民特有の、青みがかった金髪。触れれば背筋が凍るのではと錯覚させられる冷ややかな、けれどもどこか若者らしい熱を放つ氷青色アイスブルーの双眸。

「俺は公とは名ばかりの、お前たちの父親や祖父が雇った傭兵の頭に過ぎない男だぞ?」

 そしてこの物言いから導かれる答えはただ一つである。

「も、申し訳ございません! 公が既に控えておられるとは知らず、とんだお目汚しを……」

 現サリュヴィスク公スリャトマール。公国の防衛を担う若き勇士にして大公の尊い血流を受け継ぐ貴人に働いた無礼を購うべく、床に額を擦りつければ、若き公はついに呵々と破顔した。

「貴族の女なんてのは、妹たちほどでなくともお高く留まったやつらばかりだろうと思っていたが、お前たちみたいな珍獣も稀に混じっているんだな。ま、妹たちとはほとんど他人同士だから、俺の前では色々と取り繕っているだけなのかもしれないが」

 罷免された先代の公に代わる新たな公としてスリャトマールが招聘された時、彼は五つになったばかりの幼児であった。強権的であった先代の公との闘争に疲弊した貴族たちが、自分たちの意のままに操れる傀儡として、まだ母のぬくもりを恋しがって泣き叫ぶ齢の幼子を選んだために。

 他の公国を治める家族との別離を強いられている青年が、父親に対するにも等しい尊敬を持って接していたのは、彼の父親ではありえなかった。公の権勢とは水面下で敵対する市長でも、はたまた大主教でもない、ましてイヴォルカ人にはありえない風貌の黒衣の男。仕立ては好いが質素にすぎる修道服に袖を通した彼こそは――

「イルペリック殿の国では如何なのです?」

 異国の支配者がはるばる派遣した使者に他ならない。

「そうですな……」

 ゼリスリーザの父とさして変わらぬ年頃の僧は、曖昧に口元を緩ませ、それきり口を噤む。

「いや、なに。むろん貴殿のルオーゼ王国の御婦人方は皆、花鳥さながらに洗練された淑女なのでしょう。しかし、ですがと言うべきか、ですからと言うべきか、王は案外このような猛獣を飼いならすのを好まれるやもと愚考したまで」

 貴殿の頭を悩ますには足りぬ細事ですので、と静穏な口ぶりで異国の修道僧の迷いを霧散させた青年は、

「公、定刻が過ぎました!」

「よし! だったらとっとと扉を締めろ。十分な時間を与えてやったんだから、辿りつけなかった女に後で泣きわめいて縋られても、適当に蹴飛ばしときゃそれで済む!」

 配下の従士に対してはやや粗暴にすぎるきらいはあるが豪放な長となる。

 いかにも重たげな音を軋ませ閉ざされる扉を片目で見やりつつ、もう片方で傍らの従妹の様子を窺えば、らしくなく不安げに唇を噛みしめていた。あのツェリサにさえ恐れるものがあったのだと、張りつめた面持ちが眼裏に焼き付いたのは何故なのだろう。

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