動かぬ石の下に水は流れない Ⅰ
公国中の未婚の土豪貴族の娘に激震を奔らせたお触れが公示され、はや一月後の公の邸宅。そのある一室を満たすのは、ほとんど適齢期を過ぎた娘から放たれる腐れかけ――もとい、完熟して甘い香りと黄色い声。そして、よくもまあこんなに集まったものだ、と感心してしまうほどの種々雑多な色彩だった。
右を向けばサグルクと呼びならわされるこの地の原住民の流れを汲む娘が、薄い亜麻色の三つ編みの毛先を手慰みに弄っている。くりくりとした、小動物を連想させる大きな翠の瞳は可愛らしい。けれどもこの地の理想の美女像の一つである、はっきりとした巴旦杏型の目とはかけ離れていた。その点、ゼリスリーザは亡き母から、これぞまさにイヴォルカ美女の目の典型だと讃えられる、気まぐれな猫の目を受け継いでいる。
亜麻色の髪の彼女には悪いが、この勝負に勝ったのはゼリスリーザだ。とはいえ彼女はゼリスリーザには及ばずとも十分に美しく愛くるしい容貌を備えているのだから、そのうちいい相手が見つかるだろう。だから、今回ばかりは相手が悪かったのだと諦めてほしい。というか、適齢期に差し掛かったばかりだろう彼女にはまだ時間があるのだから、こんな所に訪れていないで花の娘時代を謳歌していれば良いのに。これは嫁き遅れに齎された最後の、そして最良の幸福に至る道なのだ。十五になったばかりだろう小娘に邪魔されてたまるものか。
――私の往く手を阻むなら、大きさに関わらずどんな石も蹴飛ばして進んでやるわ。
固い決意を込めて長い睫毛に囲まれた双眸で往く手をねめつければ、視界に飛び込むのは、いずれも適齢期を逸したと思しき娘たちばかり。あと数年もすれば娘と自称すれば鼻で笑われる年頃になるであろう女たちは、皆自らの意志でもって名すらも耳にしたことがなかった王の妾となるべく立候補したのだ。
順守されているとは言い難いが、大公一族の父祖がイヴォルカの民皆が従うべきものとして定めた
公国の司法をも司る公の名において施行される決まりが、法典に背いていてはならない。であるがゆえに、ゼリスリーザは、何度も何度も、耳に胼胝ができるぐらいに、始めから終いまで流れをすっかり暗記し、詠唱できるぐらいに意志を確認されたのだった。
まず最初に、
「正気かよ、ゾーリャ姉!?」
「リョーヴァの言う通りよ! 姉さん、一体何考えてるの!? いいえ、何も考えてないのね!? ……まったく姉さんは美味しい話があるといつも目の前に人参をぶら下げられた馬みたいに飛びつくんだから!」
独り遠い異国に嫁ぐなど、自ら志願して辛酸を舐めるようなものだ。即刻考え直すべきだ、と叫ぶ弟や妹たちによって。
「父さんもこればっかりはライヤやレヴァンたちと同意見だな……。いくら大いに婚期を逃した崖っぷちの嫁き遅れでも、可愛い娘をけだものの餌としてくれてやる父などいるはずがないだろう? 父さんは、お前にも相応しい相手と神の名の下に結ばれ、幸福になってほしいんだ」
そして、磨き抜かれた水晶もかくやの光を頭頂から放つ父によって。
「……父さん」
涙ぐみながら自分を抱きしめる父の胸板は厚く逞しく、そっと耳を付ければ穏やかな脈拍が心にまで沁みこむ。侘しい頭頂とは対照的に豊かに――その勢いと生命力がほんの少しでも頭部に回っていたら、と触れるたびに漠然とした寂寥がこみ上げる髭が繁茂する顔はひたすらに慈悲深かった。
『お前は妹に何を吹き込んだんだ!?』
これがつい先ほど蟀谷に血管を浮き立たせ、悪鬼も裸足で逃げ出すであろう形相で兄に罵声を浴びせかけていた人物とは、俄かには信じがたい。
『どうしてお前とゼリスリーザは昔からこうなんだ!? お前たちの軽率さと要らん行動力と実行力は一体誰に似たんだ!?』
『それは多分……』
『口を慎め! アロミナを侮辱する者は息子でも許さんぞ!』
『僕まだ断言してませんでしたし、“父さんに”って言うつもりだったんですけど!?』
うかつにも、あるいは馬鹿正直にも暴風雨にまともに立ち向かう愚を犯した兄は、怒りの雷撃――激高した父による鉄拳を浴び、部屋の片隅で呻吟している。黙って嵐の終わりを待っていれば良かったのに。
鳩尾に重く鋭い一撃を叩きこまれた腹に、すっかり冷めてしまった夕食が詰め込まれていたら。兄は胃の中の諸々をぶちまけてしまっていたかもしれない。
「……酷いですよ、父さん」
と、兄の身を案じていると、苦痛にくぐもった文句が聞こえてきた。
「僕はただ、ゾーリャだって一回大失敗をすれば……愛妾として選ばれなければ、流石に自分の現状を弁えて選り好みしなくなるだろうと思って、この話を持ちかけただけだったのに……」
「ちょっと待って兄さんどういうこと」
ぽつり、ぽつりと漏れ出る独白は、一応はゼリスリーザの問いかけへの応えとなっていた。
「……美形がいいだの、金持ちと結婚したいだの、そんな夢を見て許されるのは、せいぜいが十八までなんです。なのにゾーリャはいつまでもこうだから、いい加減に夢から覚まさせてやらないと、と兄として妹の身を案じただけなのに……」
「そうだったのか。……悪かったな」
「主に私に対してね」
父はゼリスリーザの怒りを右から左に受け流し、僕はよく出来た息子を持って幸せだ、などと嗚咽を堪えている。が、対照的にゼリスリーザの目は乾き切ってしまっていた。
思い返せば兄には「毛色の変わった珍獣」だのなんだの、結構な暴言を吐かれていたような気がする。あの時は浮かれてしまっていて気づけなかったが、兄が動けない今こそ雪辱を晴らす絶好の機会だ。
「――兄さん、覚悟はいい?」
数多の悪童を下した黄金の右手を握り締め、狼狽える兄の腹部まで助走を付けて駆け寄らんとしたが、
「やめろゼリスリーザ! セスは今弱っているんだ! 拳を交わすなら互いの状態が万全の時に、正々堂々と。それが父さんとの約束だっただろう!?」
「兄さんを弱らせたのは父さんでしょう!? だいたい、私はそんな約束した覚えはないわ!」
「……
顔色を蒼ざめさせた父によって阻まれてしまって叶わなかった。
「お姉ちゃんたちなんだか楽しそうだね、お兄ちゃん」
「そうだね」
ちゃっかり者の三男ヴァルドミールと四女リュネミカは自分の麺麭をすっかり平らげていた。どころか、直ぐ上の兄の分にまで手を伸ばそうとしている。
「俺のメシに手を付けたらただじゃあ済まねえからな」
邪な企てを明敏に察知した次男は、小さな拳をこれまた小さな弟と妹の頭部に振り下ろした。
「リョーヴァお兄ちゃんに殴られた……!」
三男は涙目になって、末娘は大泣きしながら騒ぎ立てれば、始まるのは普段の騒乱に輪をかけて凄まじい渾沌である。わんわんと啼泣する末っ子を宥めるのは、すぐ下の妹の役目であった。だが残念ながら、彼女はゼリスリーザに先んじて幸福を掴みこの家からいなくなってしまったのだから、どうにもならない。
「リョーヴァお兄ちゃんだって、この前こっそりゾーリャお姉ちゃんが楽しみにとっておいた
「何ですって、リョーヴァ! 父さん!」
これ幸いとばかりに父の拘束からすり抜け、ばつが悪そうな顔をした次男の襟首をつかんだ手の力は、しかしすぐに抜けてしまった。
「今に始まったことじゃないけど、あんたたち一家はぴーちくぱーちくぎゃあぎゃあと煩いんだよ! ここは鳥の巣なのかい、ええ!?」
枯れ木めいた顔を憤怒に歪め、意匠化された花と七竈の実が刺繍された布の端を深い皺が刻まれた首元で結ぶ隣家の老婆は、立っていられるのが不思議なほどに痩せている。けれども老婆は、
「……すみません」
壮年の男であるはずの父は、悪戯がばれた子供に返ったかのごとく低頭し隣人に謝罪している。父は、母とほとんど駆け落ち同然に故郷を発ち、都に辿りついた当初からの付き合いがある彼女に頭が上がらないのだ。
「だいたいなんなんだね! さっきからお前さんは娘のことを食べたら腹を下す腐った肉だなんて言ってるけど、」
がくりとうなだれ降参と服従の意を示した父だが、老婆の追求は留まるところを知らなかった。
「いや、僕はそこまでは……口に出したことは……」
「ちょっと! それじゃまるで、言ったことはないけど思ったことはあるみたいじゃない!」
「……」
「どうして無言なの!? そこは否定してくれたっていいでしょう!?」
無意味に輝かしい後頭部をぽかりと叩けば、「……すまなかった」とくぐもった謝罪が大気を揺るがした。しかしその後、
「
との呟きを耳にしてしまうと、何故だか全身から力が抜けてしまった。ゼリスリーザが欲した謝罪はそれではない。
「あたしゃさっき煩いと言っただろう!? これ以上あたしを怒らせるんじゃないよ!」
海老そっくりに曲がった背筋をこの時ばかりはしゃんと伸ばし、老婆は嗄れた罵声を張り上げる。
「この娘を嫁き遅れにしたのは一体誰なんだね!? あたしの再三の忠告も受け流して“ゼリスリーザは美人だから、放っておいても求婚なんて山ほど来るだろう”なんて呑気に構えてたのは!」
想いの丈を全て吐き出したのか、老婆は鬼婆から孫を慈しむ慈悲深い祖母に早変わりし、膝をついた男の頬を枯れ枝の指先でそっと撫でた。
「愛娘を案じる気持ちは痛いぐらい分かるよ。でも、挑戦させておやりよ。なに、ゾーリャは確かにべっぴんだけど、淑やかさと気品が全くない。ついでに色気もなけりゃあ胸もない。こんな令嬢らしくないどころか女らしくない娘が他国に送る女として選ばれるなんて、万に一つもありはしないだろうから安心おし」
「……確かにそうだ! 太陽が西から昇るぐらいありえない!」
後光が射し込まんばかりの老婆の微笑と、父の即答にゼリスリーザはふと思った。ここまで貶される私って何なんだろう、と。こうなったら、絶対に愛妾に選ばれて、父たちを見返してやらねば気が済まない。
「流石のゾーリャも、サーシャが言ったように一回痛い目に遭えば学習するさ。そして顔がどうこうなんて甘っちょろいことを言わずに、今度こそ似合いの男の所に嫁に行くさ」
老婆は最後に、あたしの孫なんてどうだい、と片目を瞑る。
「悪いけどそれはお断り」
だがゼリスリーザは即座に断った。
「私、美形が好きだから」
太陽を西から昇らせるためには、迷いに繋がる備えなど切り捨てる潔さが必要なのだし、それ以上に老婆の孫息子は好みの男性像からかけ離れていたために。
ひとしきり確認したが、やはりどの女も自分の敵ではない。
娘は見た目ばかりは優美で慎ましやかな桃色の唇の端を吊り上げる。公邸に集った大多数はゼリスリーザの事情に似たり寄ったりの、家族や周囲の反対を押し切ってまで、条件が悪い婚姻に縋らざるを得なかった令嬢たちである。彼女らが集う広間にいると、自分が適齢期であった頃に還ったのだと錯覚してしまいそうで、だらしなく緩む口元を引き締めるのに苦労した。勝利の雄たけびを上げるのは正式に勝敗が決してからでも遅くはない。
黙っていれば神秘性すら漂う美貌。その一切を台無しにする笑みを引っ込めた娘は、視界にちらついた影に整った眉を顰める。
「……あんた、どうして?」
驚愕によって絞り出された声は周囲の喧騒にすら掻き消されなかった。
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