苦労しなくては池から魚を釣りあげられない Ⅲ
一点の陰りも雲影もない天は、勿忘草の青に染まっている。遮るもののない日差しは睨みあう二人の娘の髪は艶やかに、それぞれの背後に控える男の頭部は磨き抜かれた水晶のごとく煌めかせていた。
滴る緑の香気が入り混じる薫風が波打つ淡い金の毛先を弄べば、古びた銀貨さながらの銀褐色からは柔らかで優しげな光沢を放つ。
ついに訪れた決闘当日。互いの家族を――老齢の祖父は病床に伏す身であるがゆえに、領地から都まで赴いたはいいものの、到着するなりすぐに熱を出して公邸で世話になっているらしいが――応援として従え、更に物見遊山で訪れた見物人たちに囲まれながら、約束の刻が訪れるまで暇潰しがてら互いを口汚く罵りあっていたのだ。
「……逃げずに私にぶちのめされに来た覚悟だけは買ってあげるわ。――その不細工な顔、更に不細工にしてあげるから、覚悟していなさい」
「それはこちらの
従妹の唇の端が不遜に持ち上げられれば、ゼリスリーザもまた応じずにはいられない。
「何とでも言ってなさいよ、このブス! そりゃ確かにあんたの胸は大きいかもしれないわ。それはこの場の全員が認める事実でしょうよ。でも、あんたと私じゃ私の方が断然美人なことは、サリュヴィスクの代表たる民会も認めた事実なんですからね!」
見た目ばかりは清楚で慎ましい、野の花の可憐さを漂わせる口元を割ったのは、けたたましい勝利の雄叫びであった。
そも、公国の行く末を大いに左右しかねない大事である愛妾候補の選定が、公の独断だけで終わるはずもなく。一か月の勉強期間を終え、久々に我が屋に帰還したゼリスリーザは、その七日後に父と共に市長の屋敷に召喚された。当然だと受けとめるべきか驚くべきか。この地では聖堂などの一部の建物を除けば一般的とは言い難い、石造りの広間には、狼狽え憔悴した面持ちの伯父に付き添われた従妹の姿もあったのだ。
「おお、やっと揃ったのだな。……確かにこれはいずれも可憐な娘たちだが、」
尊大極まりない仕草で蓄えた顎髭を整えた市長はさも意味ありげに目配せする。すると、傍らの樽さながらに肥った中年男は、人間の食べ残しを発見した豚そっくりの笑顔を浮かべた。
「私の目には金髪の娘がより美しいと映るのですが、諸兄たちの意見は如何かな?」
ゼリスリーザが密かに「樽に入った豚。略して樽豚」と仇名した中年に続き、居並ぶ民会の構成員と名乗った者たちは、皆一様に首を縦に振った。つまり、ゼリスリーザの勝利は殴り合いを経ずとも確定しかけたのだが――
「お待ちください、諸卿!」
後ろから入った思いがけぬ邪魔によって、掌中に収まりかけた輝かしい未来は遠のいたのだった。
「ゼリスリーザは親の欲目を引いても麗しい娘ですが、中身はがさつで気品と淑やかさに――ついでに胸のふくよかさにも甚だ欠けた、不出来な娘なのです!」
ですからどうか私の娘を他国などにやらないでください、と跪いて懇願する父の真意は問い質さずとも痛いぐらい理解できる。父は、ゼリスリーザに行けば二度と戻ってこれないような遠い国で苦労をさせたくないから、涙さえ浮かべながら指を組んでいるのだ。
「どうか、どうか王の愛妾は姪のツェリサに! 姪は胸が示すように、嫋やかで女らしい娘だ! だから!」
「いや、ツェリサは令嬢の嗜みの一つである刺繍一つ満足にできず、一時課の祈りすら寝過ごしてしまうようなだらしない娘なんだ! その点ゼリスリーザは信心深く、縫い物も上手い!」
自身の娘は散々にこき下ろす一方で、互いの娘は猫の毛皮を虎の子のものとして売り込む勢いで称賛しあう兄弟の間で飛び交う火花は、ついに過去にまで飛び散った。
「だいたい、ツェリサは五歳になっても寝小便を垂れていたような娘で……」
「それを言うならゼリスリーザは去年、僕がやめろというのに黴が生えた茸を食べて三日三晩腹を下して……」
これ以上、自らの汚辱が晒されるのを黙って見ている訳にはいかない。怒りに燃える灰紫を除きこめば、薄い胸の内を掻き乱すのとまったく同じ決意が伝わってきた。
二人の娘は頷き合って前に進み、無防備に投げ出されている、己の父の足の裏目がけて踵と激高を振り下ろす。
「――っ、な、何をするんだ!」
「そんなことこっちが言いたいわよ!」
二組の親子は、一言一句違わぬ言葉をぴったり重ねて吐き出した。
「これは私たちの喧嘩なんだから、余計な口を挟まないで!」
蟀谷に青筋を浮かべた娘の気迫に怖れをなしたのか。父親たちは渋々ながらも頷き、また民会の構成員たちも果し合いの実行に異義を唱えなかったために、ゼリスリーザたちは今日を迎えることとなったのである。
「……ほんっと、あなたっていけ好かない女ね」
いかにも口惜しげに歪められた目で見据えられると、「あの姉ちゃん、凄い美人だけど胸が抉れてねえか?」との、不愉快極まりない一声によって貫かれた心臓の痛みも、幾ばくかは和らげられた。
「こちとら、あんたに好かれようなんて、生まれてから今に至るまで欠片も思っちゃあいないわ。だからどうぞご自由に嫌ってなさい」
ふふん、と鼻を鳴らして見下せば、従妹はそれきり黙ったきり。普段の彼女ならば「あなたが生まれた頃はまだ私は生まれてないわよこの年増!」ぐらいは即座に言い返すのに、一体どうしたのだろう。流石のツェリサも来るべき決戦の刻を間近に控えて、緊張しているのだろうか。
自らの命運をかけた試合が速やかに終わるに越したことはない。けれども、身体か心のどちらか――あるいはその両方に不安を抱えた相手と闘って勝利しても少しも面白くない。
ざっと観察したところ、頬の血色も肌艶も毛艶も良く、病の翳など跳ね除けんばかりに健康的なツェリサ。彼女が何らかの不調で悩んでいるとすれば、女ならば月に一度は訪れるあれではないだろうか。
様子がおかしいツェリサの身を案じたのは、ゼリスリーザだけではなかった。
「怖気づいたのならこの勝負を辞退しなさい。公には父さんが伝えるから」
娘の慄く肩にそっと手を置いた伯父の双眸に宿る憂慮は、一抹の侘しさが入り混じるがゆえに一層真摯であった。
「それに、こう言ってはなんだが、ゼリスリーザがお前よりも美しいのは、お前だって分かっているだろう? だから、今すぐ父さんたちと一緒に……」
「――お父さまはいつもそればっかりね」
挑発しているのか憐れんでいるのか。あるいは悲嘆に暮れているのだともとれる表情を、ツェリサは真っ直ぐに父に向ける。
「ゼリスリーザはそんなに……」
すると伯父はあからさまに狼狽し、誰ぞから頃合いよく差し出された
「……どういうこと?」
思い当たる節があるのか、肉の塊を喉に詰まらせたのか。恐らく後者であろうが、慌てふためいた父が身振りや手振りで飲み物を求めるのだから、追求をする気はすっかり失せてしまった。
ところで、ゼリスリーザには数段劣るものの、ツェリサも公の厳格な審美眼に適っただけあって、並み以上の器量は持ち合わせた娘である。癖のない毛髪に縁どられた顔は旬の果実めいた溌剌とした瑞々しさに彩られており、彼女の背後で、
「負けんなよ! あんたもいい女だよ、姉ちゃん!」
騒々しい野次が飛び交うのも当然であった。
「こんないい女を他国にやっちまうのは惜しいなあ。姉ちゃん、負けたら……いやいっそ決闘を今すぐ辞退して、俺の嫁にならねえか?」
円やかな肩と握り締めた拳を震わせる娘に、あからさまかつ性質の悪いちょっかいを出しているのは、赤ら顔をだらしなく緩めた商人と思しき男だった。
ゼリスリーザの父母同様、土豪貴族の男と平民の娘が結ばれるというのは、ままある出来事である。しかしその逆となると、当の男がよほどの資産家であるとか、従士団に加盟して他を圧倒する武勲を立てたのでなければ、娘の父親に拒絶されるのが決まりであった。しかるに誇り高き土豪貴族の娘に、酒に飲まれた末の世迷言であろうが求婚した男は、不精髭に覆われただらしなく緩んだ口元や、薄汚れた衣服からも普段の暮らしぶりが容易に察せられる程度でしかない。
その立派な胸を沢山可愛がってやるからよお、と男は不潔極まりない笑みを浮かべる。それから数瞬の後、男の鳩尾には重い拳骨がめり込む。しかしその一撃は、娘に許しがたい暴言を浴びせかけられた父親ではなく、武装した若者のものだった。
「――見物ぐらいは許すが、侮辱はもってのほかだ。覚えておけ」
若き公は、黒と紛うまで深く重厚な青に染め抜かれた外衣の裾をたなびかせながら、荒々しくはあるがどこか流麗な手振りで配下に命ずる。彼が纏う衣服に施された、豪奢でありながら繊細な金銀の刺繍は観衆を圧倒した。
「その酔っ払いは近くの河の浅瀬にでも放り投げとけ。そうすりゃ酔いも覚めるだろ」
「畏まりました」
鋭い双眸を冷徹に眇めた公も、恭しく一礼した従士も、先ほどゼリスリーザが抉れ胸呼ばわりされた際は微動だにしなかったのは何故なのだろう。と、件の男から慰謝料という名目でもぎ取った黒麺麭を齧りながら考えたのだが、答えは出せなかった。
「この勝負の行方を邪魔する素振りを見せた不届き者には、情けなんてかけてやる必要はねえからな」
躊躇いなく言い切った公は、愛妾候補の娘たちにせがまれて修道士が幾度か語ったエルゼイアル王のように絶世と称される美貌は備えていないが、十分に整った容姿をしている。
猛々しく野を駆り、獲物の喉笛を切り裂く狼めいた野生味溢るる美形。それも、このイヴォルカの地の主であるグリンスク大公の位に上り詰めるやもしれぬ高貴な美男子と来れば、周囲の娘たちが放っておくはずもなく。
「ねえ姉さん! 公の御姿は遠目で見たことはあったけれど、近くで眺めると一層魅力的なお方なのね……」
弾けんばかりの歓声を上げ、公に手を振る二番目の妹ライヤは、多少ならば奔放な行いをしても軽くたしなめられるだけで済む年頃だ。
「ゾーリャ姉! 俺たちが前会った修道士ってあのオッサンだぜ! ――なあオッサン、元気にしてたか?」
一方、周囲に響き渡る大音声で異国の使者に軽々しく話しかける無礼は、いかに年端もいかぬ少年とて許されるものではない。
反射的に亜麻色の巻き毛に拳を振り降ろしたまさにその瞬間。
「――ってえな、何すんだよこの暴力女!」
少年の甲高い非難を掻き消さんばかりの勢いで、聖堂の鐘が鳴った。つまり、決闘の火蓋は切って落とされたのである。
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