真実は目に痛い Ⅲ

「王の女としてなら――毛色の変わった珍獣としてなら、上手くやっていけるんじゃないかと思うんだ」

 公でも大公でもなく、王。耳慣れぬ称号に齎された混乱と、肩を激しく振盪される苦痛は、嘔吐感となって滑らかな喉をひりつかせる。

「――は? の女? 公や大公じゃなくて? 兄さん、何言ってんの?」

 長い睫毛に囲まれた巴旦杏型の双眸を二度、三度と瞬かせても、澄み切った湖水の瞳に映る兄は固く唇を引き結んだままで、ゼリスリーザの疑問に答えてはくれそうになかった。

 そも、このイヴォルカの地を統べる君主たる「公」とは、元来は選挙により指名される部族長や一族の年長者を指すに過ぎない称号である。イヴォルカがまだイヴォルカとも呼ばれていなかった、有力も弱小も様々な豪族が各地に割拠し競い合っていた原初。遙かなる西方の半島より訪れては荒れ狂う原住民たちを下し、推挙されて君主の座に就いたという伝説の残る公たちの太祖は、言い換えれば家臣の支持無くば玉座に坐すことを赦されぬ身であった。

 時を重ね世代は交代し公位の世襲は絶対の理となり、ただ一人の男の手に握られていた覇権と領土が彼の末裔たちそれぞれに分割されれば、当然諸公国の間には優劣の差が生じる。第一の都市グリンスクの主は、諸公の上に立つ公たる己の権勢を明白にすべく、己以外の公国の主に大公と名乗るのを禁じた。が、それとて禁じられたのは「大公」であり王ではなかったのだ。王という語彙は唯一神教の流入と前後して大陸中部南方よりこの地にも齎されていたのだが、この外国語由来の尊号は大公たちの気に召さなかったらしい。

 「王」という単語が今はもう亡き大陸中部南方の帝国の皇帝に認められた諸部族の首長という、自らの上に立つ神ではない存在を前提とした概念を含んでいるからなのか。はたまた、単純に父祖の伝統に倣うを良しとしたためなのか。そのいずれかなのか、あるいはどちらでもないのかは定かではないが、とにかくイヴォルカの君主たちは自らを王とは称しなかった。

 この地においては多くの場合、王とは南方の草原に跋扈する遊牧民。はたまた古代の栄光などすっかり消え失せ、小国が乱立する絶え間ない騒乱の地と成り果てているらしき大陸中部南方の長を意図して使われることになる。

「……ゾーリャ。あのな、」

 ――あとで菓子を買ってきてやるから落ち着いて僕の話を聞いてくれないか。

 兄の発言の終わりを待たずして慎ましく優美な唇をほころばせた娘の、豊かな髪に覆われた蟀谷こめかみは引き攣っていた。

「確かに私は美人よ。そりゃあもう美人よ。正直、交易に来ていた他国の使者に目を付けられて、妃として迎え入れたい――なんて求婚されても、驚かないわ。だって私はこんなにも美しいんだから、それぐらい当然でしょう? というか、今までそんなことがなかったのが不思議なくらい。……でも、とうとう来てしまったのね」

「多いに過大だとしても自分に確固たる自信を持っているのもゾーリャの長所だ。でも、頼むから少しだけでも僕の話を、」

 ふ、と憂愁とも自尊ともつかない溜息を吐き出した娘は、大きく硬い兄の手をそっと握る。触れればはらはらと舞い散るましろの花を連想させる清楚で儚い微笑は、鋭利な棘を隠そうともしない柑橘の花にも似ていた。

「兄さんが最近疲れ果ててたのは、外国のお偉いさんから私に申し込まれた縁談について思い悩んでいたからなのね? しがない土豪貴族と一国の主じゃあ、どちらに分があるのかは分かり切ってるから。でも、でもね……」

 使用人を雇う余裕すらもありはしない貧乏貴族の娘に生まれついた宿命の証でもある、長年の家事によって荒れ果てた、けれどもなお嫋やかな指。娘がその先端に込め、兄の肩に突きたてたのは怒りに他ならなかった。

「例え跪いて頼まれても、私は絶対に若くて美形で金持ちな男にしか嫁がないわ! そりゃあ、逞しい美形の若い首長や王とかだったら了承しちゃうかもしれないけど、むさくるしい遊牧民のオッサンなんて冗談じゃないわ! 樽か塩漬け豚肉ハムみたいに肥った好色親父も絶対に嫌よ! 分かったら、さっさとその縁談断ってきてちょうだい!」

 異民族や異国、及び特定の階級や年齢の人物への大いに誤った固定観念――権力に任せてうら若き娘を自分の物にしようとする辺境の男など、身も心も醜い粗暴な中年に決まっている――を暴走させた娘は暴れ馬であった。要するに、うかつに近寄れば噛みつかれ蹴り飛ばされかねない危険そのものであるのだが、

「……そんなことぐらい、僕だって分かってる。だいたい、どんなに自意識過剰で女らしさと落ち着きと、あとある一部分のふくよかさに著しく欠ける嫁き遅れでも、可愛い妹を進んで辛い目に遭わせる兄なんているはずないだろう?」

 七人きょうだいの長子の熟練の技術をもってすれば、荒れ狂う妹は無手で竜に挑むに等しい無理難題ではなくなる。

「実はな、とっておきの縁談……ではないけれど、それに近い話があるんだ」

「あら、そうなの? だったら最初からそう言ってくれれば良かったのに、兄さんったら!」

 人参を目の前にぶら下げられた牝馬は、舌なめずりして獲物の訪れを待つ猫に早変わりする。その速さは魔術的を通り越して奇跡的ですらあり、妹の変わり身の早さに兄が舌を巻いたのは道理であった。

「レヴァンやヴァルドミールが毎日騒いでいたからお前も当然知っているだろうけれど、今サリュヴィスクには異国の使節が滞在している。南の草原でも、大陸中部南方でもない、大陸中部北方を治める……」

「ルオーゼ王国、でしょう? 出来てからは百年ぐらいの若い国だけど、勢いがあって潤っている国らしいわね。毛皮も沢山買ってくれるそうだし」

 「イヴォルカ」の語源ともなった大公一族の父祖であるイヴォリ人。長きに渡り支配する民族と通婚を重ね、文化的にはすっかり同化し吸収されてしまった民の故地の支配者もまた、王と名乗っている。ゼリスリーザがそれを知ったのは、丸い頬を林檎色に染めて目にした感激を捲し立てる弟たちによってであった。

 あの悪餓鬼やその仲間たちは、市長の側仕えや護衛兵たちの隙を見計らい、異国からの客人に接近し言葉を交わしたらしい。一歩間違えれば国際問題に発展していたこと間違いなしの無謀が事なきを得たのは、相手が聖職に就いているらしき心優しい人物であったから。

 国は違えど崇める神は共通する二つの国。たとえ言葉は通じずとも、身なりや雰囲気からある人物の聖性や人柄を推し量るのはさしたる困難ではない。だが、それにしてもよくもまあやってくれたものだ。

『あんたたちはどうしてそんなに考えなしなのよ!?』

 拭いた覚えもないのに元通りになっていた頬を蒼ざめさせ、項垂れる弟たちに雷を落としたのはつい七日前の夕飯刻であった。

『でもあのオッサン、俺たちが色々教えてやると、すっげえ喜んでたんだぜ!?』

 礼に貰ったのだ、と弟たちが握り締めて離そうとしなかった小さな白銀の円盤を見やれば、刻まれていたのは竜と文字らしき文様。つまるところは、煌びやかではあるが実用には適さない異国の貨幣でしかなかったが、精緻な彫と曇りのない輝きは、鋳造した国の財力と文化の程度を十分に示していた。値打ちが高いであろう貨幣をそこらの子供に惜しみなく与える修道士の国は、またとない上客・・になってくれるに違いない。

「民会でも正式に国交を行うって決まったんでしょ? だったら兄さん、これから忙しくなるわね」

 ただでさえ馬車馬のごとき労働を強いられている兄の体調を案じ、滑らかな頬に手を当てた途端、華奢な手首を掴まれた。

「そう! それなんだよ、ゾーリャ!」

 仰ぎ見る兄の眼には、飛び切りの悪戯を思いついた子供とも、手塩にかけて育てた愛娘の嫁ぎ先が決まり安堵する老父ともつかない光が宿っている。

「僕たちのサリュヴィスクとルオーゼは、晴れて貿易国となった。だが、その証とするには何を贈ればいいと思う? どんな縁を結べば、永久の友好を結べるとお前は考える?」

 またとなく真剣な兄の眼差しにつられて熟考した末に思い浮かんだのは、古今東西使い古されてきた手段であった。

「……女――婚姻、かしら? やっぱり血は断ち切りがたい縁になるし、互いに親戚と思えばそのつもりがなくても自然と打ち解けて来るものだものね」

 もっとも、血が繋がっていても良好な関係を築けなかった例なんて、掃いて捨てるほどあるけどね。私とツェリサみたいに。

 心中でそっと呟いた文句に覚えた一抹の虚しさは、たちまち轟いた兄の歓声に掻き消される。

「やっぱりゾーリャは頭の回転が速いな! これもゾーリャの長所だ!」

「そりゃそうよ、兄さん! 長年の家計のやりくりで鍛えた私の頭を見くびってもらっちゃあ困るわ!」

「そうだな。ゾーリャは市場で格安の食材を見つけさせたら自称・・公国一だもんな。……あくまで自称だけど公国一賢いゾーリャならこの先も、今回の民会の結果もお見通しだろう?」

 現サリュヴィスク公スリャトマールは適齢期の姉妹を幾人か持つが、残念ながら彼女らは他の公国の公女であって、サリュヴィスクの政略には使えない。ならば次の候補とされるのは市長の娘であろうが……。

「そういえばあそこ、娘がいなかったわね。だったら親類の娘を選ぼうにしても、胸も膨らんでないような子供ばっかりで、今すぐ他国に嫁がせるってわけにはいかないし」

 ほとんど平原だと弟たちに笑われる自身の胸はさておき、娘は長い睫毛をそっと伏せる。齢の差がある婚姻など、特権階級においては珍しくもないだろう。だが年端もいかない幼女が独り異国で怯える様を想像すれば、痛ましさを覚えるのが真っ当な人間というものだ。

 公にも市長にも頼れないとすれば、残るは公国を支えるもう一本の柱たる大主教の出番であろう。しかし残念ながら今代の大主教は市長と交友という名の強固な鎖で繋がれており――友からの融資に任せて地位を買ったと評判の、更なる権力を所持させるのに躊躇わずにはいられない人物である。

 末端の末端。ほとんど底辺に近しくとも、仮にも貴族の娘であるゼリスリーザにだって、民会の裏に潜む思惑の一端の帰結は察せられる。

「お触れが出されるのはあと少し先だろうけど、もう決まったんだ。貧富を問わず土豪貴族の娘から公国の未来を担う重責に耐えうる娘を選び、ルオーゼの王の愛妾とするんだと」

 抑えきれぬ高揚で震える娘の拳をそっと包んだ掌は温かく、頼もしい。

「王は絶世の美女と讃えられていた母によく似た美男子で、まだ妃も嫡子もいない。上手くすれば、正妻になれるかもしれない。どうだ、ゾーリャ。このまたとない機会を逃すお前じゃないだろう?」

 首が千切れるぞと苦笑されるまでに勢いよく頷いた娘は、瑞々しい桃色の唇を釣り上げる。

 今に見ていなさい、あの乳だけ女。私を笑っていられるのも今のうちだけよ、と。

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