真実は目に痛い Ⅱ

 鐘が鳴っている。がんがんと、もういい加減にしてくれと叫びたくなるほどに。打ち鳴らされる鐘は、ゼリスリーザの頭の中だけに存在する幻想。二日酔いが織りなす幻であるとは理解しているが、それにしてもしつこかった。 

「あー、もう!」

 豊かな淡い金色の髪を掻き毟る。妹が嫁してからは七人となった家族を納めるにしては狭い、けれども温かな居間。そのほぼ中央に鎮座する瑕と油染みだらけの素朴な食卓に嫋やかな拳が叩き付けられても、何らかの反応を返す者はいなかった。

 父は弟や妹を従えながら、別室で久方ぶりに再会した兄と並んで腰かけ、年老いた父母や世襲地の村人たちの恙ない暮らしぶりを確かめているのだろう。

 父は、強権的だった祖父にしがない聖像画イコン職人の娘だった母との結婚を反対されながらも、母との愛を貫いたために祖父に勘当されていた。

 娘とは似ても似つかぬ心優しい伯父は、そんな弟夫婦や生まれた子供たちをひっそりと援助してくれていた。祖父が急な病に倒れたために家督を継いでからは、時には妻子を伴って頻繁にゼリスリーザたちの許を訪れてくれていたのだ。

 ――父さんはもうお前を赦している。最近はお前の子供たちに会いたいとしきりに零しているから、一度帰ってきたらどうだ。

 穏やかな目を潤ませ事あるごとに帰郷を促す伯父とは対照的に、父の心には未だ晴れぬ蟠りと祖父への畏れが巣食っているらしく、一度として頷いたことはない。けれども、数十年前に捨て去ったはずの彼らに寄せる思慕を捨て去ってもいないらしい。会いたいのなら素直に会いに行けばいいのにと思うが、それをできないのがしがらみというものなのだろうか。

 下級従士オトロクとして公国の運営を担うべく日々職務に邁進する兄セスは、既に市庁舎に赴いている。近々民会ヴェ―チェが開かれるらしいから、その準備に追われているのだろう。

 北に氷雪と針葉樹を冠し、南は冷涼な草原ステップや跋扈する遊牧民の危機と接するイヴォルカ。その中でもとりわけ北方に位置し、冬になれば凍てつく灰色の海と接するサリュヴィスク公国は、特別な地位を占めてきた。

 遙かなる西方の海に突き出た半島の最北端から追い出され、老いも若きも全てを引き連れ安住の地を求めて放浪した船を操る民イヴォリ人。大公一族の父祖でもある彼らが最初に降り立ち、旧来の支配者――ゼリスリーザたち土豪貴族の祖を束ねる公として認められたのは、このサリュヴィスクであるのだから。

 大陸東部から中部南方を流れる大河ヤールを北上し、都市国家グリンスクを築いていた南方異民族を下し彼らの交易拠点を奪ったイヴォリ人の首長は、彼の地を首都としたグリンスク大公国の建国を主張した。一子相続ではなく分割相続を良しとした父祖に倣い、当初は強大であった大公国は我が身と主権を削って幾つかの公国を産んだ。そうして諸公国とその主は、イヴォルカの地の覇権を賭けて血を分けたかつての兄弟たちと陰に日向に争い合っているのだ。

 けれども、始まりの都市たるサリュヴィスクは大公の遠戚を公として戴く他の公国とは異なり、サリュヴィスクでは一種の貴族共和制が認められている。サリュヴィスクの公に世襲は許されず、近隣諸侯国の大公の血筋の者を名目上・・・の君主として招聘する。つまり公国の行く末を担い決定するのは、あらゆる貴族から農民まで階層が議論を交わす民会であり、公は有事の際の防衛、教会の保護、及び裁判という任務を果たしさえすればよいのだ。

 万が一契約リャドを破り、彼がサリュヴィスクの民から税を取り立てたなら。あるいは、土豪貴族たちの権利を侵したならば。公は即刻民会において罷免され、公国から追放される憂き目に遭う。これが建国以来連綿と受け継がれてきたこの地の誇りであった。

 極貧ではあるが古い――もしかしたら支配者たる大公一族よりも古い血統を誇る貴族の娘として、ゼリスリーザは公国の執政の礎となるべく日々邁進する兄が誇らしい。そして、将来は公の従士団ドルジーナに入り武功を立てるのだと息巻き、木の棒を振りまわす弟たちは可愛らしい。口に出すと調子に乗ると分かっているから普段は決して言わないが、ゼリスリーザは二人の弟どちらともを愛おしく思っているのだが――

「うわ、やべ。見ろよヴァーリャ。ゾーリャ姉、寝ながらゲロ吐いてやがる。ほんときったねえな。顔面ゲロ塗れじゃねえか」

 道端に転がっていた犬の糞を踏んだ、と吐き捨てるのと大差ない物言いにこみ上げるのは、口内を苛める饐えた臭気への不快感をも薄れさせる怒りであった。

「ほんとだね、兄さん。おまけに隈も凄くて、昨日はしゃぎ過ぎたツケが一気に回って来たのか顔色も腐りかけた死体のみたいだし、百年の恋も冷める顔ってこんな感じなんだろうね」

 酔者の耳元でぎゃあぎゃあと小うるさく喚くのはやめてほしい。弟たちにとっては残念ながら、ゼリスリーザはただ起き上がる気力が湧き起こらないだけで、頭上で飛び交う失礼極まりない会話に耳をそばだてているのだから。

「ねえ、兄さん。流石に起こしてあげないと、姉さん危ないんじゃない? だって、赤ちゃんでもない、いい大人がゲロを詰まらせて死んだら、情けなくてお葬式でも泣くに泣けないよ」

 決まりだ。今夜の夕飯は弟たちが嫌いな野菜が入った煮物にしよう。弟たちが唇を尖らせ屠殺場に引きずられる家畜さながらに喚く様を思い浮かべると、どんよりと曇った胸に一筋の光芒が射し込む。そうすると、僅かながら薄い胸のむかつきが和らいだように感じられた。

「そうだなあ……。でもねえは寝起きが悪いから、無理に起こすと尻尾に火が付いた豚みたいに暴れるしなあ……。そしたら俺たちもゲロ塗れになっちまうかもしれねえだろ?」

「そうだね。この服、ポーリャ姉さんの結婚に合わせて仕立ててもらった新品だから、汚すのはちょっとね……」

 ――あんたたちが今着ているその服を縫ったのは誰だと思ってんのよ。それはこの私。あんたたちの美しく優しく偉大なる姉、ゼリスリーザ・マルトポルカナでしょうが!

 悪酔いという重石を背負わされていなければ、全くと言うほどではないがほとんど無い胸を誇らしげに張りながら、弟たちを呼び止められもしたのかもしれない。ついでに、かつての父のものにそっくりな巻き毛に覆われた二つの頭に拳骨を落とせもしただろう。しかし今のゼリスリーザでは生憎、腕どころか指の一本すらも己に意志に従わせられなかった。

 どうにか気力を振り絞って、近所の子供と勇士ごっこに励むべく家を出たらしき弟たちを追いかけても、この状態では途中で精根尽き果て倒れ伏すのがおちだ。ならば、然るべき時が訪れるまで英気を蓄える――という名目で身体を憩うことこそ、今のゼリスリーザが果たすべき責務である。

 今に見てなさい。とっておきの美味しい・・・・煮物を食べさせてあげるから。

 固い決意を抱きながら安らかなる眠りの世界に旅立って行った娘は、弟たちの押し殺された足音によっては目覚めなかった。長年着古しほつれが目立つ衣服に着替えた弟たちに水で濡らした布で顔面をごしごしと擦られ、すっかり清められた顔を無理やりにねじられ横向きにされても。

「どうせゲロで死ぬなら、ポーリャ姉さんの結婚式のメシじゃなくて、自分の結婚式の御馳走でにしろよな。そっちのほうがまだしも笑えるぜ」

 声変わりを間近に控えた少年特有の、澄んで高いがしなやかな芯が通った声が蒼ざめた頬を撫でる。

「兄さん、早く! じゃないと約束に遅れちゃうよ! だって今日は――」

「ちょっと待て! 今から準備するから!」

 今度こそ慌ただしく家から駆けだした二人の少年。彼らの行き先と目的は既に知れている。数日前にサリュヴィスクの鉛色の海を厳めしくも優美な船で波立たせた異国の交易船。そして齎される品物や噂に、少年たちは引きつけられて仕方がないのだ。

 晩御飯までには帰ってきなさいよ、と新たな不快感と熱い酸味に苛まれる喉は震え意味ある連なりを吐き出したのか。疲弊と刻みこまれた重石を手足に括りつけられ、安楽の海の底に沈んだ娘には何一つ分からなかった。

 

 妹の婚礼の翌日からゆうに七日後の午後。

「……ただいま」

 豊かだがどことなく生命力に欠けた、年々寂しさを増すばかりのある一部分を連想させる父の声。弟たちのまだかん高い叫び。そのどれとも違う、沈着ではあるが若々しい響きが狭苦しい室内に木霊する。もっとも、近頃はまさしく引き絞られた弓弦のごとしであった応えは、ついにぷつりと千切れてしまったのか随分と弱々しかったが。

「随分疲れてるのね、兄さん」

 お昼できてるわよ、とおかえりの代わりに呟けば、兄は疲弊にそぎ落とされたのか数日前よりややこけて見える頬を緩ませた。

「この匂いは、白身魚と野菜の肉汁スープだろう? だったら……」

「もちろん兄さんが好きな茸も入ってるわ。レヴァンたちに取ってきてこさせてたの」

 二番目の妹ライヤが運んできた木の器では、なみなみと注がれた汁が芳しい香気を立ち昇らせていた。白く揺らめく湯気の源に、穀物の滋味豊かな黒麺麭を浸し頬張れば、自然舌の根は解れようというもの。

「……ゾーリャ。お前には淑やかさとか気品とか落ち着きとか細やかさとか、あと胸とか胸とか胸とか、足りないものが色々ある」

「ちょっと待って兄さん。いきなり何言いだすの? そして最後なんて言った? ものすっごく聞き捨てならないんだけど」

 満たされたであろう腹を一撫でし、しみじみとした口調でゼリスリーザを貶し始めた兄は、妹の抗議と戸惑いを右から左に受け流した。

「だけどゾーリャは母さんに似て美人だ。正直、僕はゾーリャのいいところなんて顔と考えなしとも言い換えられる無駄に明るい性格と、家事の腕しか思いつかない」

「あ、そ。取り敢えず、褒めてくれてありがとう。だけど兄さんの夕飯のおかずは一品減らすわ。減らした分はもちろん私が貰うから」

「一品って。それ全部じゃないか」

 急に貶し出したと思ったら、今度は褒める。それも中途半端に。失言を挽回できない程度にしか。

 兄が何をしたいのか本当に分からない。仕事のし過ぎで頭がおかしくなったのだろうか。だとしたら、兄の異変は紛れもなく民会の準備に追われたために生じたのだから、公や市長ポサードニクに訴えれば保障してもらえるのだろうか。

「……まあとにかく、顔以外はどれも貴族の娘には大して必要ない――本当なら、僕たちの家にだって家内奴隷チェリャヂがいるはずなんだからな――長所だけど……もしかしたら……」

 半ば以上は本気ではない憂慮に嫋やかな弧を描く眉を顰めた娘は、成人した男の力に肩を掴まれる衝撃に、気ままな猫を連想させる淡い蒼の双眸を見開く。

 控えめに、だが喜々として兄が続けて吐き出した言葉は全くゼリスリーザの予想の範疇どころか、理解の枠内にすらも納まっていなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る