公国編

真実は目に痛い Ⅰ

 湖水真珠が縫い止められた頭飾りココーシュニクは伴侶との永遠の愛を誓ったばかりの花嫁の家に伝えられてきたものではないが、彼女の明るい亜麻色の髪の艶を引き立てている。

「そんなに泣かないでよ、姉さん」

 着飾った花嫁は咽び泣く姉に駆け寄り、大きな巴旦杏アーモンド形の瞳から零れる涙を白く細い指先で拭う。

 妹が夫となる青年の母から譲られた赤い衣裳サラファンの、釣り鐘型の裳裾がふわりと翻る様は、まさしく夢のように美しく、ゼリスリーザは零れる感動を抑えることができなかった。早くに亡くなった母を慕って泣いてばかりだった小さな妹が、こんなに立派になって、自分よりも先に結婚するなんて。

「せっかくの美人が台無しよ? 姉さん、私の結婚式で今度こそいい人を見つけてやるんだって言ってたじゃない」

「でも、でも……」

 高く通った鼻からだらりと垂れる液体を発見してか、花嫁の背は少々強張る。しかし彼女は姉の背に腕を回し、緩やかに波打つ淡い金色の髪を掻き分け囁いた。

「母さんが死んでから今まで、私たちを育ててくれてありがとう。でも、もういいのよ。姉さんはそろそろ私たちきょうだいの母親じゃなくて、しかるべき人の妻になるべきだわ」

「……プレクラーヤ!」

 熱い滴で曇る双眸には、洟に引き攣る妹の面は映らない。ゼリスリーザは迸る感情のままに妹を抱き寄せ、自分のそれと全く同じ、一掬いの木苺の甘煮の汁を落とした滑らかな乳色の頬に、悪戯っぽく吊り上がった口元に唇を、ありったけの愛情を落とす。

「愛してるわ、ポーリャ! 我が妹ながら、なんていい子なの!」

「ちょ、姉さんやめて」

 この祝宴が終われば完全に他の家の人間となり、自由に顔を合わせることはままならなくなる妹との別離を惜しみ、けれども門出を祝福しながら。

「頬はいいですけど、唇は僕にとっておいてくださいね、義姉さん」

 半刻前の飲み比べで並み居る酒豪を下し、勝利の栄冠と野太い喝采と公衆の面前で嘔吐する恥辱を――それも白豚脂サーロや酢漬けの茸やその他諸々を、家宝である熊の毛皮の敷物の上に盛大にぶちまけた義姉に対する新郎の態度は、暴れ馬を宥める際のそれだった。そして新郎は片目を瞑り、赤ら顔を崩し「飲め!」とがなり立てる友人たちの輪に加わっていった。要するに、彼は敗走したのである。

「ちょっと!」

 憤りと戸惑いに声を荒げる妻を置き去りにして。

 ずるずると啜られてもなお垂れる鼻汁と涙は、ゼリスリーザが亡き母から譲り受けた、父や兄の控えめな制止を右から左に受け流し公都一と自称して憚らない快活な美貌の一切を破壊していた。完膚なきまでに。それはもう見事に。

 普段は澄み切った湖水の柔らかな薄蒼を湛えた瞳は赤らみ血走り、婚礼に駆け付けた新郎の親類や友人一同どころか、残りの五人のきょうだいたちですら引き潮さながらに引かせる有様を呈している。

「お願いだからほんとにやめて。鼻水が衣装に付いたら今度こそお義母さまに怒られ……」

 もがく娘の形相は、水精ルサールカに河に引きずり込まれた溺者はかくありなん、と見る者の胸を突く焦燥で歪められていた。

「そんなことどうだっていいじゃない! これから滅多なことじゃ会えなくなるんだから、接吻ぐらい思いっきりさせなさいよ! そんなんじゃ女が廃るわよ!」

「女が廃ってるのは姉さんの方よ! 自分じゃ分からないだろうけどもうほんとに酷い顔してるから、お願いだから顔を洗ってきて!」  

「私の美貌は鼻水ぐらいじゃ損なわれないわ! だから大丈夫!」

 端に吐瀉物の残滓が付着していなければ、清廉な美しさ漂う薄紅の唇から覗く歯列は白く眩い。不必要な程に。

「ちっとも大丈夫じゃないわよ!?」

「またそんなこと言っちゃって! あんた、言ってたじゃない。“私たち姉妹で一番の美人は姉さんだから、元気出して”って」

 整った歯列を煌めかせた娘は根拠のない自信を漲らせ、白樺を思わせるすらりとしなやかな肢体には相応しいが、お世辞にも豊満とは評しがたい胸を張る。妹の本来の意図――世間一般の常識に従えば、三歳年下の妹に結婚を超されて焦燥しているはずの姉に手向けた、やんわりとした優しさと慰めを取り違えたまま。

「見ているかい、アロミナ。プレクラーヤはあの頃の君と同じ年になって、とうとう嫁に行ったんだよ。セスは立派に働いているし、ライヤとレヴァンとヴァルドミールとリュネミカも元気だ。ゼリスリーザは……まあ心配しないでくれ」 

 着飾った次女の麗しさと、由緒正しい土豪貴族ボヤールの血統と誇りを受け継ぎながらも娘の花嫁衣裳すら満足に揃えてやれぬ不甲斐なさに潤んでいた男の目は既に乾いていた。亡き最愛の妻に語りかけ、長女の醜態から逃避する中年の男の背中は侘しい。父の肩をそっと、励ますように叩く若者の笑顔も。

「元気出してください、父さん。せっかのポーリャの晴れ舞台ですよ?」

「……ああ。でもゼリスリーザが、な」

「ゾーリャが一生結婚できなかったら、僕が面倒みますから」

「そうか。……ありがとうな」

 ゾーリャ、とゼリスリーザの特別な愛称を呼ぶ兄と父は、何かを諦めた目をしていた。だがそのような細事を、妹の憐れみすら感じ取れぬ娘が気づけるはずもなく。

 二人の男が見つめる娘の自負心と己の容貌への誇りが、彼女の胸と同程度に控えめであったなら。密やかな溜息を押し殺す中年の男の前髪の後退は、生え際付近で食い止められていたのかもしれない。

 新婦の父の左の肩に、彼と同様かそれ以上に輝かしくも寂しい頭をした男の手が置かれる。

「マルトポルク」

「スヴャトマルク兄さん」

 娘を連れて姪の婚礼に駆け付けた男は、打ちひしがれる弟に頭部に勝るとも劣らぬ笑顔を向けた。

「ゼリスリーザは本当にアロミナにそっくりになったなあ。なに、あの美貌があれば大公の妃の座だって狙えるだろう。大いに婚期を逃していることぐらい、大目に見てやりなさい」

「しかし、兄さん。いくら美味い野菜だって、旬を過ぎたら後は腐るだけなんですよ……」

「食べ物は腐りかけが美味いと言うだろう?」

 父と伯父から腐りかけの野菜呼ばわりされた娘は、しかしにこやかに、満面の笑みを浮かべる。

「流石伯父さま! 分かってるう!」

 曇天の雲間から覗く一条の光芒のごとき微笑が、涙と鼻水と吐瀉物で穢されてさえいなかったら。さすればこのサリュヴィスク公国どころか、公国が位置する大陸東北部イヴォルカの全ての若者の憧憬の的となれたかもしれない。

 現に、新郎の友人の幾人かは呆然として締まりのない顔に、酒気によるものではない赤みを昇らせた。が、赤と黒の糸で刺繍が施された襟元に飛び散る汚れに、速やかに現実に引き戻されていった。壊れた楽器よりも耳障りな調子はずれの歌声もまた、黙っていれば神秘的ですらある美の崩壊に拍車をかけている。

「さあ、一緒に歌いましょう! まずは私の得意な――」

「……お前に得意な歌なんてあったのかい? 伯父さん、初耳だよ」

 口を開かなければ街一番の美人。

 密やかに囁かれる仇名は、弟たちには無言で耳を塞がせ、番犬を呻らせ毛を逆立てさせ、幼児には老婆妖怪キキーモラの金切り声かと怯えられる泣き歌を披露する娘には届かなかった。

「……これでまたお姉ちゃんの婚期遅れちゃうね」

「……そうだね」

 遠い目をしながらも、黙々と滅多にありつけぬ御馳走を口に詰め込む妹たちの呟きも。

「やめてえぇぇぇぇ姉さん! お義爺さまが、最近心臓が弱ってるお義爺さまが勘違いしちゃってるから! 死天使アルコノストの迎えが来たのかって、震えてらっしゃるから!」

 七番目の天に浮かぶ鳥たちの天国に住まう、世界卵を産んだ火の鳥の双子の従者の片割れ。悪人の魂をその歌でもって苦しめる死天使の囀りもかくやの響きは、一番鳥の泣き声が白みゆく夜闇の静寂を切り裂くまで終わらなかった。

「……いくらポーリャ姉さんのお祝いだからって、調子に乗るからだよ」

「そうだぜ。一人で樽を空にするのはやけ酒が過ぎるぞ、ゾーリャ姉」

 二人の弟に引きずられながら家路を歩む娘は慎ましやかな口元を噛みしめる。胃の腑からせり上がり、喉を灼く酸味は口内に留めようにも留まってくれなかった。

「……う、」

 細く嫋やかな、しかし長年の家事によって荒れ果てた指が汚濁に塗れる。

「うわ、汚ねえ!」

「吐くならせめて隅っこでにしてよ!」   

 悲鳴ともつかない罵声を轟かせながらも姉の背を摩る弟たちの手は温かい。

「……あなたは相変わらずね、ゼリスリーザ。無いのは胸だけで十分でしょうに、貴族としての品すらもないなんて」

 しかし、高みから投げつけられた澄んだ声――一歳年下の従妹からの嘲りは、氷雪のごとく凍てついていた。ぬるつく口元を手の甲で拭い、ふらつきながらも立ち上がった娘に投げかける、たわわなふくらみの下で誇らしげに腕を交差させる娘のくすんだ紫の視線も。

「……私とあんたはいつの間に父称なしで呼び合う仲になったのかしら?」

 イヴォルカ人の名の後に付く「誰々の息子、娘」を意味する父称は敬称としての役割も果たす。個人によって線引きはまちまちだが、ある程度の親しさを共有しない相手とは父称を付けて呼び合うのが礼儀に適った作法だとされているのだ。しかしそれはあくまで他人同士の場合なのだが――

「ゼリスリーザ・マルトポルカナとお呼びなさい。ツェリサ・スヴャトマルカナ」

 幼少期から互いの品の無さを競い合うかのごとく悪口雑言をぶつけあっていた娘たちは、その限りではなかった。

「ええ、分かったわ。嫁き遅れのゼリスリーザ・マルトポルカナ。……これで文句はないかしら?」

「な、な、あんた……今、」

 歪められた口元から零された真実は、氷柱よりも鋭く薄い胸を貫く。

「まさか反論なんてできる訳ないわよね? 妹に先越された女を世間がどう呼ぶのかなんて、あなただって知ってるでしょう?」

 必死に目を背け続けていた、しかし違えようのない現実は残酷だった。

 冷酷な刃で切り拓かれた胸から迸る苦痛の勢いを鎮めるのは、他者の苦痛に他ならない。

「――黙りなさいよ! あんただってもう十八のくせに! あと半年もすれば嫁き遅れになるくせに! というかもう嫁き遅れの領分に豚みたいな片脚突っ込んでるくせに!」

「……な、なあんですってえぇぇぇぇ!? 胸が平原のあなたに体型を馬鹿にされる筋合いはないわよ!」

 二人の嫁き遅れは蒼ざめた顔の互いの家族が見守る最中、取っ組み合いの喧嘩に没頭する。

 髪を引き、頬をつねっても勝敗は決しない。ゼリスリーザは憎たらしい従妹に馬乗りになり、柔らかな頬に平手を打ち付けたが、

「ぅ、ぐ……」

 代わりに鳩尾に小さな拳を埋め込まれてしまった。暴飲暴食に苛まれた臓器に溜っていた、僅かながらの内容物は逆流し、引き結ばれた唇をこじ開ける。

「きゃ、きゃあぁぁぁぁぁ!」

 慄く娘に降り注ぐ濁りは晴れやかな空の下で見ても――否、だからこそ汚らしかった。

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