黄金の羽根を掴め

田所米子

扉は開けてあるか閉まっているかのどちらかだ Ⅰ

 膝の上の幼児のふっくらとした頬には、燈火の炎だけではない輝きが灯っていた。細く柔らかな髪が戴く白い輪は、黄金の冠にすら勝っている。彼がまだ首の座らぬ赤子だった時分から、暇な折には洗い上げ香油を塗りこめている髪は芳しく、愛おしい。この髪だけではなく、抱えた子の全てが。

 やや癖がある毛髪の手触りは絹に似ていて柔らかく頼りない。うっすらと紅潮した肌理細やかな頬も。硬い指先で突くと、柔肌に丸い光輪が浮かびあがる様はこの上なく愛らしかった。

「くすぐったい」

 高く澄んだ笑い声が弾けると、胸の奥が締め付けられる。

 これは、自分が命に代えても庇護し慈しまなければならぬ存在なのだ。もう何度目になるかも分からぬ誓いを噛みしめ心に刻みながら、男は小さく形良い頭をそっと撫でる。

「そんなことより、早くめくってよ。ぼく、はやくつづきがみたいんだ!」

 整った薄い唇は不満げに尖らせられているのだろう。幼いながらも怜悧で端正な、神が人間に与えた奇跡を体現した容貌には不釣り合いですらある無邪気は微笑ましい。

「ごめん、ごめん」

 鞣した羊の皮の上で繰り広げられているのは種々の顔料で構成された煌びやかな聖人伝の一幕。神の加護を授けられた槍を携え、劫火を吐く海獣に挑む聖者の表現は、成人した男の目には様式化され硬直してしまってさえいる。が、稚い幼子にとっては歓声を上げさせるに足る躍動を醸し出してもいた。

 ふと目を伏せれば、眼裏で主君と机を並べ居眠りをしては教師に拳を貰っていた少年時代の思い出が蘇る。領地を得た祝いだとかつての神学の師に強引に押し付けられた装飾写本がこんな形で役に立つとは。

 ――僕がこのぐらいだった頃は、鳥の巣を観察するために樹に登ろうとして失敗して、母さんと爺やと婆やを心配させて、父さんと兄さんには笑われてたらしいけどなあ。

 幼かった頃の男は、頬と手の甲を擦りむいただけの我が子の許に、顔面を蒼白に染め翻る裳裾も物ともせず、駆け寄ってきたという母の焦燥が分からなかった。だが、現在の男にならば理解出来る。

「ねえ、やっぱりすごいねえ。たったいっぽんのやりだけで、やまよりおおきなかいぶつをたおすなんて」

 ほうと溜息を漏らす我が子が同じように手傷を負えば、男は彼の安全を確かめるまで何度も問いかけるだろう。怪我はないか。痛かっただろう。怖かっただろう、と。

 ぱちぱちと瞬く長い睫毛に囲まれた一対の翠緑玉エメラルド。人目をはばかるためにすっかり荒れ果てた庭園で繁茂する薔薇の若芽よりも深く鮮やかな双眸は、いかにも幼子好みの挿絵だけではなく、渦巻き交差する鳥の脚の枠で囲まれた角ばった文字列をも追っている。

「ねえ、これは? これはなんてよむの? どんないみなの?」

「ああ、それは“馬”だよ。騎士様が跨ってる、大きくてかっこいい動物のこと」

「ほんと? でも、まえにのせてくれた馬はちゃいろだったのに、これはしろだよ」

 竜に守られる財宝さながらに普段は館の奥深くに秘め隠される子供の興味は尽きない。

「白でも茶色でも、馬は馬なんだ。カインも僕や爺や婆やとは色が違うけど、同じ人間でしょ?」

「そっかあ。そうなんだ。この馬はぼくとおなじなんだね」

 竜退治の英雄の半生を時に簡明に、時に美化しながらも綴った文章を読み解くのは、文字を習得したばかりの幼子にはいささか荷が重すぎるだろう。蝋引きした板を与えて幾ばくもしない後に、誇らしげに自分と男の名を刻んだそれを差し出した子供にならば、あと一月もすれば容易に乗り越えられる、困難ですらなくなる困難であろうが。

 親の欲目を差し引いても非常に利発で快活な彼の幼い指は、男が支える装飾写本の貢のあちらこちらを気まぐれに指し示す。 

「じゃあ、これは?」

 甘い蜜を求めてひらひらと蒼穹を舞う蝶のような幼い指は、明日の生命の安全すら定かでない苦難に挑む英雄と、その両親の別れを哀切たっぷりに記した一文に留まった。子供らしくぷっくりとした、けれどもやはり名匠の手による彫像のそれと見紛う、至上の芸術品のような指先。温かな五指は幼子が初めて言葉を発した日の、生が続く限り決して色褪せぬ喜びを蘇らせる。

 ――おとうさん。

 生まれ落ちたばかりの赤子を産湯で清める暇すら惜しみ、逃げるように――否、男は実際に逃げたのだ。命と生涯の忠誠を捧げた主君を欺く罪に震えながらも、掻き抱いた生命を守るために――屋敷に連れ帰った赤子が一人立ちを覚え、転びながらも男の腕に飛び込んできた瞬間の歓喜は今なお太陽よりも輝いている。

「それはね、カインにとっての僕、だよ」

「ふうん。ありがとう」

 明るい緑の瞳を在りし日の歓喜の名残に潤ませた男とは対照的に、幼子の応えはややそっけなかった。彼の関心は、答えが得られた単語からは既に離れ、その隣に移ってしまっているのだ。

「じゃあ、これは?」

 絶世の美貌が、誤魔化しを赦さぬ眼差しが、男を貫く。

「これはぼくにとってのなんなの?」

 翳る新緑と煌めく深緑。交錯する二つの緑は、やがて書面に降りて無垢な指先が指し示す単語に縫い止められる。馬の仔も猫の仔も、そしてもちろん人間も。全ての動物が持っているはずなのに、伸びやかな手足をばたつかせる幼子からは隔てられた穏やかなぬくもりに。

「それは……」

 狼狽え己が不甲斐なさを噛みしめる男は子供の期待に応えられなかった。

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