第3章 第2話 兎モフモフナデナデと

「いた~い!」

 普段通りに動き出した五星エアコン工場のライン――そうして、昨日と同じように、夜恵は練習用のラインで指を痛めていた。


「……夜恵、大丈夫?」

「うん、やっぱり痛いよぉ」

「そう……それなら、休、む?」志稲は隣のパレットに腰を掛ける兎をチラリと覗き見た。


「………………」

 およそ、志稲は昨日のように夜恵を甘やかしたために、兎が何か言うのではないかと思ったのだろう。しかし、兎は深くため息を吐くだけで一切反応がないのである。


「……むぅ」夜恵は一度頬を膨らませると、作業の手を止め、兎の横に腰を下ろす。「う~ちゃん、う~ちゃん」


「ん~?」兎は顔を動かさず生返事。

「う~ちゃんさ、まだ元気でない?」こうやって躊躇なく相手の心を聞けるというのも、夜恵の良いところなのかもしれない。「ぎゅってしようか?」


「……そんなことされたら、出血多量で死んじまいますぜぃ」兎は力なく笑い、そっと夜恵の頭に手を置いた。「あ~、ごめんな、もう大丈夫ですぜい。ウジウジしててもしょうがないですぜぃ……若にも面倒掛けちまいましたねぃ」


「………………」夜恵は兎のその言葉を聞いた後、大きく息を吸った。そして、兎の肩に手を置くと、グッと思い切り引き寄せ、そのまま抱きしめた。「うりうりう~ちゃん、これでどうだぁ」


「うぉあ! ちょ、おま――」

「嘘つき」そう言って、夜恵は兎の唇に指を添える。「大丈夫な人はそんな顔しないんだよ? う~ちゃん嘘はいけないって言ってたのに、自分が嘘吐いちゃ駄目じゃん」


「お、おう」兎がたじろぎ、夜恵にされるがまま。

「う~ちゃんのことさ、最初はどうしようもないオッサンだと思ってたんだけど、2日間面倒見てもらって意外と優しいことに気づいたんだよね」否定は出来ないが、あまりにも正直すぎる認識だろう。「私はね、優しいう~ちゃんが好きよ。だからね、こうやってな~でなで――」


「………………」兎は夜恵から受けるなでなでを拒否することもなく、ただただゆっくりと受けていた。その表情はどこか安堵しており、普段のように鼻血を出すこともしない。「なぁ、嬢ちゃん」


「う~ん?」

「嬢ちゃんモテねぇだろ?」

「ぬわ! な、なんでわかったの?」狼狽える夜恵に微笑んだままの兎。「う~、セクハラ?」


「嬢ちゃんにそれを言われっとはな」

「それがどういう意味かはわかんないけれど……うん、モテないよぉ~だ! う~ちゃんと一緒。男友だちはいたんだけれど、みんな私に恋人は出来ないって言うんだよ」


「だろうな」兎は夜恵から体を離し、その頭を先ほどより強く優しく撫でる。およそ、兎もその夜恵の男友だちと同じように夜恵には恋人は出来ない。と、理解したのだろう。「嬢ちゃん、変な男に付いてくんじゃねぇぞ? 若、日常生活でも嬢ちゃんと一緒にいてやれな? 若なら大抵の男なら一撃だろうし」


「……ええ。あなたに、言われなくても」

「え? う~んと――って、違う! 私のことは良いの! 今はう~ちゃんのことなんだから」


「おぅおぅ、悪かった悪かった。だから膨れなさんな」兎は夜恵から手を離すとその場から歩き出す。すると、ちょうど作業終了のチャイムが鳴り、休憩時間に入ったのである。兎は煙草を取り出すと、火を点けず、咥えたまま喫煙所に向かう。


「ワンコはさ――」

 夜恵と志稲は顔を見合わせ、兎の背中をついて歩く。

 前を歩く作業員たちに目もくれず、兎はポツリポツリと言葉を放つ。

「あっしはワンコがどんだけ悪いことをしても悲しくはないんでさぁ。盗みをやろうが、人を殺めようが……そんなことしたらぶん殴って更生させるだけですぜぃ」喫煙所までたどり着いた兎は壁に寄りかかり、煙草に火を灯す。「けどな、今回はなんつうか……とんでもなく悲しくなったんでさぁ」


 兎はワンコとは友人関係ではない。と、言う。悪いことをしても突き放したり、その罪を容認したりしない。最早、親心のようなもので、そういうことがあったらずっと面倒を見るんだと笑う。


「……若はここに来て2年とちょっとだろう? ちょうど、ワンコと入れ替わるように入ってきて、あんまりワンコを知らないんだったか?」

「ええ。1,2か月ほど、一緒に」


「あいつは中卒で学もねぇ、人を疑うことも知らねぇのアホの道のプロだ。けどよ、ここの工場に来て、そりゃあもう頑張ってたわけだよ。頭悪くても何とかついていこうと必死になっててよぉ……」5年間工場に勤めていたワンコは2年ほど前にここを去った。その際に兎を正社員にするために偉くなると言っていたり、他の作業員に対して、この工場の劣悪な環境を改善すると言ったりと、本当にこの工場とここの作業員を好いていたことが窺えた。「そんなワンコがこの工場を潰すなんて言うのが……な」


 兎にとって、罪を犯すことよりも一緒に汗水たらしたこの場所を、ワンコが蔑ろに扱ったのが何よりも悲しいのである。


 十代の頃の5年というのは恐ろしく長く、そして人生において最もコロコロと心と頭が変わる時期をワンコはこの工場で過ごしたのである。それを兎もわかっているから、尚更ここを失くすという選択をワンコがしたことにショックを受けているのだと話す。


「……あいつにとっての、ここでの5年っつうのは何だったんだろうなぁ」

「う~ちゃん……」顔を伏せる兎に掛ける言葉が見つからない。志稲も、同じように煙草を吸っている作業員も――当然である。基本的にお調子者の兎がここまで表情を暗くし、それだけではなく、自身の後輩であるワンコに対してとてつもなく深い心情を抱いていたのである。一体、誰が彼を慰められるというのか……しかし、そんな周囲の空気を吹き飛ばすかのような春一番――喫煙所の扉が別の作業員によって開けられた瞬間、それはその場にいる全員の目を奪った。「それじゃっ、行こっかう~ちゃん」


「は? 行くって――」

「目に届く場所にいないから心配になるんだよ。だから、変なことしないように縛って連れてきて閉じ込めちゃおう」満面の笑顔で何てことを言う女の子なのだろう。「う~ちゃん、思ったことすぐに口にするくせに、行動力ないよね? そんなに悩むんなら、会うのが速いんだって」


 それは太陽のような明るい笑顔――鉛色した表情で、早く作業が終わるのを常に考えている作業員には眩しく映るだろう。

「い、いや、うんな時間も――」


「もう! たかが1日がなんだっていうのよ。どうせ時給なんだから、この工場では大した損害にはならないでしょ」止めて差し上げろ、その言葉は……兎に効く。

だが、夜恵は止めない。先ほどからの暗い顔とは種類の違う兎の顔を手で持ち上げる。「きっとみんなだって良いって言うよ! むしろ、元気のないう~ちゃんを見てる方が絶対イヤだと思うもん」


 夜恵は周りの作業員たちに視線をやり、首を傾げて見せる。


 すると、他の作業員たちは口ぐちに「しょうがないな」や「志稲ちゃんや工場長にボコボコにされてるウサ公がいないと元気でねぇ」などなどを言いながら、兎の背中を叩いている。


「……おっさんたち」兎が感極まってなのか目頭を押さえ、鼻を啜り大きく息を吸う。「――ったく、しょうがねぇ野郎たちですぜぃ。あっしが騒がしくしてやんなきゃ辛気臭くてたまんねぇですぜぃ」


「う~ちゃんう~ちゃん」周囲が兎の言葉によって笑いに包まれる中、夜恵が兎の袖を引っ張る。「う~ちゃんもおっさんよ?」


「ちょっと黙っててくれな?」

 夜恵の言葉で兎は腹の内を決めたらしい。頬を叩いた兎は作業員たちに兎なりの感謝を告げると、そのまま煙草の火をもみ消し、喫煙所の扉に手をかけた。

 しかし――。


「お?」

 突然騒がしくなる工場内――兎は志稲に視線を向け、すぐに喫煙所を飛び出した。

 夜恵は何が起きたかわかっていないような顔をしているが、異常事態であることは察することが出来たのか、兎と志稲の背中を追うのである。

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