第2章 第2話 残業増やすのならせめて金曜日にしてください。水曜日で4日連続とか止めて
「あ~……」
「……一体、どうした、の?」うな垂れる兎を特に心配もしていなさそうに、普段通りの表情で指差す志稲。「……あんまり、伏せっていられる、と、鬱陶しい」
「し、志稲。えっとね――」夜恵は志稲に先ほど金剛から聞かされた話を聞かせる。「だからね、う~ちゃん元気なくなちゃって」
「ああ、ワンコさんのこと」
「う~ちゃんも言ってたけど、ワンコ?」
「うん、犬っぽかったから、みんな、ワンコって」兎も言っていたが、乙愛以外には尻尾を振っているように見えたとのことだが……。「えっと……夜恵と同い年、だけれど、見た目、と、中身は小学生くらい、かも」
成人男性に対する評価ではないのは間違いない。
「……夜恵と、違う意味で危うい、かも」
「もう、志稲までそんなこと言って。私、別に子どもっぽくないでしょ?」
「え? あ、うん――」断言しよう、志稲は夜恵に甘すぎるのである。「え、えっと、や、夜恵は……うん、あ、飴玉じゃなくて、ちょっと高いお菓子じゃないとだもんね!」
「……ワンコ、きっとお菓子をチラつかされて悪いことを鵜呑みにしちまったんですぜぃ。飴玉と一緒に飲み込んじまったに違いねぇ」兎は夜恵の手にはちみつ(きんかん)のど飴を握らせると辺りを見渡す。「嬢ちゃん、飴ならあっしがやるから、変な人に付いていくんじゃねぇですぜぃ? ワンコは付いて行っちまった……」
「私、別に飴玉一つで誘拐されないからね!」と、夜恵は言うのだが、嬉しそうに飴玉を口に放り込む様は紛うことなき危機感のないお子様。「この飴、おいひぃ」
「……欲しいものあったら言えな? 明日持ってくるですぜぃ」
兎は相当にショックを受けたらしく、およそ似たように危うい夜恵に対して過剰なまでに過保護になっているようである。
「……もう」志稲が呆れたように息を吐くと、兎の背中を思い切り叩く。
「がはっ!」……そして、吐血する兎。
およそ、元気付けるための発破なのだろうが、意外にパワー系な志稲の一撃は、まるでボーリングの球を手に固定して勢いをつけて殴られる威力に匹敵する。
「あ、あれ――?」志稲の顔が困惑の色を染まるが、咳払いを一つし、うな垂れる兎の腰を無理矢理真っ直ぐにする。「……別に、あなたを励ますつもりはないです、けれど――鬱陶しいから、言う。たかがワンコさんに何が出来ますか」
「え? 志稲、それ励ましてない――」
「確かに!」
ワンコは何も出来ないのである。
「え~……」志稲の言葉で表情を明るくする兎に、あの夜恵が苦笑い。「まぁ……う~ちゃん元気になったし、いっか」
上機嫌な兎に頭を揺さぶるように撫でられている夜恵の姿があり、どことなく満足げに夜恵は志稲にウインクを投げた。
「……さっ、体操始まる、よ」志稲の言葉に被さるように、幼き頃の夏休みに何度も聞いた懐かしいメロディーが工場内に響き渡る。
ラジオ体操――昨日、乙愛に言われた通り、夜恵は一番後ろで体操をしている。
ちなみに、先ほど兎が言っていたように今日の朝礼は食堂では行われない。そもそも、食堂での朝礼は月に1回から10回ほどしかやらないのである……乙愛の気分と独断で決められているのである。
そして、普段の朝礼は各班の作業員が指定された場所に集まり、班長から昨日乙愛が話していたような進捗や注意事項を伝えられるのである。
つまり、夜恵と志稲、兎は金剛の班であるため、ライオン、カバ、シマウマ、包装する担当ラインのその他大勢の作業員と一緒に集まっているのである。
人数にして、100人いるかいないかくらいである。
そして、その朝礼をする場所――ライオンラインと少し離れたシマウマラインの間にあるそこそこ広い通路でラジオ体操を行なっている。
「いっちに、さんし~――」夜恵は相変わらず体を大袈裟に動かしているのだが、ふとすっきりしたような顔をしている兎を見て、悪戯っ子な笑みを浮かべる。「う~ちゃっん!」
「おぉ? あ? は――?」夢見心地な表情から一変――兎がゆっくりと首だけを動かし、一瞬間、背中に抱き着いた夜恵を眺める。「……ふに? むに? 夢と……希望?」
「う~ちゃん?」
「――ブグハァッ!」決壊。それはもう見事なまでに――例えるなら、ダムの放水。真紅が混じった鉄砲水……兎はトサッ、と、顔面からコンクリートの床に倒れた。
「………………」夜恵は肩を竦め、もろに血を背中に浴びてしまった作業員に会釈をし、呆然としている志稲にサムズアップ。「志稲の真似!」
「む、無理があるよ夜恵っ」
先頭で作業員の方を向きながら体操していた金剛が頭を抱えているが、今は鼻を中心に顔が血まみれの兎をどうにかするべきだろう。しかし、近くにいた作業員たちは一度笑っただけで体操に戻っており、いかに兎の扱いが酷かったか窺えるだろう。
そして、兎が起き上がることのないままラジオ体操は『フィナーレ(しんこきゅう)』に入った。
「……いやぁ、びっくりしたぁ」大きく息を吸った夜恵が倒れている兎を横目に苦笑い。夜恵の言い方ではまるで想定外。と、言っているように聞こえるが、この事態を想定していなかったのなら、一体昨日1日何を見ていたのだと問いたくなる。「う~ちゃん、さっき慣れてくれるって言ってたのに」
「……夜恵、もうちょっと、時間かけなきゃ、ね?」
「そっかぁ」
30分も経っていないのだが、夜恵はこの少ない時間で兎の35年間を覆せると思っているのだろうか? だとしたら相当なスパルタものだが……およそ、何も考えていないだろう。
そうして、夜恵と志稲が会話をしていると、先頭にいる金剛がメガホン片手に口を開くのが見える。
「あ~……おはよう」金剛が作業員全体に視線を向け、一度頷くと話し出す。「まずは生産の進捗――シマウマがプラス3、カバがプラス550、ライオンがプラス600。昨日、カバはライオンを巻き込んでおきながら大した成果が上がっていないのが不思議だが……まぁ良いだろう。今後、くれぐれも気を付ける様に」
金剛の言葉にカバラインのラインリーダーが少し不貞腐れたような顔をしているが、特にピックアップされている作業員でないため、これ以上の描写は無意味だろう。金剛もカバラインリーダーに一瞥を投げるだけで話を終わらせており、次の報告に移っている。
「え~……次は災害についてだが」どこかばつが悪そうな表情の金剛だったが、すぐに義務用フェイスに戻る。「この工場で災害が――事故が起きてしまいました。今朝のことなのですが、通勤中の作業員が瓦礫――隕石に直撃しました。これは自然災害であり、当たってしまった作業員は不運だったと言えるが、怪我も大したことなく、明後日には作業に復帰出来るとのことである」
紛うことなく人災である。
災害のことを話し始めた金剛がどこか機械的になっているのは、きっとそうゆうことなのだろう。これは事故であり、自然災害――そもそも、誰があの小柄な体で瓦礫を投げられると思うのだろうか? スナイパーが向かい風の3キロ離れた場所から狙撃するようなものである。
「さて……ここからは大事な報告が一件」金剛が一度未だに倒れている兎に視線を投げたように見えた。「この工場では週に3回、残業が禁止されている日があるが……」
週3回と言うが、3回の内1回は土曜日のことであり『基本的には』休みである。あとの2回は水曜日と金曜日で、どの作業員も遅くても18時には帰るように決められているのである。
「本社からのお達しで、今月の水曜日と金曜日、週に一度どちらかは残業してくれとのことだ」金剛のもっと働け宣言に作業員たちが騒がしくなる。中には工場長である乙愛が普段いる部屋(更衣室)に向かってブーイングを投げる作業員までいる始末である。「あ~……残念ながら、このことに関して工場長はノータッチだ。先月、機材の不良により、数が出せなかったことも問題なのだが……」
先ほどから、どうにも金剛が笑いを堪えているように見える。もっとも、堪えているだけではなく、倒れている兎を見る度、どこか困り顔を浮かべており、表情の意図を察することが出来ない。
「馬鹿――ではなく……どこかの犬が巡り巡ってこの工場に無理難題を押し付けているようだ」この工場で犬と呼ばれているのは工場が出来て50年、1人しかおらず、金剛の視線からも察することも出来るが、およそワンコであろう。「どこの馬鹿の入れ知恵か知らんが、ここ最近、執着にクレームばかり入れてきているワンコがいるせいだ」
作業員の幾人かが頭を抱えたのが見えた。察したのだろう……ワンコか。と――つまり、この工場にいる人間のほとんどはワンコのこの行動が納得出来るものであり、尚且つ尻尾を追う犬の如く真正面に自分のことだけを見ているのだ。と――。
しかし、そんな作業員に混じって、志稲が兎からあからさまに顔を逸らし、困惑していた。
ワンコさんに何が出来ますか――この言葉に責任が持てなくなったのだろう。確かに、それほど大きな悪事……と、いうより、悪事とも呼べないものだが、工場勤務で残業が続くというのは辛いのである――辛いのである。
故に志稲はまったく害を及ぼさないだろうワンコという体で兎を励ましたために、その言葉に責任を感じてしまったのである。志稲はこの工場の良心と半分常識である。顔は怖い。
そんな志稲を夜恵は呆けた表情で見ているのだが、首を傾げ、どこか思案顔――だが、すぐに志稲の表情に気が付き、苦笑い。
「だ、大丈夫だよ。う~ちゃんもこれくらいなら笑ってくれるって」
「……夜恵、覚えておいて――残業って、大変なんだよ」
「え? あ、うん……あれ、でも求人には――」
「以上で朝礼は終了だ。では、本日も安全第一に」
金剛が締めの言葉を放ったことで、作業員がゾロゾロと動き出した。
夜恵が何事かを口走っていたが、周囲の人波が動き出し、志稲も兎を引きずりながら歩き出したために、夜恵もついていかざるを得なかった。
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