第2章 第1話 兎に懐く犬のこと

「お?」

 着替えを終えた夜恵は伸びをしながら更衣室から出た。

すると、外では兎が待っており、夜恵と視線が合うと片手を上げた。


「おぅ、さっきはまともに挨拶も出来なかったからな。おはようさん」

「うん、おはよぉ」再び、夜恵のにぱぁ。

「……表情に一切の曇りがないですぜ」


「うん? っと、そういえば志稲は? お仕事中かな?」

「あ~、まぁ仕事中だな。癇癪起こした親父を止めるっていう面倒な仕事中だ」兎は通路を挟んだ扉を指差し、先ほどから鳴りやまない轟音にため息を吐く。「あのババ――妖女……偽幼女も、我が儘と癇癪持ちと傲慢さと少女臭を失くせば慕われるんだけどな」


 減らすものが多すぎて、それらを失くしてしまったら龍宮 乙愛は存在しないだろう。そもそも、この工場内で乙愛の評価は4つしかなく、一つが恐怖、もう一つが物好きたちからの信仰、さらには金剛を含めた実力者たちからは討伐対象という風に見られており、普通ではない。そして、夜恵からの12歳で頑張っている可愛い工場長ちゃん。と、いう評価である。

 最後の夜恵からの評価以外はすべて真っ当であり、どの勢力の言い分も納得できるものである。


 ただただ、拳を振るう姿が恐ろしいのは当然だが、その拳を強さの象徴、そしてそれが見た目幼い少女から放たれたとあっては信仰するのも理解できる。しかし、その拳を畏怖としてさらには悪影響をもたらすのだとしたら、倒さなくては。と、猛者は思うのだろう。


 これでは邪神の類ではないだろうか?


「さて、そんじゃあそろそろ行きますぜぃ。今日の朝礼は食堂じゃねぇからな」兎はそう言って歩き出す。最初の非常識な言動も見る影もなく、夜恵が通り過ぎるまで扉を開けたままにしておくなどのレディーファースト。「ほれ、もう親父も騒いでねぇが、食堂は瓦礫だらけですぜぃ。コケねぇように気ぃつけろですぜぃ」


「………………」夜恵は意外にも紳士的な行動をとる兎に驚く。誰でも驚くだろう。「う~ちゃんって、面倒見良いよね?」

「あ? そうかい? まぁ、昔っから手のかかる奴の面倒見てきたからですぜぃ」

「私は面倒じゃないもん」夜恵はそう言って膨れるのだが、すぐに普段通りの人懐っこい笑みを浮かべ、兎の腕に抱き着く。「うん、じゃあエスコートしてもらおうかな」


「ふぉあぁ!」しかし、先ほどまで余裕そうな表情だった兎だが、相変わらず女性耐性がないため、すぐに体がガチガチと強張りだす。「じょ、嬢ちゃんはもうちっと手加減ってもんをだな――」

「む~、せっかく格好良かったのに、すぐこれだぁ」

「しょうがねぇですぜぃ――ああ、わかった。慣れるですぜぃ、だからもうちっと離れてくだせぃ」


「うん、あとでね」

 そんなようにして、夜恵は兎をからかうのである。しかし、ふと夜恵が首を傾げる。


「ねぇう~ちゃん、さっき手のかかるのって言っていたけど、今もいる人?」

「おぅ? 何でですぜぃ?」

「う~ん、昨日見た感じだと、う~ちゃんのことを頼ってる人なんて一人もいなかったような……」


「……もうちっとオブラートに包んでくれやがりませんかねぇ」兎は肩を落とすと食堂から出た場所にある喫煙所に夜恵を引っ張り、窓を開け、煙草に火を点ける。「あ、煙草吸っても良いですかぃ?」

「吸ってから聞かれても――うん、気にしないよ」

「ん――あんがと」そこそこ広い喫煙所。大きな窓も二つあり、兎とは別の窓側に移動した夜恵を横目に、外に向かって煙を吐き出す兎。「えっと、何だったか――?」


「う~ちゃんが面倒見た人の話」

「ああ、それな――一応、今もいるんですぜぃ。ただ、昨日は休みだったってだけですぜぃ」


「あ、会ってみたいかも」

「まぁ、どっかで会えるですぜぃ。それに声だけは嫌でも聞くことになるしな」兎はポケットから、金柑の花から運ばれてきた蜂蜜を飴にした『ニーベルン製菓・はちみつ(きんかん)のど飴』を夜恵に向かって投げる。「もう一人……ああ、確か嬢ちゃんと同い年だったな。そいつはもういねぇけど、嬢ちゃんとは違った意味で手のかかる奴でなぁ」


「だ~か~ら~、私はちゃんとしてるもん!」ちゃんと――この言葉を辞書で調べると、1・さっと素早く。2・基準に合致し、条件を満たしている。3・間違いのないさま。である。もっとも『ちゃんとしていない』人間というのは、言葉通りに当てはまるわけではなく、どことなくちゃんとしていない。という意味として使われているため、夜恵はちゃんとしていない。に当てはまるだろう。


「あ~、はいはい、そういうことにしておくですぜぃ。そんで、そいつも嬢ちゃんみたいに、あまりにも自分を理解してない奴でさぁ」

「――?」

「まぁ、嬢ちゃんは周りがしっかりしてりゃあ問題ないんだが、そいつは……」兎が頭を抱える。「とんでもなく頭が悪くてなぁ」

「おバカさんなの?」

「ああ――いや、言われたことはちゃんとするんですぜぃ。ただ、変なアレンジを加えたり、言動がおかしかったり……そうさな、例えば――」


「トムの威を借るキャリー。とかな」一体、トムは何者なのだろうか? 兎が例えを言おうとした時、顔を出した金剛が苦笑いを浮かべながら話す。「これは難解だぞ。カーヴェーに20口径152ミリ――」KV―2が壁の外で砲塔を向けてきていると想像するだけで悪寒がするが、これはどちらかというと、鬼に金棒の意の方が強いのではないだろうか?


「お、頭、親父はもう良いんですかぃ?」

「ああ、スルメを与えたら大人しくなった」何と安上がりな女なのだろうか。金剛が兎の隣に並び、窓枠に腰を掛ける。「ところで一体、どういう会話の流れであれの話をしているんだ?」


「えっと、う~ちゃんが意外と面倒見が良いって話をしてて」

「……なるほど」金剛が大きな手を一度兎の頭に乗せると、鼻から息を吐く。「そうだな。兎は基本的に後輩に好かれる。と、言っても同性だけにだが。俺や工場長などの所謂、偉い立場の人間には食って掛かるが、そういうのが好きな部類には好かれているぞ」


「わっ、そうなんですねぇ。あ、でも、確かにう~ちゃん、班長や工場長ちゃん、志稲にしか変なこと言ってないもんねぇ」

「……変なことじゃないですぜぃ」


「まぁ、そんなわけで、今兎が言った奴も懐いていてな。最終的になんて言ってここを去って行ったんだったな?」金剛が兎の頭を乱暴に撫でた。

「あ~、あれですぜぃ」兎が困ったように頭を掻く。「自分で言うのは恥ずかしいですぜぃ」


「だろうな――そいつはな。ここを辞めたわけではなく、本社に異動になったんだが……」笑いを堪える金剛が照れ笑いの兎の頭を指で弾く。「『兄様、ウチが偉くなってあの物の怪を階段にして社員にしてあげるです』だったな」


 階段とは踏み台のことである。

 そして、ここでも悪名が轟いている乙愛である。


「ほぇ~、う~ちゃん、慕われていたんだねぇ」

「まぁなぁ。最も、あれは五星社長の姉の旦那の弟の孫でしかねぇですから、あの頭で偉くなるのは無理だと思うですぜぃ」

 つまり、遠縁である。だが、頭の中身はない。


「でも、聞いてる感じだと良い子だよね?」

「ああ、工場長に対して常に威嚇していたが、頭を撫でるだけで雑用を全てやってくれるほどには使い勝手の良い青年だったな」

「……頭、良い子の良いの部分をはき違えてますぜぃ」兎は煙草の煙を吐き出しながら、窓から遠くを見つめる。「そうさな、馬鹿だが愛嬌もあったし、親父以外には尻尾をフリフリしてるかの如く人懐っこかったですぜぃ。と、いうか、あれの話をしていたら、何だか心配になってきたですぜぃ」


「あらら――なら、連絡でも取ったら?」

「……あいつ、ここにいた時は黒電話使ってたですぜぃ? メカは爆発するから持たないとかなんとか」

「え? その人って、その……」夜恵が視線を兎から外し、可哀そうなものでも見るかのように、兎と同じように窓から遠くを眺める。「本社で何やってるの?」

「……エアコン関係の事務全て」


「………………」

 夜恵でも沈黙してしまうほどの衝撃――社会に出れば必須である携帯電話を持たず、一体、どうやって意思疎通を図るというのだろうか。


「うん? それなら心配ないぞ」金剛がどこか優しい笑みを浮かべ、兎の肩を叩く。「あれは本社へ行き、随分としごかれたようだぞ。携帯も使えるようになり、パソコンも使えるようになり、車の運転も出来るようになり、仕事のほとんどは優秀な部下が回しているそうだ」


「そ、そうなんですかぃ。ああ、ちょっとホッとしたですぜ――」

「そして、只今絶賛道を外しているそうだ」

「あっしの安堵の息を返してくだせぇ!」


 兎が外に向かって「ワンコぉ」と、叫んでいるが、ツッコむべきところが他にもあるような気がする。


 そもそも、現在25歳の人間が、何故今さら携帯電話とパソコンを習わなくてはいけないのか。次に部下が仕事を回している。と、金剛は言ったが、つまり必要のない人間ということにならないだろうか。


「え、えっと――」夜恵は兎の背中をポンポンとしながら、金剛に尋ねる。「道を外してる。っていうのは?」

「うん? ああ、別に悪いことをしているわけではない。ただ、周りの奴らに色々と吹き込まれたのだろうな。偉くなる。と、いう目的のために動いていた故に、偉くなるためにこの工場を潰そうとしているだけだ」


 アホである。


「え? それって大変じゃ――」

「さて、そろそろ朝礼が始まるぞ。兎、そんなところで落ち込んでいないで、ちゃんと美月さんを連れてきてくれ」


 去っていく金剛の背中と落ち込む兎を夜恵は交互に眺め、大きく深呼吸した後、兎の腕を取り、喫煙所から出ていくのであった。

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