第2章 残業増やすのは止めてくださいお願いします何でもしますから(A・なら残業)

「うん――」夜恵は工場の入り口の前で首を傾げていた。この工場2日目の朝なのだが、何か思うことがあるらしく、夜恵は立ち尽くしていた。「私……昨日何もやってない!」


 嗚呼――夜恵は気が付いてしまったのだ。昨日一日、金剛には、見て作業を覚えるように言われていたのだが、結局練習用のラインでも乙愛が喋りっぱなしであり、乙愛はちゃんと教えようとしていた兎を押しのけ、夜恵のことを根掘り葉掘り聞くだけで1日が終わったのである。


「あ~、どうしよう……今日、多分作業のことについて聞かれるよね。あぅ、私、何も答えられないかも」うな垂れる夜恵。およそ、彼女が覚えていることはこの会社のエアコンのことと、どうして大量のエアコンを作っているかのことだけだろう。「う~ん……」


 夜恵が可愛らしく唸っていると背後から近付く2つの影――。

「おや――」

「……何やってんだ嬢ちゃんは」

「みゃぁ!」突然聞こえてきた声に夜恵が奇声を上げる。「――って、班長さんとう~ちゃん」


「……うん? う~――なんだって?」兎――う~ちゃん(35歳)が自分のことを指差し、恥ずかしそうに周囲を見渡しながら大きく息を吐く。「35歳のオッサンに付けるあだ名じゃないですぜ」

「そう? いい加減あんたじゃ可哀そうだと思って、頑張って考えてきたんだけれど……」顔を伏せ、上目づかいで兎を見上げる夜恵。「だめ?」


「ぐはっ!」鼻を押え、よろける兎。

「おっと――」しかし、金剛が肩を掴み、何とか兎は倒れずに済んだ。「お前もいい加減慣れろ。1日目なら許すが、2日目は何とか対応できなくては一人前とは言えんぞ」


「……か、頭は直に受けていないからそう言えるんですぜぃ。こ、こいつは全身凶器ですぜぃ」


「――?」夜恵の無防備さは最早ツッコむまい。

「心頭滅却すれば火もまた涼し。と言うだろうが。鍛錬が足らん」

「……意識して滅却しなければ頭でもキツいってことで良いんですかい?」

「揚げ足を取るな」そう言う金剛の視線は明らかに夜恵を避けていた。「――そんなことより、だ。おはよう、美月さん」


「はい! おはようございま~す」夜恵のにぱぁ~。

「――ッ!」

金剛は夜恵に笑顔を向けられた瞬間、兎の頭を掴み、兎の顔を思い切り自分の方に向ける。


「ぐぇ――」

「………………」そして、泡を吐く兎をしばし見つめた金剛は息を吐き、夜恵に笑みを返す。「初日はどうだっただろうか? 何か困ったことはなかったかい?」

「あぅ……」夜恵は困ったような表情を浮かべ、言いよどむ。「えっと、その――」


「ああ、昨日のことは気にしなくても良い」金剛が察したように声を上げて笑い、夜恵の頭にそっと手を置いた。「あの物の怪――クソ工場長……龍宮工場長がいて集中出来なかったのだろう? あれの監視をしていなかった俺にも責任はある。美月さんが気にする必要はないよ」


「あぅ、でもう~ちゃんはちゃんと教えてくれようとしてたのに、私、志稲と工場長ちゃんとずっと話してたし」

 と、夜恵は言うが、夜恵と志稲と兎の3人だった場合、延々とお喋りするという状況が生まれたかどうか――きっと生まれなかっただろう。どう見ても乙愛がスイッチになっており、真面目に教えようとしていた兎を押しのけたのも乙愛なのである。


 乙愛にお喋りを止める様に言わないのも悪いという意見もあるだろうが、高速で人間の四肢の骨を一瞬で外し、本気で大地を蹴れば、暴風を伴いながらコンクリートを巻き上げる化け物に、誰が物を言えるというのか。と、考えてほしい。


「それに……」金剛がニヤリと口元を緩める。「大義名分が出来たからな。久々に運動出来たよ」

「え?」

「いや、何でもない――」


 夜恵は首を傾げるばかりだが、あの金剛の顔からして昨日何かあったのだろう。何かは聞かないが、およそ、この工場のどこかが見てわかるほどの変貌を遂げているのだろう。


「さて――まだ時間はあるが、美月さんも着替えてくると良い」金剛は兎を肩に担ぎ、空いた手を夜恵に向かって上げる。「それでは後で――」

 呆けた表情の夜恵はつられるままに金剛に小さく手を振り返す。

 しかし、よく考えてもしょうがないと察したのか、夜恵は一度肩を竦め、更衣室へ向かうために食堂を通るのだが……。


「え? 何これ――」

 惨状――一言でいえば、それだけである。

 食堂の至る所に大穴が空いており、窓側の壁はほとんど機能していない。オシャレに言えばオープンテラス、前向きに言えば廃墟レストラン、ポジティブに言えば斬新な建物、前向き駐車をネガティブに停める程度には顔を引き攣らせるだろう。

 そして、机を潰しているひときわ大きな瓦礫の上には真上からちょうど光が差しており、その光を反射するようにキラキラと煌めく金色の髪――瓦礫を椅子代わりにしている少女が不貞腐れていた。


 この光景だけ見るととても幻想的であるが……。

「クソ、勇雄のば~か、どうしてあたしが瓦礫の撤去なんか……」乙愛がいる。

「わ、わ――工場長ちゃん? どうしたの?」

「あら夜恵ちゃん、おはよう」

「あ、おはようございます」夜恵は瓦礫を避けながら乙愛に近づく。「何か爆発でもしたの?」

「……勇雄の堪忍袋の緒が」

「へ?」

 緒は切れるだけだと思っていたが、この工場の人間は爆発させるらしい。


「あ~……気にしないで。それより夜恵ちゃん、危ないわよ。今、見ての通り、瓦礫を失くしているのよ」失くす。とは? 乙愛が大きな瓦礫から腰を上げると、近くにあった直径30センチほどの瓦礫に手を添え思い切り押し込んだ。「ほぃ――っと」

……粉々になった。


「……えっと、それで全部片づけるの? 手伝いますよ?」

「良いのよ、夜恵ちゃんに手伝わせたら、また勇雄にどやされるわ」ため息を吐き、乙愛は瓦礫を次々と砂へ変えていく。「兎を待っているのだけれど……いつになったら来るのかしら?」

「あ、う~ちゃんなら、班長さんが抱えていきましたよ?」

「……クソ、先手を打たれたわね」乙愛は舌打ちをすると諦めたように肩を落とし、夜恵に向き直る。「まぁ、気にしないでちょうだい。夜恵ちゃんは早く着替えてらっしゃい」

「あ、はい――」


 乙愛の言う通りにする夜恵は更衣室へと向かうのだった。

 そして、着替えが終わった辺りで、食堂の方から乙愛の「あ~~~~~もうっ!」と、いう叫び声とともに轟音と何かが外に落ちた音が聞こえ、夜恵は終始肩をビクつかせていた。

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