第1章 第6話 忠犬鳥頭
「まったく足りていないではないではないですか!」変に言葉を繋げた男が机を叩く。
夜恵たちのいる工場から大分離れた場所にある五星の本社――そこで、男は手に持った書類を見て体を震わせていた。
「今年の夏は『もうあつ』だと言われているはずではないではないですか……」この少女のような顔と小柄な体の男――犬井(いぬい) 幸獅(こうし)25歳。今でこそ眉間に皺を寄せ、難しい顔をしながら苛立ちを隠しもしていないが、以前はワンコと呼ばれ、マスコット的な存在の男であった。そんなワンコが見ている書類は、今月のエアコンの製造数が書かれた紙である。「これじゃあ足りないではないではないですか。も~、エアコン工場の奴ら、相変わらずのうのうと作業しているのではないではないですか」
相変わらず――そう、ワンコこと犬井 幸獅は元々五星エアコン製造工場で働いていた人間だったのであるが、五星の社長の縁者ということもあり、今では本社に籍を置き、出荷やら何から何までのエアコンの事務を任されているのである。
「まったく……あの工場の奴らはどうしようもないですはないですね」この男の放つ言葉こそどうしようもないものであるが、理解はしていないだろう。「……ふむ、これは『お経を据える』ためにも要望を出しとかなくてはないならないでしょうね」
最早、日本語が意味の分からないレベルの言語と化しているが、ここにはワンコしかおらず、誰も指摘する者はいない。
ちなみに、およそ彼が言っているのは経ではなく、灸であろう。
「ふふふ――あそこの連中に、首が増えたウ――私の力を見せてあげるですよ!」首が増えた? ワンコがキラキラとした瞳を携え、顔の横に狐を作った両手を並べ、わん。と、吠える。「けるべ――けるべです!」
仮に首が増えたとして、それで喜ぶのは冥府の主だけだろう。エアコンその他を扱っている本社では使われない通り名ではなかろうか。そして、そこまで言うのであれば、『ロス』まで付けるべきではないだろうか? ロストしているのはワンコの頭の中である。
ここまででわかる通り、頭の中が相当足りないワンコである。
ワンコは自信満々な表情で、エアコン関係の書類を手に持ち歩みを進める。
向かう場所は定例会議の場――ワンコは会議室の扉を思い切り開け放ち、したり顔を会議に集まった重役たちに向ける。
「……いや、君――30分の遅刻なのだが」重役の一人――龍宮 厳路(げんじ)が頭を抱えながら言い放つ。「まぁ、いつものことだから、君には30分早い時刻を教えていたが……」
「忘れてました!」
「……だろうな」
乙愛の父親である厳路なのだが、彼女とは違い、厳格でありながら優しさを内包した瞳が様々な人々に信頼されている五星の専務である。
そんな厳路であるからか、ワンコのことをよく理解しており、人懐っこく歩いてきたワンコの頭を一撫でした後、会議が始まる前に彼の携帯電話のスケジュール表に今月の予定を全て打ち込んだ。最早、お父さんである。
「うむ。ワン――犬井くん。今日もちゃんと出てきてくれて感謝するよ」
25歳の社会人に対して放つ言葉ではないと思うのだが、ワンコはこうして褒めた方が良く働いてくれるのを知っているために、周囲に甘やかしすぎている。と、指摘されようとも厳路はワンコの面倒を見ているのである。
その甲斐あってか、ワンコは業務態度こそあれだが、そこそこの仕事をやってくれ、その人柄から取引先の人間にはとんでもなく好かれるという。
そんな風に厳路はワンコを今日も世話しているのだが、重役の一人が咳払いをしていることに気が付き、会議が始まる。
しかし、この時期、特に話すこともないためか、全員が黙りしている。
「……今の時期、あまり市場が動かないからな。普段通りで良いだろう」そんな中、厳路がその場にいる全員に言い放つ。「この時間が惜しい。各々、作業に戻ると――」
「はい! はい!」ワンコが元気いっぱいに手を上げる。
「ん? 犬井くん、何かあるのかな?」微笑む厳路。
「エアコン工場にいる役員は即刻こちらに戻すか、もしくは辞めさせるべきだと思いますですです! 特に工場長!」
「………………」厳路が両手を使って頭を抱える。当然である。乙愛は娘であり、ワンコはその娘を辞めさせろ。と、言っている。まさに飼い犬に手を噛まれたのである。
他の役員たちがワンコに対して理由を問うのだが、ワンコは胸を張る。
「まず一つ! 先月――と、いうより、ここ数か月、エアコンの数が例年より下回っているから! 次に工場長である龍宮 乙愛は権力に物を言わし、従業員に恐怖を与え、作業を妨害してているです!」
エアコンの数については元々無茶な台数だからだが、乙愛に関してはまったく反論が出来ない。
その場にいる役員たちが厳路を横目に笑いを堪えているが、元々あのエアコン工場には問題しかなかったのだろう。各々が何度も頷き、中にはワンコの言う通りだと言い、龍宮 乙愛を工場長の任から解くべきの声が多数上がった。
「だからウチ――私が提案したいのは、エアコン工場の解体です!」
「――うん?」厳路が首を傾げる。そして、役員たちもワンコを呆然とした表情で眺めている。「……解体? 工場を? 何故?」
「すでにエアコン工場内部は腐ってるです! 工場長に対してオカルトじみた信仰を抱いてる作業員もいる始末です! 故に一度解体し、工場の数を増やすことを提案するです!」
「……既存の作業員たちは?」
「みんな腐ってるですから辞めていただきまふ!」
「……犬井くん、君はどうして偉くなりたかったのかな?」
「工場長を倒すためです!」
厳路の頭の抱えようから、きっとワンコが偉くなりたかった理由は別にあったのだろうが、如何せんワンコはアホなのである。目的がすり替わってしまったのだろう。
「その案――面白い……」と、役員や厳路が呆然としていると、奥で黙っていた男が声を上げる。「犬井 幸獅――貴様にあれが倒せるか?」
「はいです!」
「……社長」
今、ワンコの提案を面白いと言った男こそ、この五星の社長である、一星(ひとぼし) 睦良(むつら)である。
「ワンコよ! 貴様がどれだけのことを出来るかはしらんが、ワシを楽しませろ!」
「あいあいです!」
騒然とする会議室――そんな場所で、ワンコこと犬井 幸獅は社長である一星 睦良にエアコン工場を解体する任を受けたのであった。
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