第1章 第3話 ゾンビ体操第一!
朝――と、いうよりも、寝起きでの出勤というのは誰しもが怠いと感じる時間である。もう少し寝ていたい。今日は休みたい。などなど、様々なマイナスの感情が脳だけではなく、体と心を渦巻くだろう。
しかし、社会人――会社や自分の生活のために喝を入れねばならず、この朝を乗り切り、今日も一日頑張るのである。
そう、このエアコン製造工場でも、それらをサポートするために、朝礼の前に縄跳びやラジオ体操を取り入れていた。
そして、今日もまた、朝礼とラジオ体操を行なうため、朝礼場にぞろぞろと作業員が集まるのである。
「な~んか、覇気がないよねぇ」夜恵がダラダラと集まってくる作業員たちを見て一言。そして、胸元のファスナーを多少下げる。「と、いうか蒸れて暑い。これだけ人が集まると熱気も溜まるんだね」
「うん。鳩が入っちゃうから窓開けないし。あ、それと、えっとね……みんな、疲れてる、から、だから――」
「通称・ゾンビの集会」兎が横から声を発する。
「……生きてたんですか?」志稲が嫌悪感を隠しもせずに言い放つ。
「あのババア、何も言わずにマッハパンチかましやがって……」兎が腹部を撫でる。「っと、自己紹介してなかったな。あっしは卯佐美(うさみ) 虎丸(とらまる)だ――って、お~い」
卯佐美 虎丸(35歳)が自己紹介中だというにも関わらず、夜恵と志稲は休日どこに遊びに行くかを話していた。
「……む、無視はよくねぇですぜ。あっし、大声で泣いてもっとウザくなるですぜ?」
「ウザいって自覚があるんなら黙ってなさいよ」
「あ、あんた辛辣だな。これでも一応先輩ですぜ?」
「私、尊敬できる相手以外には敬語も使わないし、無視できるような人だから」満面のニッコリ顔――夜恵はこの兎を格下だと見なしたらしい。「もちろん、志稲はちゃんと尊敬してるよ。私と歳近いのに、ラインのリーダーやってるし、良い子だし……でもあんたには興味ない!」
「ヤだこの子正直」兎が口を手で覆い、ショックを受けたような表情を浮かべた。「……いやまぁ、そりゃあな、あっしも口が悪い態度が悪いは自覚しているが、これでも10年頑張ってきたんですぜ? あんまりじゃねぇですかい?」
「う~ん……」夜恵は考え込むと、すぐに思いついたように表情を明るくし、兎の正面に移動する。「じゃあ、その頑張りはこれから見せてよね」
夜恵は体を傾け、兎の口元に人差し指を近づけ、ウインクを投げ、歯を見せて笑う。
「――ぐはっ!」突然鼻から血を噴出させる兎。
「え? ちょ――」
「や、夜恵! その体勢、胸――」
腰を曲げ、体を多少屈めているためか、兎を見上げる体勢になっている夜恵。
そして、それは兎目線だと、腰を曲げながら胸――つまり下着を見せていることになり、先ほど下げたファスナーのせいで、谷間までばっちり見せているのである。
「え? 胸――? あ、ほんとだ」夜恵はただ何のこともなく、ファスナーを上げる。「というか、ここの人、女性に対する耐性なさすぎじゃない? ビキニで工場歩いたら、絶対何人か出血多量で死ぬよね」
「あ、えっと……」志稲は相変わらず言葉に詰まるのだが、ここは声に出すべきだろう。夜恵は無防備すぎる。と。「や、夜恵、駄目だよ? あんまり男の人を刺激しちゃ」
「……ごめん。普段からこんなのだったから、これで刺激してると思わなくて」
「ううん……でも、気を付けてね? ここの人はそんなこと出来ないと思うけれど、ここを出たら野獣がいっぱい。って、工場長も言ってたから」
「そんなことないよ。みんな優しいよ?」
「……そうなの?」
「うん!」
この手のことで志稲は夜恵から学ぶべきではないと思うのだが、志稲はこの工場で働いており、兎を一撃で黙らせることが出来るほどの猛者であるため、あまり心配する必要もないだろう。
「ところで、ゾンビの集会って?」
「ああ、えっと……」
「見たままですぜい」鼻にティッシュを詰めた兎が作業員たちを指差す。「朝は怠いものだ。だから、本当は朝礼なんてしないで寝ていたいところなんだが、それはしなくちゃいけねぇ。さらに目を覚ますためだとか言ってラジオ体操をするが、もうゾンビ体操になっているからな」
「え~? ラジオ体操、気持ちいじゃない」
「それはあんたがまだここで作業してねぇからですぜ」
「そういうものかなぁ? まぁ、どうせ後で元気なくなるんだしさ、朝くらい元気で行こうよ」夜恵は前向きに、どこからか流れてきた懐かしい音楽に合わせ、体を伸ばす。「じゃ、さっさとやっちゃおうよ、ゾンビ体操――」
夜恵は志稲と兎に歯を見せ笑うと、まずは背伸びの運動。
次に手足の運動――段々と夜恵に視線が集まる。
腕を回します。の声に合わせて夜恵が腕を回すのだが、胸が邪魔なのか、腕が何回も当たり、その度に悩ましげな声を上げ、胸を揺らす。
「ん――って、みんな元気じゃん」
「……体の一部がですぜ」
周囲の作業員たちが目を赤く充血させ、先頭で何故かダンスらしきものを踊っている乙愛に目もくれず、ほとんどが夜恵に釘づけになりながら、夜恵の動きに合わせて大きな身振りでラジオ体操を行なっていた。
足を開いて胸の運動――その瞬間、作業員たちから歓声が沸いた。
「うん?」その歓声により、自分の世界にトリップしていた乙愛が戻ってくる。その額には汗が流れており、ラジオ体操以上に元気いっぱいを演出していた。「あら、今日はみんな元気ね――うん?」
金剛が頭を抱えて夜恵を指差す。
「………………」自分の胸を触り、引き攣った表情を浮かべている乙愛だが、すぐにハッとなり、小さく呼吸を繰り返すと、「ふんっ!」と、一声――そのまま床を足で踏み抜き、作業員たちの背中を睨む。「あ~ん~た~た~ち~?」
その瞬間、夜恵と志稲、別の趣味を持った作業員たちを除いた作業員が一斉に「ヒっ!」と、声を上げ、視線を夜恵から外した。
「――ったく」
乙愛は呆れながらも、作業員たちから視線を外さなかった。そして、ラジオ体操が終わると、メガホン片手に腰に手を当て、乙愛がため息を一つ。
「あんたたち、朝から盛ってんじゃないわよ。あたしを見なさい」そして、夜恵に視線を向け、苦笑い。「夜恵ちゃん、これからは一番後ろでラジオ体操すること。良い?」
「え? 何でですか?」わかってはいたが、無自覚。
「……段々心配になってきたわ。あの子、よくここまで素直に育ってきたわね」
「……大事にしてくださいよ」金剛は終始頭を抱えていた。と、いうより、夜恵から視線を外していた。
「こればかりは貴方に従うわ。志稲、呆けていないでフォローよろしく――」
「ハっ!」乙愛の声に、男性作業員同様、夜恵の胸に釘付けになっていた志稲が今さらながら男性作業員に対して、殺気すら感じる睨みを見せる。
そうすると、さらに朝礼場はざわめくのだが、すぐに乙愛が手を叩く。
「はいはい――みんなちゅうも~く」そうして、乙愛が後ろにある電光掲示板を指差す。「それじゃあ、各班の進捗を発表するわね――」
乙愛が次々とラインのノルマのプラスマイナスを発表していくのだが、ふと夜恵が考え込んでいるのがわかる。
「夜恵?」
「う~ん……あの電光掲示板、数字おかしくない?」
「残念、現実ですぜ」
夜恵が言っているのはプラスマイナスの数字ではなく、計何台のエアコンを組み立てたかという数字のことである。
「……もうすぐで万いきそうに見えるけれど」
「や、夜勤さんも合わせて、だよ?」夜恵の目を見てその言葉を吐けない志稲である。正直な娘なのである。
「人間の限界スピード超えて――あ、ここの人みんな超えてるのか」
納得してはいけないものに納得しなければならないほど、その数値は異常だった。
もちろん、人が多く、工場が広く、ラインが長いのならその数値も納得出来るだろう。だが、どこからどう見てもその半分くらいの数値が出せるか出せないかの規模であり、一般人の2倍以上の速度を出さなければならないのではなかろうか。
「……今は忙しくねぇからな。後々もっと増えるですぜ?」
兎が呪いの言葉を残すのだが、夜恵は最早、言葉が出ないのか、悟りきった表情で、乙愛の話に耳を傾けていた。
「こら~、カバライン、大分遅れているわよ。もうちょっと気合入れなさい。今日は残業ないんだから、定時までにプラスに戻しておきなさいよ」
夜恵には死刑宣告に聞こえているだろう。
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