第1章 第2話 初めて尽くしと誰それと

「良し――変じゃないかな?」外からは小鳥の囀りが鳴り、始まりを祝福するように春の風が爽やかに吹く。夜恵は工場内にある広々とした更衣室で、作業着に袖を通していた。「更衣室、広すぎでしょ」


 大物女優の控え室のように一室丸々使える更衣室。机だけでなく、ウォーターサーバーやテレビ、シャワー室まで付いている更衣室に、夜恵は驚きの表情を浮かべる。


「夜恵ちゃ~ん」

「うわ、びっくりした!」

 突然、扉が開き、そこから乙愛が顔を出したのである。


「ゴミ掃除ついでに確認をね」

「ありゃ、工場長が掃除してるんですか?」

「も~う! 硬いわよぉ。あたしのことは乙愛ちゃんって呼んでいいわよ」


 新入社員が、およそこの工場で一番偉い人に対して、そんな風に呼べるわけがない。故に夜恵は困った表情を浮かべる。


「あ、えっと――あ、私も掃除手伝いますよ!」

「ううん、もう終わったから大丈夫よ。ありがと」ニコリと笑うその顔は少女のそれだが、夜恵に隠すように後ろで組んでいる手には血がついていた。「夜恵ちゃん、一応、こっちでも気を付けるけれど、薄着は控えてね? 暑かったらしょうがないけれど、ノースリーブとかは駄目よ」

「へ? ああ、はい」

「今も大きなゴミを6つもゴミ箱に持っていたんだから」頬に手を添え、乙愛はため息を吐く。そして、自分の胸元を触り、夜恵の胸を見る。「やっぱりおっぱいかしら?」


「え?」

「ううん、何でもないわ。それより、作業着はどう? 大きくない? 小さくない? あたしの目視で測った、だいたいのサイズだから、間違っていたら困るな。って」

「あ、ですよね。服のサイズ測ってないし、聞かれてもいないから作業着どうするのかって、思ってたんですけれど、工場長が決めてくれたんですね」

「そうよぉ。それで、大丈夫?」

「はい、ぴったりです。ただ――」夜恵が困ったように裾を引っ張る。「ちょっと短くなっちゃって」

「それがおっぱいの力かぁ!」羨ましそうに、悲痛に叫ぶ乙愛。


 その声に夜恵はピクリと肩を跳ねさせたが、すぐに苦笑い。乙愛の頭を撫で、可愛いと言いながら一緒に更衣室から出る。


 すると、外では金剛がおり、夜恵に向かって頭を下げる。

「おはよう。調子はどうかな?」

「はい。ばっちりですよ」

「それは良かった。うん?」金剛が半目の乙愛に気が付き、首を傾げる。「挨拶してほしいんですか?」

「あんたの挨拶なんていらないわよ。それより、こんなところで待っていないで入って来れば良かったじゃない」


「貴女に、みすみす攻撃のチャンスをやるほど抜けてはいませんよ」

「あら、朝の運動は気持ちが良いわよ?」乙愛が指の骨を鳴らし、好戦的な笑みを浮かべる。

「ゴミ箱にさらにプラス4、放り込んでおきましたから、朝の運動はばっちりですよ」

「計10かぁ。絶対やる奴がいると思っていたけれど、初日からとかアホよねぇ」

「……まったくです。美月さんが魅力的なのはわかりますが、自重してもらわなくては」

「――へ?」照れたように夜恵ははにかみ、視線を金剛から逸らした。しかし、すぐに首を傾げる。「あ、えっと、何の話です?」


「夜恵ちゃんは気にしなくて良いのよ。アホがいたってだけだから」

「ええ、最初の内は私と工場長、それと――」辺りを見渡す金剛だが、目的の人物がおらず頭を掻く。「ラインリーダーがしっかりと目を光らせておくので、伸び伸びとやると良い」


「は、はぁ?」

「まぁまぁ、そんな話、今は良いわ。とりあえず志稲捜さなきゃ――って、あら?」乙愛が首を傾げ、たった今、夜恵と乙愛が出てきた更衣室に視線を向ける。「……勇雄、貴方、抜けているわよ? 緊張しているの?」

「何を言って――」


「志稲、そっちにいたら紹介出来ないわ」

 乙愛が手招きをすると、更衣室の扉からひょっこりと頭の横で結われた髪が顔を出した。サイドポニーなのだろう。

「いつの間に!」夜恵が出てきた時、誰も出入りしていなかったはずなのだが……。そして、夜恵が声を上げると、控えめに、凶暴な顔が現れた。「――あ、昨日の」


「お、志稲の顔見て驚かなかった人って、初めてじゃない?」乙愛が感心する。

「いや、昨日の工場長の顔の方が怖かったです」

「もぉ~、いきなり上司に冗談も言えるなんて、夜恵ちゃん優秀過ぎるわよぉ」

 夜恵はそっと視線を逸らした。


「――――――」志稲と呼ばれた女性――朔良(さくら) 志稲(しいな)26歳が小さく口を開け、もじもじと照れていながら、控えめだが瞳の奥ではその嬉しさを隠せていないような表情で、夜恵に近寄る。「あぅ……えっと、こ、怖く、ないですか?」

「フランケンシュタインの怪物が、初めて優しい人に出会った時みたいな反応しなくても」

 夜恵の例えがとてつもなく長いが、およそ、察知したのだろう。志稲は顔が怖いだけで、乙愛や兎より何倍も常識のある人間なのだと、彼女の心が理解したのだろう。


「あ! 私、今日からここで働くことになった、美月 夜恵です」

「あぅ、えっと……朔良 志稲、です」

「そうなんだ、よろしくね!」夜恵が志稲の両手を掴む。「志稲って可愛い名前だよね――って、上司だった! えっと、朔良さん――」

「そ、そのままで!」

「え?」

「あぅ……そ、そのままで大丈夫。わ、私も……や、夜恵ちゃ――夜恵って呼ぶから」


 心の癒し。

 照れる志稲の顔を夜恵が覗き込んでいると、金剛と乙愛が驚いた表情を浮かべていた。

「し――志稲に友だちが出来たわぁ!」乙愛が大声を上げ、勢いよくガッツポーズ――そして、その声が工場中に響いたからか、あちこちで物を落とす音や驚きの声が上がっていた。「人生初? 人生初じゃない? 志稲、良かったわねぇ――」


「おいクソ工場長、黙っていろ」

「むぐぐ――」金剛に口を塞がれる乙愛。

 すると、志稲が瞳に涙を貯め、体をプルプルと震わせ、顔を真っ赤にしていた。

「ありゃ、可愛い――じゃなくて」夜恵は一瞬考え込むと、ふと思い出したように手を叩いた。そして、志稲の頭を両手で持つと、そのまま胸に抱く。「よしよし、変なことなんてなにもないから――って、これね、大学の時、落ち込んでる友だちによくやってたんだ。あんたの胸は落ち着くって」

「わぅ、あぅ――はっ」その時、志稲が、頭に電流が走っているような驚いた表情になる。所謂、ひらめき。「……み、未知の感触」


 乙愛が大きく頷いている。

 志稲も乙愛も平。


「うん?」

「あ、ううん――あ、ありがとう」夜恵の笑みにたじろぐ志稲なのだが、その表情は嬉しそうであり、10人から20人ヤッてそうな顔から、5人から10人ヤッていそうな顔になった。「あ、えっと、友だちって言われて、嫌じゃ――」

「ないよ。ないから大丈夫」

 どのような顔をして良いのかわからないのか、志稲の顔が少し歪んだものになるが、その光景はとても美しいものであり、金剛が静かに頷いていた。


「いやぁ、素晴らしいわね」

「あれを見て、貴女は浄化されるべきですね」


「百合やっほぉぉぅ! ですぜ」兎が金剛の隣に並んでいた。

「……貴様がいるだけで汚染されるのだが?」金剛が兎の頭を鷲掴みにし、苦虫を噛み砕いたような表情を浮かべる。「先ほどゴミ箱に叩きつけたはずなのだが?」


「目ぇ覚めたら、足が曲がっていてびっくりしたですぜ」兎のサムズアップ。

「……あんた、未確認生物の研究機関で働いた方が稼げるわよ?」

「それはあんたもじゃねぇですか?」


 照れている志稲だが、ふと兎に視線を向け、申し訳なさそうに夜恵の胸から顔を離す。

 その志稲の表情の意図が読み取れないのか、夜恵が首を傾げる。


「あの……えっとね――」志稲はどこか言い辛そうに夜恵に声をかけようとするのだが、どうしても詰まってしまい、肩を落とした後、不愉快そうな視線を兎に向ける。「……貴方が他の工程も出来ていれば」


「顔こわ――って、若頭(わかがしら)あっしが何でごぜぇます?」

 夜恵が考え込むように、視線を下げた。


「……志稲、もしや美月さんがやる作業は」

「……モーターセットです」

 金剛と志稲の会話に、夜恵は合点が行ったように手を叩き、爽やかな笑みを浮かべる。「チェンジで――」


「うぉぉぉい! 初対面で失礼じゃないですかいあんた!」夜恵の顔ではなく、胸に向かって兎が叫ぶ。

「初対面じゃない。昨日、散々アホやってるところ見てたよ」

 夜恵が救いを求めるような視線を志稲に送るのだが、こればかりはどうにも出来ないらしく、志稲は控えめに頭を下げていた。


 すると、乙愛が見下すような視線を兎に送っていた。

「いや、あんたまだこの工場で唯一の派遣社員だし、将来的には夜恵ちゃんの方が立場を上にするつもりよ。敬いなさい」


「え? 何で派遣?」夜恵は昨日いきなり正社員になれたというのに、夜恵より長くいるだろうこの男が何故派遣なのか、不思議そうにその場にいるお偉方に視線を投げた。


「ほんっとですぜい――おいババア、何故あっしが派遣のままなんだ? もう10年いるぞ――ぐぇっ!」飛び上がった乙愛の裏拳が兎の顔面に直撃し、兎はそのまま顔を押え、滑って行った。「な、なにすんじゃ――」

「あんたがあたしのことを世界遺産のミイラって言う度に、派遣でいる年数を増やしているのよ」

ババアという言葉をミイラと言い、さらには自分が世界遺産級であると宣言する乙愛も大概だが、確かに女性に向かって放つ言葉ではないだろう。


「え? 工場長って、20歳くらいでしょ?」夜恵は地雷を踏み抜いた。「12歳じゃ働けないし」

「……夜恵、良い子」

「ああ、あの様を見てこんな言葉が出るとは」

 金剛と志稲が目頭を押さえるのだが、この工場はどれだけの非常識が蔓延っていたのか、未だに計り知れない。


「もぉ~、あたしはぁ12歳よぉキャハっ――」

「キャハっ――とか古いんじゃクソババア。あんた、あっしがここに来た時から12歳じゃねぇ――」


 刹那――昨日聞いた「ぱんっ」と、言う音が鳴り、それと同時に風が吹き、少し離れていたはずの兎が吹き飛び、壁に叩きつけられた。

 ちなみに、乙愛は拳を構えただけである。


「……美月さんの前で遠距離攻撃しないでいただきますか?」

「やぁもぉ~」乙愛は可愛らしく体をくねらせ、夜恵の胸に飛び込む。「あたしねぇ、実は工場長代理なのぉ。パパの代わりにぃ、ここで働いているのよぉ」


 きっと、夜恵を試しているのだろう。そうでなければ、正気でこんなことが言えるはずないのである。万が一この状況でそれを言えるものがいるとしたら、それは最高にイカれた者か、自身を顧みることが出来ない者かのどれかである。


「え? でも、小学生か中学生じゃ――」

「ここではそれが通るのよ!」

「ああ、なるほど」夜恵が納得したように頷く。

「あ、う――」志稲が冷や汗を流しながら、夜恵に言葉を発そうとする。大方、本当を喋るつもりなのだろう。「や、夜恵、あのね」

「う~ん?」夜恵が志稲に視線を向ける。


「――ッ!」

しかし、夜恵が乙愛から視線を外した瞬間、乙愛が言いようのない不安に駆られるような笑みを浮かべ、志稲を見ていた。


「あ、え――」志稲が大きく息を吸うのだが、目が泳いでおり、まったく落ち着けていない表情になりながら、夜恵の袖を掴む。「あ、あんなのをフォローに立たせるお詫びで、ど、どこかに遊びに行かない?」

「え? 本当? 行く――あ、でも、気にしなくて良いよ? あんなのと一緒にやらなくちゃいけないのは、志稲のせいじゃないし。そういうの抜きで遊びにいこ? ね」


 志稲はそっと夜恵に抱き着いた。

 志稲は悪くないのである。権力と暴力と変態がこの世の悪なのである。


「……美月さん、この工場にいる間、出来れば志稲か私から離れないように」そして、金剛は強く頷く。「いや、通勤中にあの馬鹿が接近することも考慮しなくては――送り迎えもしよう」

「え? い、良いですよ、そんな――」夜恵が顔を赤らめる。

「もぉ勇雄。貴方、年頃の女の家に毎日行く気かしら?」

「――? それが何か? それと毎日ではありません。仕事がある日です」

「……あんた、だから独身のままなのよ」

「――? それになんの関係が?」


「もう良いわ」乙愛はため息交じりに金剛に向かって手をヒラヒラと振る。そして、夜恵と志稲に視線を向ける。「それじゃあそろそろ朝礼よ。夜恵ちゃんは志稲について行ってね。と、いうか、これから慣れるまでは志稲と一緒にいなさい。志稲もフォローは他の子に任せちゃって良いから、夜恵ちゃん優先ね。勇雄、行くわよ」未だに首を傾げている金剛を連れ、乙愛は歩き出した。


「はい」

「あ、はい――」夜恵はそんな乙愛の背中を眺め、感心したように息を吐いた。「工場長、しっかりしてるなぁ。あれで12歳かぁ」

「……夜恵」志稲は苦笑いを浮かべることしか出来なかったようである。

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